⑮二条城(京都市中京区二条通堀川)1
⑮二条城(京都市中京区二条通堀川)1
徳川家康が京都守護と上洛時の宿泊所として築いた城。
室町時代、将軍御所として築かれていた。また、信長が皇太子に献上した二条御所。
そんな御所近くに築かれた。
家康は、側近くだが、徳川の城として全く新しく、今まで以上の城を築いた。
1619年、和子姫の入内が決まり、将軍、秀忠は、二条城の改修を行なった。
天皇の后にふさわしい、高貴な香りがする華麗な城が出来上がる。
翌1620年、徳川和子姫は二条城に入り、準備を整え、二条城から長大な行列を作り、後水尾天皇のもとへ入内した。
■和子姫と明正天皇
和子姫は、入内の時、天皇の御所を質量共に上回る女御御殿を造営し、住まいとした。
入内の頃は、まだ13歳と幼く、天皇と仲むつまじく過ごすことは出来なかったが、大人の女人となると、天皇の御所に再々行く。
すると、次々子が授かる。
こうして、第1子、女一宮が、1624年初め、17歳の時生まれる。
幕府も天皇も大喜びだ。
ここで、和子姫は中宮となる。
1626年11月3日、和子姫の母、お江が亡くなる。
和子姫、19歳が、後水尾天皇との間に三人目の子を身ごもっていた時だった。
「元気になって、皇子の誕生を見守って欲しい」と母に伝え、病気快癒を祈ったが思いは届かなかった。
和子姫は、一人、東の空を見て独り立ちの時がきたと母に別れを告げる。
母を看取ることも、葬儀に出席する事も叶わないが、母との結びつきは他の兄弟姉妹の誰よりも強かった。
「母(お江)の思いを私(和子姫)の思いとして生きていきます」と一人心に決める。
まもなく、1629年12月、5歳の女一宮が即位し、明正天皇(1624-1696)となる。
譲位は後水尾天皇の決意だけで実行され、準備もままならないまま、慌ただしく即位となる。
「譲位の式典を始めるので、束帯の正装で宮廷に集合するよう」と公家衆すべてに急な御触れが来て、華やかな式典はないまま、即位の式が始まり、終わる。
後水尾天皇は上皇になった。
和子姫は、東福門院と名乗る。
明正天皇は天皇となるべく育ってはいないし、近習にも天皇を補佐する役目を担えるものはいない。
しかも、奈良時代の称徳天皇以来859年ぶりの女性天皇だ。
どの様に扱うか、朝廷も幕府も慌てた。
後水尾天皇の真意は、「禁中並公家諸法度」で規制されていない院政を行うことで、権力を保持することだった。
幕府に対抗する手段は、他になかったため、院政を執ると決め、実行したのだ。
和子姫は、後水尾天皇退位の決意を知り、当初は理解できなく、どうすべきか悩んだ。
それでも、すぐ頭を切り替える。
我が御子が天皇になり、将軍家は朝廷の外戚となったのだ、吉事なのだと。
家康の切望した思いを、果たしたのだと満足して明正天皇の即位を祝った。
あまりに早急な即位で、天皇としての威厳を保てない状態だった。
そこで、大急ぎで明正天皇にふさわしい体制を構築する。
明正天皇に「天皇になられたのです。母(和子姫)や父(後水尾天皇)の願いです。そのうえ母の父(秀忠将軍)・祖父(家康)の願いも叶えたのです。りっぱな天皇になられることでしょう」と話すと、可愛い顔でうなずく。
愛らしく賢い天皇で、家康もきっと満足していると思う。
そして、和子姫は強く幕府に求めた。
「後水尾天皇の怒りはもっともです。朝廷は幕府の指示する急激な変化は好みません。対処するように」と。
幕府も明正天皇の即位は幕府にとっても益ありと認めた。
そこで、後水尾上皇が天皇とほとんど変わらない権限を持ち続けることを認めた。
後水尾上皇も幕府の優位を認めざるを得ないことはよく理解されており、これで良しと受け入れ、幕府に力を見せたと溜飲を下げた。
和子姫もそれでいいと思う。
後水尾上皇はまだ若く、したいことが多くあったのだ。
