⑮二条城(京都市中京区二条通堀川)3
⑮二条城(京都市中京区二条通堀川)3
■和子姫、四人の天皇の母
和子姫は四人の天皇の母となり、家康の皇太子を生み天皇にする夢を果たした。
4代の天皇の外祖父の家系となった徳川家は、天下人として盤石になっていく。
和子姫の役割は忙しく重い。
まずは、後水尾上皇を牽制し守りながら、幕府の意向に沿いつつ生きること。
母、お江や姉、千姫・完子姫が大切にした豊臣家・織田家・浅井家を朝廷の真ん中から守ること。
4人の天皇に大きな影響力を持ちつつ、幕府の主導的立場を守ること。
などなど。
和子姫は楽観的な性格だ。
あまり考えすぎずに流れに沿って役目を果たす大きな器を持っていた。
好きな事を思う存分に楽しみながら、重要な役目を果たしていく。
幼い結婚だったが、大人になると、後水尾天皇と仲睦まじく、次々子が授かる。
1624年初め、和子姫17歳の時、第1子、女一宮が生まれる。
幕府も天皇も喜び、ここで、和子姫は中宮となる。
後に、明正天皇となり即位される。
1625年、和子姫18歳の時、第2子、女二宮が誕生する。
後に、いとこ、近衛尚嗣と結婚するが、1651年、26歳で亡くなる。
1626年、和子姫は後水尾天皇と共に二条城行幸を行った。
出迎えたのが、父、秀忠と兄、家光。
久しぶりに会い、有意義な時を過ごした。
そのころ、母、お江は病の床にあった。
懐妊を知らせ、母から「おめでとうございます。皇子の誕生を祈ります」と返書があった。
そして、12月31日、高仁親王が誕生。
生まれたのは母の死後になったが、念願の皇子誕生を、仏前に笑顔で報告した。
待望の皇子に秀忠も家光も大喜びした。
なのに、翌1627年、1歳で亡くなる。
1628年、続いて若宮が誕生。
だが1ヵ月も生きることなく亡くなる。
1629年、女三宮、昭子内親王(1629-1675)が誕生。
和子姫の側で育ち、離れることのない、分身となる。
生涯、和子姫を支える。
この年、紫衣事件が発生し、後水尾天皇が突然、女一宮に譲位し、退位すると宣言した。
紫衣事件は、天皇が幕府の許可なく紫衣(高徳の僧を表す法衣や袈裟)を授けることを禁じた「禁中並公家諸法度」を天皇が破ったために起きた。
後水尾天皇は、「禁中並公家諸法度」に幕府の了解を得ることと決められたが納得できず、従来どおり紫衣(高徳の僧を表す法衣や袈裟)を授けた。
だが、幕府は認めず許せないと無効にした。
後水尾天皇は、幕府の横暴だと抗議したが、受け入れられず、譲位で怒りを表した。
朝廷の官職の一つでしかない征夷大将軍とその幕府だが、天下の実権を握り、天皇よりも上に立ったことを、世に広く知らしめた事件だった。
そして、明正天皇の即位となった。
和子姫は、入内の目標、我が子を天皇にして満足だったが、次の課題が生まれた。
女性天皇、明正天皇は未婚と決められており、次の天皇、皇太子をだれにするか決めなくてはならないのだ。
そんなこともあり、和子姫は、明正天皇の即位後、上皇となった後水尾天皇が、典侍との間に子をなしても認めると伝えた。
以後次々、後水尾上皇の皇子皇女が生まれる。
そして、1633年、生まれた皇子が、第4皇子、後光明天皇(1633-1654)。
生母は、後水尾上皇お気に入りの典侍園光子(壬生院)(1602-1656)だ。
上皇の母、近衛前子が、園光子の才知美貌を高く評価し、後水尾天皇に仕えさせた。
光子は後水尾天皇の心を射止め、後光明天皇を含め5人の皇子皇女の母となる。
光子は政治力も併せ持つ才媛であり、実家、園家の繁栄を願い、積極的に後水尾上皇に仕え、子の誕生となったのだ。
和子姫も待っていた皇子だ。
以前から、明正天皇の皇太子は、和子姫の養子にすると幕府と話し合っていた。
そこで、和子姫は、後光明天皇を養子とし、皇太子とすることで、将軍家光の賛同を得る。
