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⑯丹波亀山城(京都府亀岡市荒塚町周辺)2

⑯丹波亀山城(京都府亀岡市荒塚町周辺)2


■ガラシャ玉子誕生。

東大味(ひがしおうみ)の屋敷で、後の関ヶ原の戦いでの家康勝利に大きく貢献するガラシャ玉子が生まれる。

1563年生まれた凞(ひろこ)と光秀の3女が玉子。

赤子ながらも透き通る肌にを持ち、皆が見とれるほどの美しさだった。

赤子というには惜しいほど目鼻立ちも整っており、光り輝いていた。

玉子と名付ける。


光秀が、高禄の重臣として、自信をもって役目を果たしていた時だ。

父母や家中が明智家の将来に明るい希望を持った時に、待ち望まれ生まれた子だった。

一家は玉子の誕生を祝し、にぎやかな宴を催す。

2人の姉がおり、父母は、男子であって欲しいと願っていたが。


2年後の1565年、亡き室町将軍の弟、足利義昭が都を追われ、流転の後、姉婿、武田氏を頼り若狭に行く。

兄から「次期将軍となるように」と遺言された義昭だが、将軍となる為に必要な資金・軍事力はなく、庇護者を求め有力な戦国武将に働きかけていた。


武田氏は頼むに足らず、朝倉義景の持つ資金力・軍事力に頼るのが最善の道と聞かされた。側近と話し合い、義景を頼ると決め、越前に来たのだ。

義景は歓迎し、武田家縁者でもある光秀に接待役を命じる。


明智家は、室町将軍に直属し軍事で仕える親衛隊(奉行衆)の家柄でもあった。

土岐家が崩壊し道三が討たれた時、光秀は将軍に仕えたいと働きかけた時もあったほどだ。

だが、当時の室町将軍は、不安定で、主君足りえなかった。


回り回って、将軍の側近となる機会が来たのだ。

武将として飛躍の時が来たと、胸を打つ感動に震える。

義昭を室町将軍にする事が天から与えられた使命だと心に固く誓う。

朝倉義景に、義昭の将軍就任の為に動くべきだと懸命に取り次ぐ。


だが、義景は「(義昭を)将軍に推す為には今、京を支配している勢力を一掃する必要があり、朝倉家単独ではその力はない、まだ時期尚早」と動かなかった。

朝倉義景の優柔不断な態度にいらだつ義昭主従は、光秀に日の出の勢いで躍進を続ける信長との仲介を頼む。


光秀も諸般の情勢を見て、信長に懸けるしかないと思い定める。

信長は、以前から願われた義昭の熱心な申し出に了解したこともあったが、不穏な情勢が続き予期しないことも起き、頓挫していた。

再び、光秀が懸命に取次いで来た。

その取次は的を得ており、信長は納得し「(義昭を)将軍に擁立しよう」と応じた。

信長の上洛を目指す考えを確認した光秀は、喜び勇んで義昭を将軍にすべく策を煮詰める。


こうして義昭将軍就任の道を付けた光秀を、信長は「できる男だ」とみた。

信長は「将軍擁立はむつかしいことではない。その後の治世のあり方がより重要だ」と考えていた。

その為、信長の意向に沿って、義昭が動くように取り次ぐ人材が必要だと、探していた。

光秀が適任だと見極めると「将軍(義昭)家臣では取次にも限界がある。直臣になるように」と言った。


道三に仕えた光秀だ、軍事に詳しく、武将としての道が一番向いていると自負していた。

信長が重臣に迎えるとの申し出であり、願ってもない事だった。

それでも、まず、義昭を将軍とすることが一番と、義昭に仕えつつ、信長に仕えることで了解を得る。

1567年、光秀は家臣と共に、信長の用意した岐阜城下の屋敷に入る。

実質、信長直臣として働き始めた。


ガラシャ玉子は、4歳。

母、凞(ひろこ)ら家族と共に、故郷に戻った気分で、元気よく、岐阜城下に移り住む。

光秀は、義昭を将軍にすべく、京での根回しも完ぺきにこなした。

翌年、信長は義昭を奉じて上洛した。


光秀40歳、義昭の将軍就任に果たした役割に、自分ながら満足した。

明智家は武門の家だが、京に住まい、将軍の側近くで仕えていた時も長く、文人としての教養も備えていた。

光秀も幼い頃より茶道や華道、短歌、俳句を学び、それぞれに精通した文化人だった。


ガラシャ玉子も、光秀の文化的素養を受け継ぎ、幼い頃から文学をはじめ、茶道・華道などに興味を持ち、一流の文化教養を学ぶ。

驚くほどの賢さで、すばやく身につけ、父母を喜ばせた。

また、類まれな美貌は、成長と共に輝きを増し、注目されていく。

玉子は、知性を磨き、明るく素直で自信に満ちた、光秀の自慢の娘となっていく。


信長は京に政権を樹立した。

光秀は、秀吉、丹羽長秀、中川重政と共に京都と周辺の政務・治安の役目を受け持つ京都奉行に抜擢される。

明智家の京で培った人脈・光秀の文人としての教養を生かし、信長の権力を見せつけるべく朝廷・公家との折衝に力を発揮する。


ここから、義昭に仕えつつ信長側近の武将として軍事の才も見せていく。

1570年、光秀は、浅井長政の裏切りで危機に陥った金ヶ崎の戦いで信長を逃がすために、秀吉と共に殿(しんがり)を務める。

