⑯丹波亀山城(京都府亀岡市荒塚町周辺)1
⑯丹波亀山城(京都府亀岡市荒塚町周辺)1
1577年、明智光秀は、丹波攻略の拠点とするために丹波亀山城を築城。
1580年、丹波国を制し、信長から与えられ、本格的な城下町整備と統治支配機構を創る。
1582年、光秀の死。
秀吉は、小早川秀秋に与え、改修される。
1610年、徳川幕府となり、岡部長盛が得て、天下普請により近世城郭に生まれ変わる。
縄張りは、城づくりの名手、藤堂高虎。
北の保津川を背に、南に城下町が広がる名城ができた。
この城で、光秀は、信長打倒の本能寺の変の構想を描いた。
光秀にとって天下を見据える、居城となる城だった。
■悲運の勇者、明智光秀
1528年、明智光秀(1528-1582)は美濃守護、土岐氏一族に生まれた。
明智家は、明智城(岐阜県可児市明智)を居城とし土岐氏に仕えていた。
光秀もこの城で生まれ育ち、土岐氏に仕えた。
土岐氏が衰退すると、土岐氏に成り代わり美濃を支配した斎藤道三に仕える。
道三は、光秀の叔母(父の妹)小見の方(1513-1551)を正室に迎えている。
この縁で、光秀は斉藤道三の一族となり、道三は、光秀を義甥として、重用していく。
光秀は、文武両道に並外れた力を持つ稀有な武将だと高く評価される。
道三の期待に応えるのが嬉しくて、戦功を上げていく。
光秀は順調に出世するが、主君、道三と嫡男、義龍が敵対する事態となる。
道三嫡男、義龍の生母は、小見の方ではなく側室、深芳野だった。
その為、義龍は、深芳野の前夫、美濃守護、土岐頼芸の子で、道三は父ではないと確信した。
想いを秘め家督が譲られるまで、じっと耐えた。
道三から家督を引き継ぐと、今まで耐えていた思いを一気に道三にぶつけた。
道三打倒の準備を整えていた義龍と、義龍と共に美濃を治めようと考えていた道三では、士気も軍事力も差が出た。
道三はまともに戦える状況ではなかった。
それでも、美濃を支配する親子の激しい内戦が始まった。
光秀も道三を守り必死で戦うが、義龍が圧倒的に優勢だった。
1556年5月28日、義龍は道三を討ち果たした。
その勢いに乗って、道三に味方した明智勢をせん滅するべく、明智城に攻め込んだ。
光秀の叔父、光安と光久、一族の溝尾庄左衛門、三宅弐部之助、藤田藤次郎、肥田玄蕃、池田織部、可児才右衛門、森勘解由らが籠城して戦ったが、負け、皆死んだ。
小見の方と道三の間に、信長の妻となった濃姫・孫四郎・喜平次・利治(1541-1582)が生まれていた。
孫四郎・喜平次は義龍に殺された。
小見の方と利治は逃げ、隠れた。
濃姫の庇護を受けるつもりだった。
濃姫も喜んで迎えると言い、同母弟、利治が、道三後継となる。
そこで、利治は、信長の支援を受けて、光秀らと共に戦うが義龍が美濃を制した。
結局、美濃を追われ、姉、濃姫の元、信長の庇護下に入る。
明智家は居城、明智城を追われ、光秀は、家族近習を引き連れ美濃を離れると決める。
1549年、明智一門、妻木広忠の娘、凞子(1530-1576)と結婚し、娘2人がいた。
近習と妻、凞子と幼子たちを伴った逃避行が始まる。
凞子と光秀の結婚には有名なエピソードが残る。
美貌が評判の娘、凞子は、主君筋になる光秀の妻との結婚が決まり、一族挙げて祝った。
だが、婚礼を間近に控え極度の緊張の中、凞子は、疱瘡を患う。
化膿し頭痛、腰痛の痛みに苦しみ、死を覚悟した。
その後、命を取り留めたものの醜い痘痕が顔にも首にも残った。
光秀の将来を思い、こんな顔では妻としての役目は務まらないと、結婚を辞退したいと父に言う。
凞子の父も賛成し、2歳下の妹との結婚を光秀に願った。
だが、光秀は受け入れず凞子を妻とする。
光秀は、許嫁は妻も同じ、何が起ころうとも生きている限り、生涯共に生きると潔かった。
光秀の律義さを表す良い話で、二人の夫婦仲の良さは終生続く。
才知に溢れた凞子は、光秀の愛情に応え心を込めて仕え明智家の家政を上手に取り仕切る。そして光秀との間に多くの子を産む。
妻木広忠は、道三亡き後、信長に仕え、光秀が信長に仕えると、終生、信長から命じられた与力として、光秀に尽くす。
光秀は家族・側近と共に野に潜み、時期を待つ。
凞子は変わらぬ笑顔で、子や近習に心配りしつつ支えた。
この間、光秀は、重要な兵器になると目をつけていた鉄砲とその使い方・仕組み・軍装などをより深く研究した。
同時に、兵法をより深く学び、戦術を考え試し、これからの戦い方を編み出す。
こうして、英気を漲らせ、再起を期して、若狭守護、武田信豊を訪ねる。
光秀の母が武田一族であり、その縁を頼った。
勇んで若狭に行くが、武田氏はすでに力をなくしていた。
気落ちした光秀だったが、越前守護、朝倉義景を紹介される。
朝倉義景の母が武田氏であり、若狭守護、武田氏は、朝倉家の庇護下にあった。
そのため、光秀の動きを知っていた。
光秀の才に興味を持った義景は、光秀を越前に呼び、対面し、技量を確認した。
探していた武将だと納得し、即、召し抱える。
光秀には救いの神だった。
1560年、光秀は、鉄砲指南役5千石という破格の厚遇で朝倉義景に仕えることになった。
4年間の苦渋の隠棲暮らしは終わった。
光秀の役目は、朝倉街道の大手道の守りだ。
文殊山榎峠から朝倉家本拠のある一乗谷(福井市)まで続く朝倉家の幹線道を守るのだ。
光秀は一乗谷城・朝倉館・重臣屋敷などが立ち並ぶ越前朝倉家の拠点、一乗谷から約4㎞離れた東大味に領地に与えられた。
ここに、妻や子たち、郎党が、落ち着いて暮らせる屋敷を建てた。
そして、自信満々で積み重ねた軍事の知識を、実践で証明するのだと、浅倉街道に目を光らせる。
一乗谷を守る、鉄壁の防衛策を打ち立てる。
この頃の浅倉勢の勢力は大で、光秀は豊富な資金を与えられ、思う存分、攻め入る隙を与えない防備体制を築いた。




