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⑯丹波亀山城(京都府亀岡市荒塚町周辺)3

⑯丹波亀山城(京都府亀岡市荒塚町周辺)3


■ガラシャ玉子、結婚。そして父、光秀の死

1576年始め、光秀の丹波攻めは順調に進んでいた。

その時、丹波国最有力国人、八上城主、波多野秀治が突然裏切り背後から襲った。

信頼していた波多野勢に不意を突かれ、明智勢は乱れ、右往左往に逃げまどい完璧に敗れた。

光秀は、命からがら逃げ戻った。


さんざん打ちのめされ疲労困憊で戻ってきた光秀を献身的に看病した母、凞(ひろこ)

光秀は元気になっていくが、母、凞(ひろこ)に疲れが出てくる。

自分の体力の限界を知った凞(ひろこ)は、娘、ガラシャ玉子と細川藤孝(幽斎)の嫡男、忠興との結婚を決めたいと願った。


細川家との親交を深め、細川藤孝が光秀の盟友になる夢を見たと言う。

細川家は、ことあれば明智家を支える第一の味方になるはずだと。

光秀も同感で、細川藤孝(幽斎)に思い告げる。

細川藤孝(幽斎)も思いは同じだった、


こうして共に信長に、ガラシャ玉子と細川忠興の結婚を願い出て、了承された。

(ひろこ)は、大役を果たしたとホッとし嫁入支度にかかろうとしたとき、亡くなった。

光秀は、丹波攻略の反転攻勢に向けて作戦を変え、順調に進めており、明智家の将来は輝いていると、誰もが思っていた時だった。

母は「斉藤家の滅亡以来つらい日が続きましたが、父上(光秀)の力で皆を立派に育てることが出来ました。感謝しています。ありがとう」と満足の笑みを浮かべて逝った。


玉子は、結婚を待ち望んでいた母、凞(ひろこ)の面影を胸に、死後2年間、明智家の姫として恥ずかしくない教養をつけると必死で学ぶ。

細川家の文人としての歴史は、長く深い。

細川藤孝(幽斎)は、天皇を始め知らない者はいない一流の教養人だ。

藤孝に文人として認められる玉子でありたかった。


この間、光秀の子たちは、信長の指示でそれぞれの道を歩み始めていた。

長女、倫子は、摂津一国を領する荒木村重の嫡男に嫁いだ。

後に、村重が信長に背くと離縁し、明智家に戻る。

すぐに、一門、明智秀満(1536-1582)を婿とすることになる。


次女は、明智一族の光忠(1540-1582)を婿養子に迎えた。

長らく嫡男に恵まれない光秀が後継者の含みで迎えた。

光秀が後継としたいと考えた娘だ。


三女、ガラシャ玉子は、細川忠興(1563-1646)と婚約した。


四女は、織田一族、信長の甥(信長の同母弟の嫡男)、津田信澄(1555-1582)と婚約した。

この結婚で、明智家は信長一門となる。

名実ともに、織田家重臣への道が広がっていく。


間もなく父は、再婚する。

そして、次男、十二郎(-1582)・三男、乙寿丸(-1582)をもうける。


1577年、信長の天下取りに向けての戦い、雑賀攻めに加わり、続いて、信貴山城の戦いに参陣し戦う。

自分に課せられた丹波攻めもおろそかにできない。

両方が、光秀に与えられた役目だった。


信長に指示され戦う命令が出ると、間髪入れずに出陣となる。

そこで、丹波攻略は、焦らず、丹波衆に信長の力をじっくりと見せつつ調略し、臣従する国人衆を増やすことを一番とした。

すると、丹波攻略の拠点が必要となる。

丹波亀山城の築城を決める。


翌1578年、保津川と沼地を北に望む小高い丘(荒塚山)に築城を始める。

立ちはだかる八上城主、波多野氏を包囲し丹波攻めを続けつつ、信長の命に従い信長勢の一角を占め、次々戦に加わるのだ。

戦いが続く体力的にも限界に近い、とても忙しい日々だ。

それでも、戦勲を挙げていく。


秀吉の毛利攻めの援軍を命じられ、播磨で戦う。

信長に背いた荒木村重を攻める有岡城の戦いに参陣する。

この年、玉子は、明智家から嫁ぐ娘として恥じることのない教養を身に着け、新しい母が整えてくれた嫁入り調度と共に結婚する。


玉子と夫、忠興(1563-1646)は同い年の15歳同士。

二人は、岐阜城下の屋敷で、儀式の際に、時々顔を合わせており、美男美女で似合いだとのうわさが立っていた。

光秀と細川藤孝(幽斎)が望み申し出て、うなずいた信長が婚約を命じて決まったが、お互いが待ち望んだ結婚だった。


光秀は、6歳下の細川藤孝(幽斎)と出会った時から高く評価し、親しい関係を築いた。

信長家中では、細川家は光秀より格下であり、ガラシャ玉子は光秀に付けられた与力の細川家嫡男に嫁いだことになる。

その為、細川藤孝(幽斎)は「信長重臣であり、直属の上司(光秀の)の姫と嫡男の結婚は光栄だ」と感謝した。


こうしてガラシャ玉子は、上司の姫として恭しく細川家に迎えられた。

細川家中の羨望の目を受けて、嫁いだ。

夫のまぶしそうに見つめる目を心地良く感じながら、結婚式を執り行なう。


1579年、ようやく、丹波攻めは最終段階に入り、八上城を落とした。

続いて、黒井城を落とし、ついに丹波を平定。

すぐ細川藤孝と協力して丹後も平定。

この間も、丹波亀山城の普請は続けた。


戦は終わり、戦うための城から、丹波を支配する拠点の城に築城目的を変えた。

信長の力を見せる城にすると、近隣の村から人を呼び寄せる。

新しく築かれた城下町に人々が集まってくる。

光秀の行政手腕は優れ、城下は賑わい、光秀の名君としての評価は高まる。


信長は感状を出し褒め称えた。

この功績で、1580年、丹波一国(約29万石)を加増され、34万石を領する。

さらに、本願寺戦で戦死した(ばん)(なお)(まさ)の支配地、山城(京都府南部)の南半分、南山城を与えられる。


同年の佐久間信盛折檻状では「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」と信長から絶賛されている。