死を覚悟して殿(しんがり)を務め戦いながら逃げ切り、信長の信は、ますます厚くなる。


その後も、信長勢の一角を占めて戦いを続けるが、京での義昭の近くでの活動も多い。

義昭から褒められ、所領として山城国久世荘(京都市南区久世)を得た。

畿内の武将を、義昭・信長へ臣従させる為に、調略の役目を与えられ、ここでも才を見せ、信長に臣従する武将を増やした。


信長に従わず、京を追われた三好三人衆が、石山本願寺と呼応して京に攻め上がらんとすると、光秀は摂津国に出陣し、食い止める。

続く、比叡山焼き討ちでは、主力実行部隊となり、信長に従わない僧侶・門徒焼き殺す。

1571年、信長は光秀の華々しい活躍を褒め、戦勲として近江滋賀郡(約5万石)を与えた。

そして、城を築くように言う。


光秀は、琵琶湖の湖畔に居城、坂本城(滋賀県大津市)の築城を開始する。

これは織田家中を震撼させた。

信長に仕えて、わずか4年なのに家臣の中で最も早く、一国一城の主となったのだから。

信長の能力主義の表れであり、長年仕えた譜代だから地位が安定しているとはかぎらない、うかうか出来ないと重臣のそれぞれが肝に銘じる。

それでも、光秀の出世は、家中の重臣の理解できることではなく、ねたむ重臣も多かった。


信長が褒め、才を評価された光秀だ。

信長の元、異例の出世をしていくのは当然だと、自信が溢れていた。

もちろん、良き主君に巡り合えた幸運に感謝してもいた。

取次ぎまとめる能力、緻密で正確な行政手腕に、秀でており、生かせる場を与えてくれた信長がおればこそ、力を発揮できたのだ。


光秀の出世を、家族家臣一同、喜ぶ。

ガラシャ玉子は8歳だった。

父が誇らしく、父母姉弟と共に弾む思いで坂本城の築城を見守る。

ここで、信長に忠誠を尽くす為、けじめを付けるべきだと義昭に暇願いを出す。

だが、義昭は側に居て欲しいと認めない。


1572年、ガラシャ玉子は、一族と共に坂本城に入城した。

以来4年、1569年生まれた嫡男、光慶(1569-1582)のはしゃぎ声を中心に、母、凞(ひろこ)の大きな愛に包まれて、とても幸せな家族の暮らしが続いた。


それでも、いろんな事件が起きる。

1573年、義昭が信長打倒をめざし挙兵した。

光秀は、何度も義昭を諌めたが、聞き入れられず、ここで、義昭と決別した。

信長の直臣となり、義昭勢と戦う。


これ以後、義昭と信長の対立が表面化する。

信長は義昭が敵う相手ではないのに、反抗を続ける。

負けて和議を結んでも、すぐに反抗するのだ。

光秀は、なんとか義昭を抑えようとするが、虚しい努力だった。

義昭に従っていた家臣団とは、すでに、8年近い付き合いで、気心もわかっていた。

特に、細川藤孝(幽斎)(1534-1610)とは、意気投合した。


光秀は、義昭と信長の戦いは出来得るならば避けたいと願い、交渉を続けたが、もはや希望はないと、義昭が殺されることがないように気を配るしかないと心構えした。

そして、迷うことなく信長に従い、義昭派の切り崩しに掛かる。

義昭の側近を信長方に調略していくのが役目となり、信長も褒める成果を挙げた。


その時一番力を入れたのが、旧知の細川藤孝(幽斎)への説得だ。

細川藤孝(幽斎)は、光秀に従い、信長の家臣となり、義昭と決別した。

信長は、喜んで細川藤孝を召し抱え、山城桂川の西、山城国乙訓郡(おとくにぐん)(京都西部)長岡(長岡京市)を与えた。

以後、細川勢は、明智勢に従う与力として信長のために戦う。


新参、光秀は、織田家重臣の中では軽く扱われると、悩んでいた。

織田家重臣として一派をなすため、影響力の持てる有力家臣団を形成しなければならない。そのために、名家、細川家との親密な関係を築くことが、まず第一に、価値あることだった。

第一歩を踏み出したと、大きな自信を得た。


細川藤孝(幽斎)を配下にし力をつけつつ、信長重臣とのつながりを強め、付き合う。

同時に、義昭に縁ある家臣団も自らの家臣団とし、信長重臣の地位を固めていく。

続いて、旧主、朝倉義景を滅ぼし、秀吉と滝川一益と共に越前の占領行政を担当する。

越前一向一揆殲滅戦での戦いでも活躍する。


1575年、信長から丹波国攻略を任される。

非常に大きい役目で身を震わせる。

丹波国は山続きで多くの国人が自主独立の様相を示しつつ支配し将軍、義昭に従っていた。

義昭と信長が友好関係であったときは、信長に従った。

だが、義昭追放で、信長に反発し、敵となる国人衆がいた。

彼らを、義昭ではなく、信長に完璧に従わせるのが役目だ。


義昭は、京を追放され河内国で謹慎するも、1576年春には、備後(広島県東半分)の国、鞆に追放され、室町幕府は事実上滅亡した。

以来、光秀は、伊勢貞興ら伊勢一族や諏訪盛直など義昭旧臣を積極的に召し抱える。

光秀家臣団は、一段と大きくなる。


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