表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/81

盛岡城 (岩手県盛岡市内丸1番)1

②盛岡城 (岩手県盛岡市内丸1番)1

南部氏盛岡藩10万石(幕末には20万石へ高直し)居城、盛岡城。

■初代藩主、南部利直の父、南部信直と南部晴政の長女姫

盛岡城築城が始まる前の南部家当主、信直。

南部氏は、甲斐の武田氏と始祖を同じくし、脈々と続いた河内源氏義光流の名門だ。

1189年、源頼朝の命令で、平泉(岩手県南西部)の奥州藤原氏を滅ぼし、その功で南部町(青森県三戸郡内)を得て以来、この地を支配し続けた。


何事もなく平和裏に続くことを願い治めるはずが、数多くの分家を作り、外敵・内紛に苦しんだ。

ようやく、名将、1517年生まれの宗家当主、南部晴政により北奥羽全域(下北半島からに岩手県北上川中央付近)を平定し、支配した。

南部家最大の領地を持った。


 ところが5人の姫が生まれるも男子が生まれない。

後継が心配になった晴政は、長女の婿を信直とし、後継とすると決めた。

晴政の叔父(父の弟、石川高信)の庶長子、いとこが信直だ。

1558年ごろには居城、三戸城に呼び、秀でた武将の素質ありと評判の信直の資質をじっくり見極める。

まだ12歳だが、大将としての風貌があった。


石川高信は、名将で軍事に強く、晴政の勢力拡大にはなくてはならない一門だった。

その功に報いることと、独立化の動きをさせずに取り込むために、長女の婿としたのだ。

また、独立化の動きを見せる津軽(大浦)為信への抑え、侵攻してくる安東氏(秋田氏)への守りを強化するためでもあった。


信直は評判通りの武将に成長し、1565年、正式に長女の婿養子とし、後継とする。

信直19歳。

晴政48歳。

まだ晴政に子が生まれる可能性はあった。

それでも、信直と石川一族を取り込む必要が大であり、後継だと公にした。

信直は、晴政に従い、共に戦い続ける。

素晴らしい軍事の冴えを見せ、大将としての力を見せる。


長女姫は、信直の統率力に目を輝かした。

素晴らしい伴侶を得たと喜んで結婚式を挙げる。

 ところが、1570年、父、南部晴政に嫡男となる晴継が生まれる。

長女姫は想定していたことと受け入れる。


だが、信直は24歳、力がみなぎっており、南部宗家を率いる自信に満ちていた。

長女姫が、晴政の実子、晴継を宗家後継に認めるしかないと説いても聞き入れない。


ここから内紛が起き、怒った晴政は、信直を殺そうとまでした。

だが、軍事の才を見せていた信直を支援する一門衆がここそこにいた。

危機を脱し、用心深くしながら、緊張感を持ちつつも、共に戦った。


1576年、信直に男子、利直が誕生し、後継争いが激化する。

信直30歳。

長女姫は、父と夫の仲を取り持とうと頑張っていたが、もはやこれまでと限界を見た。


晴継と我が子、信直の家督争いになるのは目に見えていた。

晴継が血統的には第一だが、信直の後ろ盾があれば利直の勝利も十分あり得る。

そこで、長女姫は、我が子ではなく、側室の子、利直だと、公にする。

南部家嫡流、長女姫として、南部家を守るというはっきりとした意思があった。


ここで、長女姫は亡くなる。

流産が続き産後が悪かったとか、父と夫の諍いの心労でとか、理由はつけられたが、真相は明らかにされずに亡くなった。


長女姫の心配通り、南部晴政と信直が南部家を二分するまでの内紛状態になった。

信直は、長女姫から家督辞退を何度も願われていた。

そこで、晴政との戦いを避けて、先手を打って、家督辞退を申し出て実家に戻った。

 晴継が嫡男となる。


 これまで、信直は、宗家後継だと自負し長女姫を大切に、側室を置くことはなかった。

一門支援者も多々居り、宗家当主としての大義を守っていた。

だが、長女姫は、信直を後継と見なさず亡くなった。

以後、独自のやり方で、南部家後継を目指し、着々と手を打っていく。


だが、当主、晴政の力は強く、存命中は、信直の命が危ないことばかりだった。

1582年1月、南部晴政65歳が亡くなった。

いよいよ時が来た。

晴継が引き継ぐが、1582年2月、晴継が急死。

病死か暴漢に襲われたか、なぜ亡くなったのかは確かでない。


後継嫡男、晴継が若くして亡くなり、次女の夫、九戸実親との家督争いになる。