丹波一国を得た光秀には、丹後国の長岡(細川)藤孝、大和国の筒井順慶等の近畿地方の織田方大名が与力としてついている。

これにより光秀が直接支配する丹波、滋賀郡、南山城と与力大名を含め、近江から山陰へ向けた光秀の畿内方面軍が成立する。

光秀は、織田家になくてはならない重臣になったのだ。


織田家には無かった軍法を、光秀は、『明智家法』として定めた。

その後書きに「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という信長への感謝の文を書く。


1581年、京都御馬揃えの運営を任された。

1582年、武田氏を殲滅する甲州征伐に参陣する。

信長は天下平定を目前にし、畿内は安定した。

光秀の畿内方面軍のすべき仕事が少なくなっていく。

そこで、信長は光秀に、臣従はしているが独自の四国覇権主義を貫く長宗(ちょうそ)我部元(がべもと)(ちか)を抑えるよう命じる。

長宗(ちょうそ)我部元(がべもと)(ちか)の妻が、光秀の筆頭家老、斎藤利三の妹だった縁からだ。


だが、光秀は信長の望む説得は出来なかった。

信長は腹立たしい思いで、長宗(ちょうそ)我部元(がべもと)(ちか)を討つと四国征伐を決めた。

総大将を3男、信孝とした。


この頃、荒木村重の嫡男、村次に嫁いでいた長女、倫子が明智家に戻っていた。

荒木村重は、信長から反逆者として見られ追いつめられ、倫子や光秀に害が及ぶのを避けるべく離縁したのだ。

村重は信長配下の優秀な勇将だが家臣が石山本願寺に通じていたことが発覚した。

信長から追及され、信長への謀反の動きありとされてしまった。


光秀は、家臣を即刻、排除し村重とは関係ない旨、信長に釈明するよう勧めた。

だが、村重は、一度疑われたら信長の不信感は消せないと思い込んだ。

そして、毛利に与し、信長に反旗を翻した。


光秀は、必死で村重を説得しようとした。

なのに信長は、光秀が荒木村重を裏切らせたと見た。

責任を取るようにとの信長の厳しい目が光秀に光る。

光秀は、村重に同情した。

裏切るつもりはなかったのに、信長が追い詰めたと思えたからだ。


丹波平定以降、光秀は信長に忠義を尽くし続けたが、労を認められない。

反対に信長の望む結果を出せず、気分を損じさせて叱責されることが度々だった。

信長との意思疎通が微妙にずれ、かみ合わなくなっていた。


ついに、信長は、光秀に「丹波、山城、坂本などの領地を召し上げる。代わりに毛利の所領を与える」と告げた。

その上で、中国攻めの仕上げに入った秀吉を支援し、戦うよう命じる。

精魂込めて治世した丹波を離れさせられる命令だ。

丹波亀山城は、坂本城以上に愛着があった。

明智家の本拠とすべく、築いており、取り上げられるのは耐えられない。


光秀は、信長重臣としての将来に絶望していく。

ライバルとして競い合ってきた、秀吉配下になる事に納得できなかった。

信長の将軍義昭への対応に違和感を感じて以来、不安が大きくなっていった。

織田家重臣としの明智家の在り方にも、明智家の将来にも自信を持てない。


信長に付き従い、生きる道はないのだ。

我が道は、自ら切り開くしかないと決意する。

ここで、丹波亀山城から出陣し、1582年6月「本能寺の変」を起こす。


信長を倒し天下人となり、盟友、藤孝・忠興父子や、京や丹波で培った家臣・武将と共に、新しい政権を創ると決意した。

筋書き通りに事は進み、それぞれに加勢を求めた。


しかし、細川藤孝・忠興父子は光秀の誘いを拒否。

光秀は、一番頼りにしていた盟友に裏切られる。

明智家と細川家は運命共同体だと信じていたガラシャ玉子は、驚き必死で、父への加勢を頼んだが、細川家はまったく動じなかった。

ガラシャ玉子は両家を結びつけたはずの自分の存在が、まったく意味を成さない幻想だったと、打ちひしがれる。


光秀は一番期待した細川氏に拒否された。

公家や朝廷は、光秀の動きを快挙だと、理解を示したが戦力とはならない。

長宗我部元親・斎藤利堯・姉小路頼綱・一色義定・武田元明・京極高次等が呼応して立ち上がったが、天下を掌握するまでの軍事力には、遠く及ばない。


大和で圧倒的力を持っていた筒井順慶が動かなかったのも、致命的だった。

軍事で一番期待していたからだ。

信長から大和18万石を与えられ、与力分を合わせると45万石と広大な領地を持ち、軍事力・経済力は頼りになるはずだった。

光秀は筒井家に我が子(養子)を送り込み縁戚になっている。

一門として、共に戦うはずだった。


信長は討ったが、同志になると確信していた支援者・支持者は増えなかった。

天下人として力を奮う前に、山崎の戦いとなる。

ここで秀吉に負け、54歳で、志半ばで殺されてしまった。

ガラシャ玉子は、謀反人、光秀の娘として、高名となる。

皆の冷たい注視の中、大好きでまっすぐ生きた優秀な武将、光秀の存在を、周知させたいと生き抜いていく。


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