表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/81

⑭福井城(福井県福井市大手3丁目)2

⑭福井城(福井県福井市大手3丁目)2


 ■秀康の誕生から死まで

小督局(おごうのつぼね)は、本多重次に連れられ、中村家に入る。

裕福で広大な中村屋敷で、何不自由なく恵まれた環境で胎教ができる。

きっと、このまま家康の側室になれると弾む心を抑えるのがうれしい。

1574年3月1日、小督局(おごうのつぼね)26歳、家康二男、秀康を無事生む。


これまでの人生で最も充実した幸せな時間だった。

家康からの連絡がないのは寂しかったが、全て家康の手配であり、それなりの愛情があると信じた。

すぐに、秀康の誕生を家康に知らせたが、なんの返事もなく祝いもなかった。


本多重次が家康に、小督局(おごうのつぼね)が命の危険にさらされていると必死の面持ちで、脅すように申し出た。

家康にも心当たりがあり、我が子だと認めるしかないと、岡崎城から離し、浜松の中村正吉へ預けさせたのだ。

それでも、冷静になると、小督局(おごうのつぼね)に愛情はなく忘れていた存在であり、自分の子かどうかさえも疑うようになる。

家康の子だと声高に叫ばれても、迷惑と感じるだけで、次男と認める気にはならない。


小督局(おごうのつぼね)の氏素性は確かで、母方につながる縁があり、瀬名姫への対抗意識もあり、岡崎城内で共に過ごした事実を側近もよく知っており、我が子と認めただけだ。

