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⑭福井城(福井県福井市大手3丁目)1

⑭福井城(福井県福井市大手3丁目)1


信長は、長年越前を支配した一向一揆(越前一向一揆)をようやく殲滅した。

そして、勝利に大きく貢献した柴田勝家に、長年の功に報いると越前国北ノ庄(福井)49万石を与えた。

喜んだ勝家は、1575年、築城を始める。

足羽川と吉野川(百間堀)が合流した位置に築いた平城だった。


だが、その時は短く、時代は移り変わる。

信長・秀吉の死と続き、天下を制した家康が次男、結城秀康に越前68万石を与えた。

1601年から天下普請で、改修拡大する築城を始める。

壮大な名城が完成し、完成の後、福井城と呼ばれる。


■結城秀康の母、家康側室、小督局(おごうのつぼね)ーお万の方ー

 秀康の母、家康の側室、小督局(おごうのつぼね)

小督局(1548-1619)の父は氷見(ひみ)(さだ)(ひで)

母は水野忠政の娘。

母は、家康の母、お大の方の妹になる。

父は、三河国知立(ちりゅう)神社(じんじゃ)の神官である、知立(ちりゅう)城主、氷見氏当主。


氷見(ひみ)氏は西三河の豪族でもあり、知立(ちりゅう)城(愛知県知立(ちりゅう)市)を築き居城とし周辺を支配した。

この地に勢力を持ちつつ松平氏(家康から徳川氏となる)に従っていた。

だが、今川氏の勢力拡大につれ、押され、仕方なく今川氏に属した。


1860年、今川義元は尾張に向けて出陣した。

知立(ちりゅう)城は今川氏先発隊の本陣となり、今川勢が知立(ちりゅう)城に入った。

まもなく、信長が、義元本陣めがけて奇襲する、桶狭間の戦いが始まる。

信長は、義元を桶狭間で討ち取った。


知立(ちりゅう)城は、桶狭間より尾張に近い。

勝ち戦に気勢を上げる織田勢の攻撃の的となる。

城は襲われ、たちまち炎上した。

城主の姫、小督局(おごうのつぼね)は、まだ12歳だった。

炎に包まれた城から、家族と共に、着の身着のまま逃げるしかなかった。


城を追われ家臣も失い、氷見家一族は知立(ちりゅう)神社に入る。

ここで、(さだ)(ひで)は今川氏を離れ、家康に従うと決めた。

だが、家康は今川勢の一角を占めていた氷見(ひみ)(さだ)(ひで)を、信用しない。


当時、家康も今川氏に属していたが、今川氏から離れる機会を狙っていた。

かって松平氏に属していた諸将も駿府城内で今川氏の人質になっていたが、時が来ればとの思いを冗談交じりに話したり、近づいて家康と親交を深めていた。

だが、氷見(ひみ)(さだ)(ひで)は家康に近づくことはなかった。


そのような、氷見(ひみ)(さだ)(ひで)が居城をなくし、再建する力がないとの理由で、家康に近づいてきても信用しない。

しかも、氷見(ひみ)家の戦力は落ちており、軍事力でも頼りにならず、取り柄はない。

臣従の意思は受け入れるが、それ以上の関係にはならない。


氷見(ひみ)(さだ)(ひで)は、戦果を挙げるしか生き残る道はないと厳しく現実を見る。

だが、さしたる戦果を挙げることが出来ないまま、日が過ぎる。

知立(ちりゅう)神社で暮らす小督局(おごうのつぼね)も、2年の苦渋の歳月を過ごした。


その間、家康は、信長と和議を結び、反今川の戦いの火ぶたを切ろうとしていた。

まず、人質となったままの妻と子たちの奪還作戦を成功させ、駿府城から取り戻し、岡崎城に迎える。

まだ人質はいたが、主要な人質を取り戻し、一息つく。

ここから、今川領への侵攻を堂々と始める。


駿府城から逃れた家康の妻、瀬名姫と嫡男、信康・長女、亀姫は、駿府で生まれ育ち、岡崎城は初めての城だ。

家康の希望もあり、わずかな伴しか連れず岡崎城に入った。

たちまち、侍女が不足する。


そこで、募集する。

ここで家康の母、お大の方が、実家の水野氏に繋がり、不遇の中にいる氷見氏の妹を助けたいと姪になる、小督局(おごうのつぼね)を推した。

お大の方が、瀬名姫監視の為に、推したのでもる。

瀬名姫も気に入り、召し抱える。


小督局(おごうのつぼね)は、14歳の大人の女人となっており、神官の娘として知識教養を積み、強い個性ときらめく才知があふれていた。

父母は、小督局(おごうのつぼね)を岡崎城で家康に仕えさせたいと、水野氏に頼んでいた。

ようやく機会が訪れたと大喜びだ。

小督局(おごうのつぼね)に、氷見家のために価値ある働きをするよう励まし、送り出す。

小督局(おごうのつぼね)は岡崎城に入る。


岡崎城のはずれ築山の地に屋敷が築かれ、そこに瀬名姫親子が住んでいた。

小督局もその屋敷に入る。

そこで、瀬名姫・亀姫の側近く仕え信頼されていく。


小督局(おごうのつぼね)は家康に仕えたかった。

だが期待していた家康が訪れることはほとんどなかった。

瀬名姫は、駿府では瀬名姫と呼ばれていたが、この地を屋敷とし、築山殿と呼ばれた。

岡崎に戻って以来、家康と瀬名姫の距離は遠くなっていた。


1570年になると、家康は浜松城に移ってしまう。

小督局(おごうのつぼね)は、家康と会うことは、もうないとがっくりだ。

これでは、今までもなかったように、これからも実家が厚遇されることはない。