ここで、和子姫は二人の天皇の母となる。
典侍園光子は、皇子皇女を産み続け1641年、39歳で第13皇女、桂宮を生む。
だがもう子を産む限界に来ていた。
いずれこの日が来ると覚悟しており、その前から準備していた。
実家と相談し兄、園基音の娘、国子(1624-1677)を後水尾上皇に推し仕えさせたのだ。
国子は、光子に推され、後水尾上皇と仲睦まじく、1640年、後水尾上皇第10皇子、尭恕法親王を授かった。
安心した光子は、典侍の役目を国子に引き継ぐ。
国子は、霊元天皇を含め6人の皇子皇女の母となる。
1643年、明正天皇は退位され、後光明天皇が即位された。
ところが、1654年、後光明天皇が崩御される。
次の天皇をどうするか、和子姫に問われる。
後光明天皇と生母、国子は、この年、生まれた光子の皇子、霊元天皇を後継として推す。
だが、和子姫は認めなかった。
お気に入りが、1637年生まれた後西天皇だった。
血のつながりがある後西天皇を強引に、即位させる。
和子姫は3人目の天皇の母となる。
だが、後西天皇は幕府と対立することになり、やむなく、1663年退位させた。
苦渋の決断だったが、幕府の意向を尊重させた。
こうして、後水尾上皇の推す霊元天皇(1654-1732)を即位させた。
和子姫は4人目の天皇の母となる。
明正天皇は大好きな娘だった。
心優しく、和子姫と思いを同じくして居り、天皇に執着する政治的な生き方を選ばず、また、上皇と思いに差がないこともあり、政務を任せた。
退位後は、常に控えめであり、5000石の資金で十分だと、悠悠自適を貫く。
後光明天皇は、和子姫を立てつつ、優しい性格のままに天皇としての務めを果たされた。
それでも次第に自分らしい天皇を目指し、周囲との軋轢が始まっていく。
すると、21歳で亡くなった。
ここで、和子姫は後西天皇を推し、即位となる。
和子姫は血のつながりを感じられる後西天皇の即位を見届け得意満面だった。
ところが次々問題が起き、守り切れなくなる。
やむなく、和子姫が後西天皇と一歩距離を置く。
後西天皇は、我が身の位置を知る。
その時は、退位しか残された道はなかった。
こうして1663年、後水尾上皇が推した霊元天皇(1654-1732)の即位となる。
霊元天皇はまだ9歳。
幼いこともあり、上皇・和子姫に素直だった。
それでも、成長と共に独自の天皇像を練り、幕府を、院政を乗り越えたいと考え始める。
和子姫は、存命中、幕府と対峙しようとする霊元天皇を戒めながら、温かく見守った。
それでも、和子姫もいつまでも生きることはできず、年老いた。
1678年、和子姫は71歳で亡くなる。
霊元天皇は伸び伸びとし、元気になられる。
そして、2年後、1780年、後水尾上皇(1596-1680)84歳との別れがあった。
以後、親政を開始する。
和子姫は、実現できなかったことも、悲しみも多々あったが、大好きな文智女王に看取られて大往生だった。
豊臣家が天皇家に注ぎ込んだ以上の資金を、天皇家に提供し、江戸幕府下で、朝廷の権威を取り戻させた。
そして、朝廷に君臨した。
幕府に対峙する勢力も認め、外様大名との縁も大切に、大きな包容力を持ち続けた。
だが、最終的に守るべきは幕府だとし、仙台藩・長州藩・越後高田藩らの思惑と決別し、後西天皇を退位させ、彼らの夢は破れた。
和子姫は、徳川の姫として大きく生き、生涯を全うされた。
和子姫は、死に臨んで文智女王に「これからは、霊元天皇の思うがままの朝廷を作ればよい。時代により、朝廷と幕府の関係は変わっていくのですから」と言い残す。
文智女王の娘は霊元天皇の中宮だ。
和子姫の死後、幕府からの朝廷への資金は減っていく。
朝廷の財政は苦しくなる。
和子姫の偉大さを思い知ることになる。




