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⑮二条城(京都市中京区二条通堀川)2

⑮二条城(京都市中京区二条通堀川)2


■和子姫と後西天皇

後光明天皇(1633-1654)は、和子姫の養子となり、明正天皇の皇太子となった。

徳川家が外祖父であることは変わらない。

もちろん、後水尾上皇の院政も変わらない。

そして天皇に即位された。


ところが在位11年、1654年10月30日、後光明天皇21歳で天然痘によって崩御された。

あまりに若い後光明天皇の崩御には、いくつかの要因がうわさされた。

成長し、幕府からの独立化を図った天皇は反幕府の態度が見られた。

成長し、父、後水尾上皇とは、一線を引いた親政を目指した。

和子姫とも少しづつ離れていた。

明正天皇の代、簡素化された朝廷の儀式の華麗な再興を目指した。

武芸を好み、豪放な性格で、文武にわたって天皇らしさを発揮しようとされた。

などなど。

 

後光明天皇生母、園光子は後光明天皇の病が重くなると、姪の国子から7月9日生まれた後の霊元天皇を皇太子に推す。

後光明天皇も、母の意に沿い霊元天皇を皇太子に希望したことになった。

 幼い天皇を第一に希望するのは、後水尾上皇だ。

院政を守りたく当然のことだった。

後光明天皇は1653年終わりごろから病に臥せることが増えており、崩御の3か月間に生まれた霊元天皇に関してどこまで熟知されていたかわからない。


霊元天皇の生母、国子は叔母、後光明天皇の生母、光子を母と慕っている。

光子は、国子を後水尾上皇の典侍とし、霊元天皇の生母としたのだ。

国子を我が子とも思い支えた。

園光子と姪、園国子、そして園家は宮中に力を持っていた。

この状態が最高であり、続けたい。


だが、和子姫は余りに幼いと霊元天皇の即位を認めなかった。

意中の人がいたのだ。

後光明天皇の弟宮で、霊元天皇の兄宮、17歳の後西天皇を、幕府と相談の上推す。

長く院政を続ける後水尾上皇を押さえる意味もあった。


後西天皇は、すでに、高松宮好仁親王と妃、亀姫との間に生まれた明子女王と結婚しており、大人だった。

和子姫は、そろそろ院政を終わりにして、天皇の親政にすべき時が来たと考えたのだ。


亀姫は、家康のひ孫になる。

家康の子、秀忠の娘、家康の孫が勝姫。

勝姫の子、家康のひ孫が亀姫だ。


和子姫は、亀姫の母、勝姫の妹。

幼い頃、和子姫は、江戸城で6歳上の姉、勝姫をよく追いかけた。

身近な姉であり、遊んで欲しいと甘え、一緒にいると安心できた、大好きな姉だった。

姪、亀姫に幼い頃に別れた姉の面影を見て、懐かしく可愛がった。


姪、亀姫を高松宮好仁親王と結びつけたのも和子姫だ。

京に身内をもっともっと作りたいと考えて、結婚を決めた。

そして、天皇を含め、皇族と将軍家を結び付けようと考えた。


和子姫は天皇を生むことはできなかった。

そこで、姪、亀姫の娘、明子女王を後西天皇(当時は良仁親王)と結びつけたのだ。

漠然と、将来、養子とし、天皇家を引き継がせたかった。


後光明天皇は後水尾上皇の長子(第4皇子だが、兄はすべて亡くなっていた)であり生母も問題なく、和子姫は天皇に推した。

それでも、いずれは、徳川の血を引く皇子を天皇としたい思いがあった。

ようやく機会が訪れた。

後西天皇を即位させるのは、望み通りの良い計画だった。

1654年、後西天皇(1637-1685)が即位。


後水尾上皇は不服ながらも、受け入れ、院政を守り続けようとする。

そこで、後西天皇の次の天皇を霊元天皇とすることの了解を得て、後西天皇を受け入れた。

和子姫も、徳川の力を増す結果となる後西天皇の即位に耐える上皇の思いに理解を示す。


後西天皇が即位後、すぐに生まれたのが八条宮長仁親王。

和子姫は、八条宮長仁親王こそ家康と血がつながり将来の天皇にふさわしいと思う。

 後西天皇の母は、朝廷一の力を持つ和子姫だ。

八条宮長仁親王を次期天皇にすると、心ひそかに決めた。


ところが、難問が次々出てきた。

後西天皇の母は和子姫とされるが、生母は典侍、櫛笥(くしげ)隆子(逢春門院)(1604-1685)だ。

櫛笥(くしげ)隆子は後西天皇を含め5人の皇子と4人の皇女の生母であり、上皇のお気に入りだ。


御匣殿(みくしげどの)の女官長として宮中の重職を担い、才を発揮し、上皇の心を射止めた。

御匣殿(みくしげどの)とは、内裏の貞観(じょうがん)殿(でん)の中にあり天皇の衣服などの裁縫をする所を統括するところであり、天皇と接する機会がよくあり、(ないし)(のすけ)になる可能性が高かった。