出来るだけ実現させたいと思う。
まだ幼い明正天皇は、政治的野望はなく、天皇として果たさなければならない役目を淡々とこなす。
慎ましく与えられた職務をこなし、上皇の思い通りに任せた。
和子姫は、入内の目的を達成し、皇子誕生の重き役目から解放されたと考えた。
そこで上皇に「私を気にされる事はありません。典侍との間に子が生まれても幕府は認めます」と伝えた。
上皇は、和子姫が皇子を生む可能性がある限り幕府の怒りを恐れ、他に子を成さないと決めていた。
幕府も和子姫もそれが当然と目を光らしていた。
和子姫は「徳川の姫として入内し天皇の母となりました。役目は果たしました。これからはもっと自由に生きます」と母の仏前に報告する。
子を生むのは苦痛でもう終りにしたかった。
こうして、上皇は和子姫の呪縛から解放され、お気に入りの典侍との間に、皇女・皇子が生まれていく。
だが、秀忠は納得しなかった。
「(和子姫は)まだ若く、皇子の誕生はあるはず」との期待を捨てきれず切望した。
和子姫も、父の思いには逆らえず、願いを叶えたいとも思う。
譲位に関する諸手続きがすべて終わり、上皇が和子姫から贈られた仙洞御所に落ち着き院政を始めると、感謝を込めて、和子姫は呼ばれるようになる。
和子姫は悩むが、父の願いであり、叶えられるなら叶えたいと、遠ざかっていた上皇とかっての睦言を繰り返す。
1632年、皇女、賀子内親王が誕生。
後に、二条光平と結婚する。
皇子ではなかった。
この年、秀忠が亡くなった。
和子姫は、父母を亡くし、悲しいが、気にする人がいなくなったのだ。
これからは自由に生きると決めた。
この時点で、子を身ごもっており、軽々の判断は差し控えるが。
明正天皇は結婚されない決まりであり、今後に関して、幕府側との話し合いは進めていた。
1633年、皇女、菊宮が誕生。
翌年亡くなる。
和子姫の最後の御子であり、皇子の誕生はなく、けじめの出産だった。
1633年、上皇に後の後光明天皇(1633-1654)が生まれた。
和子姫は覚悟を決め、兄、家光に次ぎの将軍を決めたい旨伝える。
1634年、家光が上洛し、明正天皇に拝謁。
明正天皇10歳、堂々と家光および付き従った幕府重臣のあいさつを受ける。
天皇としての務めがなんであるか、少しづつ分かるようになっていた。
次いで、家光は、和子姫を訪れ、かねてからの話し合いの確認をする。
そして、明正天皇の皇太子を生まれたばかりの弟宮、後光明天皇(1633-1654)と決める。
生母は、後水尾上皇お気に入りの典侍園光子(壬生院)(1602-1656)だ。
光子は、和子姫に対して忠実であり、和子姫は後光明天皇を養子とし、次期天皇にするにふさわしいと思う。
明正天皇も賛成した。
この頃には、和子姫の配慮もあり明正天皇が天皇としての務めを果たすのに十分な人材に恵まれていた。
それでも、859年ぶりの女帝であり、祭祀を行うことに朝廷に仕える公家たちにも、戸惑いが多かった。
男子天皇のために、綿々と受け継がれた儀式であり、女性天皇では難しいこともあった。
そのため、省略されることもあった。
後水尾上皇が政務を執ったこともあり、御所の主としての業績が残らないが。
明正天皇ご自身は、文人天皇としての務めに重点を置かれ、気にされなかったが。
和子姫の影響もあり、最低限務めは果たすが、政治的思いを持つことはなかった。
この時点で、家光は、後光明天皇の中宮に縁者を入内させるつもりだった。
家光なりに、朝廷への対処の仕方を考えていた。
そこで、和子姫の意向に沿い、後水尾上皇の院政を認める。
上皇は、実質、天皇の職務を担っていたが、幕府との軋轢は多々あった。
ようやく落ち着いて院政を執ることが出来るようになる。
宮廷の年中行事の始まりは、元旦の四方拝であった。
午前四時に起床、御手水の後、御湯殿で身を清める。