次女の夫、九戸実親の兄、九戸家を率いる政実は、家中第一の力を持っており、晴政の支持を得ていたが、亡くなり、後見者は弱い。

根回しを続けていた信直36歳が勝利者となり、家督を継いだ。


信直は多数派工作を続けており、万全の準備をしていた。

北信愛・八戸政栄・南長義ら、有力一門衆の支持を得た信直が家督を引き継いだ。

九戸政実・次女の夫、九戸実親や支持する一門衆は、信直を認めなかった。


1586年、秀吉からの臣従するようにとの申し出があった。

秀吉の後ろ盾が欲しくて、南部信直は、喜んで、応じた。

取次いだのが前田利家だ。


1590年、北条征伐に参陣せよとの秀吉からの命令があった。

信直は、すぐに、はせ参じたかったが、冬の寒さ・強者、大浦氏(津軽氏)への守りを固めてからと、少し遅れ、参陣。

秀吉から領地の安堵と後ろ盾を得る。


引き続き、秀吉は奥州を制するため侵攻する。

まともに戦う強力な相手はいない。

南部信直は、秀吉の力を見て、率先して奥州遠征に加わり戦った。

秀吉に好印象を与え点数を稼ぎたかった。


1571年、南部一族の津軽(大浦)為信が南部領に侵攻し、石川高信を殺しとその周辺を制圧していた。

この時、晴政は援軍を出さず、信直が集められるだけの兵を援軍に送ったが、敗北した。

奪われた領地を取り戻したく、秀吉の後ろ盾が欲しかった。


北条攻めでは、南部家よりいち早く大浦氏(津軽氏)が秀吉のもとに駆け付け、領地が安堵されていた。

その領地を取り戻すのが、当主を引き継いだ信直の役目だ。

奥州制圧に協力したが、領地は戻らなかった。


それでも、秀吉は、信直の奮闘ぶりを見ていた。

まず、取次の役目を担った前田利家を烏帽子親とし、信直嫡男、利直14歳を元服させた。秀吉が、信直を当主に、利直を後継に認めたのだ。

利直は、前田利家の一字を取り名とする。

秀吉が、信直の後ろ盾になると示してくれたのだ。


同時に、秀吉が利直に決めた結婚相手が、蒲生氏郷の娘(養女)源秀院お武の方(1573-1663)だった。

会津若松藩92万石、蒲生氏郷の姫との結婚だ。

秀吉は南部家を高く評価してくれたと嬉しい。


翌1591年、家督相続で対立した九戸政実が反乱を起こした。

信直は、秀吉に援軍を願う。

すると、秀次を総大将に大軍が派遣された。

信直を支援すると同時に、豊臣家の威光を奥州の地に知らしめた。

信直は、九戸政実の乱を鎮圧し、九戸氏を滅亡させた。

そして秀吉から、大浦氏(津軽氏)に奪われた領地に匹敵する地の加増を受けた。

9郡10万石の領地の支配権を確立した。


朝鮮の役では、信直自ら千名あまりの兵を率いて名護屋城に詰めた。

九州という遠路への出兵は、風土気候等々世の中の広さを、信直に教えた。

信直は、名護屋城で多くの大名と出会い、人脈を広げていく。


ここで、盛岡城の築城を始めると決意する。

九戸氏を滅亡させ、その本拠、九戸城(名を福岡城とする)(岩手県二戸市福岡)を南部氏の居城としたが、蒲生氏郷や浅野長政から、北辺過ぎる指摘されていた。

そこで1592年、()来方(ずかた)(岩手県盛岡市)の地を本拠と決め、築城を始める。

築城完成後、名を、盛り上がり栄える岡となる願いを込め、盛岡城とする。


秀吉に近侍しすべきことが多く、なかなか築城は進まなかった。

その分、京・大阪の状況をしっかりと学ぶ。

そんな中、親しくしていた秀次の死・秀吉の衰えが明らかになっていく。

ここで、信直は先を見る。


そして、1598年、秀吉の死。

自らの死期を悟った信直は、利直に家康に従うよう、言い含める。

1599年11月、信直は亡くなる。


信直は、正室、長女姫の戒名を「異貌清公大禅定尼」としたとされる。

信直は長女姫の夫であり、養父が晴政だ。

緊張感はあったとしても、葬儀を行っており、当主、晴政が健在の時、あからさまに亡き人を誹謗するとは考えられない。

すぐに、家督辞退を申し出ており、手続き的には全く、順を踏んで常識的な、優秀な武将であり、突拍子もないことをするわけがない。


戒名に「清」や「大」の字が入っており、格式の高さを表しているように思える。

長女姫は特別の人だったという戒名だろう。

また実際使われたのかどうかも疑問で、後世の人が皮肉たっぷりで書き残したのではないだろうか。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