思い通りに、上皇の寵愛を得て、皇子皇女の誕生となった。


櫛笥家は、隆子の父、隆致(たかむね)が家康により別家を認められ興した公家だ。

ゆえに、徳川家との関係はよかった。

和子姫も、櫛笥(くしげ)隆子と親しくしており、問題はないはずだった。


ところが、櫛笥(くしげ)家と徳川家と天皇との深い結びつきに目を留めた仙台藩62万石藩主、伊達家が、隆子の妹、貝姫(1624-1642)を仙台藩に招いた。

そして、藩主、伊達忠宗の側室としたのだ。

1640年、綱宗(1640-1711)が生まれる。


櫛笥(くしげ)家は、隆子に次々皇子皇女が生まれ、出産養育は実家でと決められており、出費がかさみ大変だった。

貝姫は、継室になるはずだったが、正室、振姫(1607-1659)が健在で、正室にはなれなかった。

それでも、伊達家の潤沢な資金が欲しくて、側室であることを了承した。


伊達忠宗は、後西天皇の即位を喜び、次期伊達藩主を天皇のいとこ、綱宗とすると決めた。1658年8月、綱宗は、三代藩主となる。

家康養女の正室は、病がちだったが生きており、貝姫は側室のままだ。


幕府は、綱宗を伊達藩主としたくはなかった。

だが、手続きを踏んでおり認めざるを得ない。

こうして、和子姫の養子である天皇の生母の妹が、外様大名、仙台藩主の側室となり、続いて藩主の母となってしまった。


また、後西天皇の義母、亀姫(1617-1681)の兄、越後高田藩主、松平光長(1616-1707)は、幕府への反抗精神が旺盛で、幕府は、持て余していた。

妻は有力外様大名、長州藩主、毛利秀就の長女、土佐姫。

娘、稲姫は伊予宇和島藩主、伊達宗利(忠宗の庶兄の嫡男)に嫁ぐ。

そして、綱宗の三男、宗贇(むねよし)(1655-1711)を娘婿養子とするほど近い関係だ。


後西天皇の元に、仙台藩・伊予宇和島藩(祖は奥州の雄、伊達政宗)・長州藩(祖は西軍総大将、毛利輝元)・越後高田藩(家康長子、結城秀康直系)が結びつき集まった。

また、五摂家筆頭を目指す亀姫の妹婿、九条家も支援している。


幕府は、彼らを天皇を擁し、幕府への対抗勢力になりうると恐怖する。

後西天皇も朝廷の独立性を重んじる個性的な天皇であり、幕府の統制下から離れたい思いがあり、意欲満々だった。


幕府は、困った。

院政にこだわる上皇に不満があったが、後西天皇よりは、遥かに許せる存在であり、認めるしかなかった。

ここで、幕府は和子姫に、願う。


天皇の生母の実家は、櫛笥(くしげ)家と園家だが、園家の方が公家としての家格が高い。

亡き後光明天皇が、生前養子としたのは、霊元天皇だ。

後西天皇は中継ぎを了解して即位された。

等々理由をつけて、後西天皇が退位されるよう取り計らって欲しいと。


和子姫は、後西天皇を守りたかったが、幕府の要請に応えざるを得ない。

冷静に見て、幕府の脅威になる状況だからだ。

後西天皇も養母、和子姫の説得を拒否できない。

1663年、後西天皇は在位9年で無念の譲位。


和子姫は姉、勝姫のひ孫、後西天皇第一子、八条宮長仁親王を天皇にしたかったができなかった。

代わりに、八条宮家を相続させた。

後西天皇第二子が、高松宮家(有栖川家)を継ぎ、宮家2家を引き継ぐが。

和子姫の養子であり、後光明天皇の養子でもある霊元天皇が9歳で即位。


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