用心深い家康は、側室として生活を共にした上で生まれた子でないと、我が子と認めることは出来ないのだ。


そこで、秀康誕生の報告を受けても、本多重次に小督局(おごうのつぼね)母子を預けたままに捨て置いた。

時が動き、1579年、瀬名姫・信康を殺し、岡崎城家臣団の再編をした。

その事後処理が家康の思いのままに終わると、岡崎城に居た家臣の多くが、浜松城に移る。

すると、小督局(おごうのつぼね)母子を岡崎城下の本多重次の元には置いておけず、浜松城に迎えた。

浜松城下に住まいを与えただけだが。


小督局(おごうのつぼね)や本多重次、氷見家の人々は、家康の嫡男、信康が亡くなり、秀康が嫡男と認められるかもしれないと内心期待し、待ち侘びた。

しかし、小督局(おごうのつぼね)母子が、浜松城下の屋敷に入っても、家康との連絡は途絶えたままだ。

小督局(おごうのつぼね)は寂しく秀康との暮らしを続ける。


信長が亡くなり、秀吉が織田氏を率いるようになる。

すると、信長後継を自認する織田信雄が、織田家を軽んじる秀吉と対立した。

家康が期待していたことであり、事前にも協力を申し出ており、織田信雄に味方した。

1584年、小牧・長久手の戦いが始まる。


家康は、信雄の軍勢とは違う、強力な軍勢を率い、個別の戦いで秀吉勢に勝利していく。

秀吉勢を翻弄し良い気分だった。

次の展開がどうなるかは、まだ予想できなかったが、信長に代わりうるかもしれないという予感に心騒いだ。

だが、大将である織田信雄が秀吉との戦いで敗北し、和議を結んでしまった。

腹が煮えくり返る思いだったが、戦う大義をなくした。

やむなく、家康も秀吉に敗北した形で兵を引く。


それから、秀吉と家康との和議を結ぶ交渉が始まる。

秀吉勝利後の和議の話し合いだ。

秀吉は家康を見下し強気で人質を要求した。

むかついた家康は、秀吉への人質に、ためらいもなく秀康を出すと決める。


小督局(おごうのつぼね)は呆然とする。

小牧・長久手の戦いで、秀吉は多くの価値ある重臣を家康により殺され、家康に激しい怒りをもっていると聞いていた。

その秀吉の元に秀康が人質に出されるのだ。

とても危険なことだ。

家康に、秀康と離れたくないと激しく抗議したが、まったく無視された。


命令には従わなければならない。

泣く泣く、支度して、秀康を大坂城に送りだした。

1584年、秀康10歳は嬉々として大坂城に行き、残った小督局(おごうのつぼね)は生きている心地がしない。

秀康の命を守るために何をすべきか、氷見氏とともに考える。

秀康が生まれても、家康の子でありながら相応の近習がつけられなかった。

そのため、小督局(おごうのつぼね)は、実家から幾人かを招き、近習としていた。

 だが、大坂城には、家康がつけた家臣団が従い、小督局(おごうのつぼね)が推した近習は選ばれない。


秀吉の望みは、家康が自ら大坂城に出向き、秀吉に臣従の意を表すことだ。

少なくともそれで、秀康の命は保証されるはずだ。

だが、それを願い出る力は、小督局(おごうのつぼね)にはない。

すぐに家康は大坂城に行くはずだ、秀康の命に危険はないと信じ、耐えるしかない。


だが、家康は動かない。

家康は秀吉の元に行くはずだと、いらいらしながら待つ。

やはり、秀吉は怒った。

秀康の命も危ない状況となる。


「(家康は)秀康を守る気がないのだ」とすべてを理解した。

秀康に命を懸けている小督局(おごうのつぼね)は、秀康の危機に黙っているわけにはいかない。

自らが動かなくては誰も助けてくれない、万が一のときは秀康と共に死ぬ決意をした。


意を決して、家康に人質として大坂城に行きたいと申し出る。

家康も拒否する理由はなく、止めなかった。

小督局(おごうのつぼね)は大阪に向かう。

自らが人質になるぐらいで、秀吉が納得するはずがないことはわかっていた。

それでも時間稼ぎにはなるはずだ。

家康は、母子共々の死を避けたいはずだ、きっと助けてくれると祈る。


大坂城に入り、自分の視野の狭さ考えの浅さを思い知らされ、驚きと歓喜の涙に包まれる。

秀吉は、小督局(おごうのつぼね)を大歓迎した。

そして、すぐに大坂城内で元気な秀康との対面を実現させた。

まだ半信半疑だった小督局(おごうのつぼね)は、二度とそばを離れないと手を握りしめた。


秀康も小督局(おごうのつぼね)に会えて喜ぶが、大坂城での暮らしすべてが楽しそうで命の危険は感じていなかった。

小督局(おごうのつぼね)は、悲壮な決意で大坂城に入ったのに、秀康の今までにない生き生きとした表情を見せつけられた。

ほっとして、力が抜け、うれし泣きだ。


以後、小督局(おごうのつぼね)は秀康から離れない。

家康と男と女として会うこともない。

側室として過ごすときがなかった、名だけの側室で終わることを実感し、受け入れた。

家康の側室にはなれなかったが、秀康の母にはなった。

それで良いと涙を流す。


ついに、1586年、家康が大坂城に入り、秀吉に臣下の礼を尽くした。

ここから小督局(おごうのつぼね)と秀康は、大坂での暮らしを心底楽しめるようになる。

秀吉は、秀康を養子とし、九州征伐に従軍させた。

秀康は、武将としての才を見せ、秀吉を喜ばす戦いぶりだった。


1590年、秀吉は、北条攻めを考えた。

秀康を一軍の将として、出陣させようと決めた。

独立させると決めたのだ。

すると、大坂城での家康から預かる人質がいなくなる。

そこで、秀忠を人質に送るよう家康に伝える。


家康は、はっきりとは返事しなかったが、北条氏との関係が緊迫してくると、秀吉は厳しく要求した。

こうして、徳川家と豊臣家とを結ぶ人質は、家康3男、秀忠となる。

小督局(おごうのつぼね)は、居り場をなくし、駿府城に戻る。

秀康は、秀吉の養子として、北条攻めに出陣する。


秀康は、並の武将ではない軍事の力を見せており、意気揚々と秀吉に付き従う。

秀吉は、秀康を結城家に養子入りさせ、家督を継がせることを決めていた。

下総(千葉県北部)の戦国大名、結城家は、北条氏の侵攻に悩まされ、秀吉の支援を求めた。

秀吉が北条攻めに向かう大義の一つとなった。

その時、結城家の後継者を秀吉縁から迎えたいと願われた。

そこで、秀吉の養子とした秀康を結城晴朝の娘婿養子とし、家督を引き継がせると決めた。

秀康は、結城鶴子と結婚し、結城家の家督を継ぐ。


秀康は、結城家当主となっていたが、秀吉死後、家康に従う。

何よりも、家康の長子としての扱いをされることを望んだからだ。

だが、父子の関係にはならない。

小督局(おごうのつぼね)が嘆き続けるように、いてもいなくてもいい子扱いだった。


それでも、家康が天下人となると、越前北ノ庄藩(福井藩)67万石を得る。

ようやく家康の子として、胸を張れるようになる。

居城は福井城(北ノ庄城)だ。


秀康は、家康が命じた天下普請の采配を取り、喜び勇んで、築城に携わる。

家康は次々自らの家臣をつけ秀康家臣団も充実していく。

小督局(おごうのつぼね)は、ようやく、堂々と実家、氷見氏一族を、秀康に仕えさせる。

氷見氏は、福井藩の重臣となり続く。

世話になった中村家への恩も忘れることなく、心を込めた礼を続ける。


こうして、小督局(おごうのつぼね)が亡き父母から願われたことは、すべて実現した。

秀康も母想いの優しい子に育った。

秀吉から、文武両道に優れた、逸材と持ち上げられるほどの猛将だった。


 福井城の築城では、小督局(おごうのつぼね)の住みやすい屋敷を築くため、希望を願われ、考えていたことを話し、思い通りの屋敷が出来上がる。

秀康の気配りが行き届いた屋敷に落ち着き、幸せを満喫する。

ところが、1607年、秀康は亡くなった。


秀康と家康の緊迫した関係は続き、心配していたが、秀康の死という酷い結果が出た。

秀康が生まれた頃、生母、小督局(おごうのつぼね)に愛情があったからこそ、家康が我が子だと認めたと信じていた。

それは幻想だったと思い知らされた。


家康には秀康にも小督局(おごうのつぼね)にも愛情がなかった。

ただ、家康の遺伝子を引き継ぎ、秀吉との良好な関係を築いたと功を認めただけだ。

天下人となり、優秀な人材が必要となり、福井城を与えた。

それでも、家康の長子だと主張する秀康は、許せない。

分不相応な願いだと腹立たしかった。

小督局(おごうのつぼね)も、あまりにも早い秀康の死は、家康に嫌われた当然の結果だと受け止めるしかなかった。


だが、家康の資質を受け継いだ秀康の子たちが多く残されていた。

彼らは、家康の子たちの甥になる。

愛情とは直接関係のない、血縁があるのだ。

秀康の子が、徳川家一門として分をわきまえれば、幕府にとって有用な人材となるはずだ。

残りの人生、福井から、かわいい孫たちの後ろ盾になると決意を固める。


家康からの愛情はなかったが、小督局(おごうのつぼね)のすべてを掛けた秀康の子達だ。

きっと、なにかできると、彼方の駿府の家康を睨む。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