父母の役に立てず情けない。


家康が浜松城に移ると、瀬名姫は築山と岡崎城本丸を行き来するようになる。

そして、家康が、たまに岡崎城を訪れると、信康や亀姫と対面する。

小督局(おごうのつぼね)は亀姫付きになっており、会う機会が出来た。

今まで以上に、家康に近づいたと、感じ、わくわくするようになる。


ただ、家康が瀬名姫と会えば、いつも口論になるのが寂しい。

瀬名姫は、実家をなくし帰る所はなく、失うものは何もないと、捨て身の覚悟で、怖いもの知らずで、家康に思いの丈をぶつける。

城主、信康の母として、岡崎城で一定の力を持つようになり、常に家康に対峙した。


瀬名姫の父母は、今川氏真に家康が裏切ったことへの責任を取るよう迫られ、自害した。

家康が今川氏に従うための監視役だったのに、役目を果たさず、裏切りを見過ごしたと。

父母の命と引き換えに、家康の元に戻った瀬名姫だったが、家康は歓迎しなかった。

2年の歳月を埋め合わせる、熱い愛情を期待していたが、家康にはなかった。

瀬名姫は、夫婦としての絆はなくなったと思い知らされる。

しばらく泣き伏したが、気を取り直し、後は、自由に子たちの為に生きると、覚悟を決めた。


瀬名姫に悪口雑言を浴びせられいらだつ家康が、目に留めたのが、小督局(おごうのつぼね)だ。

小督局(おごうのつぼね)は、きりっとした整った顔立ちで華やかな美人ではないけれど知的な落ちつきと堂々とした風格があった。

小督局(おごうのつぼね)は、ほんのたまに家康に話す機会があると、懸命に氷見家の状況を話し、取り立てて欲しいと願うが、答えはなかった。

 それでも家康に覚えられていく。

そんな時、瀬名姫へのうっ憤を晴らすように、家康は小督局(おごうのつぼね)を抱いた。


小督局(おごうのつぼね)は、心中願っていたことだったが、あまりに簡単に、男女の仲になり、信じられないほどだ。

1574年、家康の次男、秀康の母となる。

だが、小督局(おごうのつぼね)と家康の愛は、瀬名姫の周囲では許されないことだった。

家康は瀬名姫に冷たく不仲で、瀬名姫に仕える侍女は、家康の瀬名姫に対する仕打ちはあまりにひどいと思っており、家康と距離を置いて、よそよそしく仕えた。


ところが、小督局(おごうのつぼね)は、主、瀬名姫を裏切り、家康の子を妊ったのだ。

家康と小督局(おごうのつぼね)の話で瀬名姫の屋敷は持ちきりになる。

そして非難の渦が起きる

瀬名姫は、我が身の苦境を知り尽くしている小督局(おごうのつぼね)が、裏切るとは信じられない。


小督局(おごうのつぼね)は、家康と岡崎城内での数日の逢瀬があっただけで、その後、愛情を込めた話も、側室として迎えるという話も一切ない。

天にも昇る思いで初めて抱かれた時から、家康の愛情のなさを感じたが、あまりに情けない。

ただ、瀬名姫への腹いせで、小督局(おごうのつぼね)を抱いただけなのだ。


だが、家康の子を身籠った。

小督局(おごうのつぼね)は、家康からも築山殿からも見放されていると、痛いほど感じている。

相談できる人もいない。悩み苦しむ。

やはり、父母に話すしかない。

父母にも、小督局(おごうのつぼね)を守る力はなかったが、頼るべき人は、本多重次と告げた。


小督局(おごうのつぼね)は、身重の身体を自分の力で守るしかなかった。

家康の子を授かることは無事生まれれば非常に値打ちのあることだ。

また、授かった命への湧き上がる愛情もある。


父母の助言もあり、意を決して、よく顔を合わせている岡崎三奉行の一人、氷見氏と長年の付き合いのある家康譜代の家臣、本多重次に相談する。

重次はすぐに事情を察し暖かく自邸に迎えた。


重次は、瀬名姫に恨まれた小督局(おごうのつぼね)の事を詳細に、家康に伝え指示を待つ。

家康は、小督局(おごうのつぼね)を岡崎から離し、遠江浜松宇()()()の中村正吉に預けるよう命じる。

家康も我が子である事は認めるしかなく、多少の自責の念があった。

小督局(おごうのつぼね)は、誰からも認められず居ないほうが良い存在なのだと落ち込んでいたが、家康の子の母になってもよいと家康が認めたと知り、やっと生きることができると泣き笑いだ。


中村家は、源頼朝の弟、源範頼から始まる。

遠江国池田宿(静岡県磐田市(いわたし))で生まれ育った源範頼は、鎌倉幕府開府に尽くしたが非業の最期となる。

だが、子たちは許され大和国広瀬郡中村郷に住み、中村を名乗る武士となった。

1481年、今川氏に招かれ、始祖の住まい近く遠江国磐田郡(いわたぐん)大橋郷に領地を得て、仕える。

武将として頭角を現し、浜名湖の軍船を統括し、今川氏水軍を率いた。

1483年には()()()(静岡県浜松市西区雄踏町(ゆうとうちょう))に屋敷を構えた。

義元が亡くなると、次第に家康に傾く。


そして家康の今川方の寝返りを勧める調略に成果を出す。

家康の遠江侵攻には、今川氏水軍を家康の水軍に変えながら果敢に戦い、高く評価された。

以後、家康は、領地を安堵し、浜名湖の水運を任せる。

浜名湖今切口で軍船兵糧奉行を命じられ、今川氏で得た役目と同じ、水軍の統括をする。


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