御所に風呂はなく、板の間の一室に、冷暖の御湯を用意し、湯帷子を着用のまま御湯にかかられる。
そして束帯を召し、まだ夜が明けない暗さの内に、内侍が灯りを持ち清涼伝へ導き、大宗障子屏風を引き廻した中で天地四方を拝す。
これが祭祀だったが、幼い女帝では難しいと省略された。
中継ぎでも女帝が続けば、女帝に相応しい行事のあり方を創り上げる必要があった。
和子姫も明正天皇の近習も、天皇としてなすべきことすべてを明正天皇がなせるよう配慮すべきだと考えた。
だが、明正天皇自身が、弟を後継天皇に決め、一時的な女帝だと想い定め、宮中行事のあり方にまで、踏み込むことはなかった。
明正天皇は、おおらかな性格で些細なことにこだわることはない。
務めを控えめに、それでも毅然とした権威を持ちつつ果たされた。
明正天皇は、母、和子姫を卓越した感性を持った芸術家であり、一流の文化人だと尊敬した。
母のような生き方をしたいと思われた。
和子姫にとって、第一の姫、明正天皇は、入内の成功を示すかけがえのない宝だった。
そこで、生まれたばかりの明正天皇の幸せを願い「ひいな遊び」を発展させ創り上げる。
1629年3月3日、最古のひな祭りと称賛される大人も巻きこむ文化的一大行事を催行する。
まず、きちんと台を付けたひな壇を用意する。
段を組み、立派な飾り付けをした。
ひな人形も豪華な衣装の座り雛を登場させた。
和子姫は、女子の健やかな成長を祈る節句を、華やかで贅沢な行事とした。
それまで「ひゐな」という小さな人形を作り日々の暮らしの中で「ひゐな遊び」を楽しんだ。
明正天皇も楽しまれ、毎年続けられる。
和子姫と過ごす時が多い、明正天皇は、母に似て、諸芸に秀でていた。
そして考え方も、大切に思うことも似てくる。
1643年、明正天皇は、19歳で弟に譲位。
後光明天皇10歳が即位する。
政治が好きでなかった明正天皇は、嬉々として譲位した。
明正上皇は、幕府より毎年5千石の献上を受け、母、和子姫の暮らし全てに渡っての細やかな心遣いがあり、豊かに過ごす。
思う存分文化人として、好きな文芸を楽しむことができた。
土佐光起親子に描かせた障壁画などこだわりのある御殿に住まう。
また自身も諸芸に秀でており、「三十六歌仙画帖」を描き京都実相院に残した。
後々には、山科四ノ宮の十禅寺に帰依し、寄進し、格式高い家柄の人々が集う、和歌の会や、お茶会も催されたり、出席されたりした。
前天皇としての権威と格式を守るため、家光は4か条からなる黒印状を送付した。
第1条、官位など朝廷に関する一切の関与の禁止および新院御所での見物催物の独自開催の禁止
第2条、血族は年始の挨拶のみ対面を許し他の者は摂関・皇族と言えども対面は不可
第3条、行事のために公家が新院御所に参上する必要がある場合には新院の伝奏に届け出て表口より退出すること。
第4条、両親の下への行幸は可、新帝(後光明天皇)と実妹の女二宮の在所への行幸は両親いずれかの同行で可、新院のみの行幸は不可。行幸の際には必ず院付の公家が2名同行する事
明正天皇が、後水尾上皇の後を引き継ぎ、院政を敷くことを危惧しての黒印状だが、和子姫も明正天皇も気にすることではなかった。
後水尾上皇や以後、上皇となる天皇への重しの意味もある。
和子姫は、幕府と朝廷の間をとりもちながらも、独自の生き方を貫いており、後水尾上皇も資金的には力がなく和子姫に頼るしかない。
上皇として院政を敷いたが、あくまでも、和子姫の認める範囲でのことだ。
明正天皇も趣旨は理解しており、政治的発言は一切しなかった。
退位後、母、和子姫が亡くなるまで35年、再々行き来し、母娘の楽しい時を過ごした。
明正天皇は、母とともに自由を謳歌した。
家光が亡くなり、和子姫の死後は、幕府との関係も遠のき、静かに自由に思うままに18年間を過ごし、72歳で大往生となる。




