①五稜郭(北海道函館市五稜郭町) 2
■土方歳三の恋
五稜郭を彩る偉人に、土方歳三(1835-1869)がいる。
土方歳三は夢に生き、夢の中で亡くなる短い34年の生涯だったが、思い通りに夢を実現した幸せな生涯だった。
だが、伴侶となる女人に出会うことはなく、花街での束の間の逢瀬のみの、命を懸ける恋のない寂しい女人との付き合いで終わった人生だった。
土方歳三の人生を大まかに3つに分けると。
武士を夢見るやんちゃで、乱暴者の少年・若者だった時。
近藤勇と出会い、彼を大将(大名)にするために生きた時。
近藤勇を乗り越え、自らが大将となり武士としての人生を全うすると覚悟した時。となる。
1835年5月31日、天領だった多摩(東京都日野市)で、商売も行っていた裕福な豪農の家に生まれる。
10人の兄姉がいた末っ子。
育ったのは6人だったが。
家庭的には恵まれなかった。
父は生まれる前に亡くなる。
母は6歳で亡くなる。
以来、家庭では、押さえるものがなくなる。
天領であり、支配体制も緩い。
そんなこんなで、この地が大好きな、わんぱくで自由闊達、剣術好きな子に育つ。
天領ゆえに幕府への思い入れは深い。
幕府の役に立ちたいと、勉強もよくした。
1844年、姉、のぶが、日野宿名主、佐藤彦五郎に嫁ぐ。
1849年、日野に大火が起き、物騒な状況となり、暴徒も出る。
佐藤彦五郎は、命の危険を感じ、自衛のため、自宅に剣道道場を開く。
土方歳三14歳、居場所を見つけたと大喜びで、姉の家に行った。
剣道道場に行き夢中になって剣の腕を磨く。
翌1850年、土方歳三より7か月年上の近藤勇が出稽古に来た。
義兄、佐藤彦五郎が呼んだのだ。
土方歳三は、初めて目を見張るような剣の技を見た。
我流では怖いものなしの土方歳三だったが、剣道の奥の深さを見せつけられた。
近藤勇に魅せられ、正統な剣道を学ぶと決める。
近藤勇から、天然理心流を学んだ。
そして、この人こそ、大成すべき人だと確信する。
実家は武士ではない。
そのため、土方歳三は、商人になることを家族から勧められる。
剣道では身を立てることはむつかしく、やむなく、江戸に奉公に出るが、勤まらない。
実家に戻り、実家秘伝の「石田散薬」を行商することにした。
それでも、各地の剣術道場で試合を重ね、修行を積んだ。
幕末の不穏な空気が漂う中で、江戸で多感な時期を過ごしたのは価値があった。
自分の生きる道は、幕府を守る武士になることだと決意を強めていく。
剣道では、誰にも負けない力をつけていた。
幼い頃から、探究心旺盛で、環境にも恵まれ、勉学でも近隣に知られるほど優秀だった。
寺子屋での勉強は友人との遊びの場であり、ガキ大将となりながら、難なくこなした。
家には蔵書も多くあり、幼いときは兄姉から教えられ、好きな本を読みまくった。
武士として身に付けなければならない教養を学ぼうと決める。
親戚に谷保村(国立市)の名主、本田覚庵がいた。
本田覚庵は、医者、書家として近在に知られた文化人だった。
武士として身に付けなければならない必修の教養と思ったことを、すべて習熟する気構えで、本田覚庵の家に通い、夢中になって学ぶ。
漢学・書道には特に秀でた。
土方歳三は、24歳となり、武士となっても恥ずかしくない自信を得た。
そこで、近藤勇と出会って10年近く経ち、近藤勇の道場、試衛館に入門する。
近藤勇と共に武士の道を歩むと決意したのだ。
江戸牛込(東京都新宿区)の試衛館に通い始める。
近藤勇も喜び、共に剣の道を究めていく。
翌1860年、近藤勇は、願い続けていた武家の娘、松井ツネと結婚する。
そして、天然理心流宗家を継ぎ、道場の主催者となり、武士への道がほぼ出来た。
土方歳三は、近藤勇の片腕となっていた。
近藤勇は見込んだ通りだと喜ぶ。
そして「武士よりも武士らしく生きる」を信条に、近藤勇を支える決意を固める。
1862年、幕府は、要人警護のために、浪士募集を決める。
剣術に自信のあるものならば、身分を問わず召し抱えるという画期的な募集だった。
1863年2月4日、近藤勇・土方歳三らが試衛館の仲間を引き連れ応募した。
歓迎され、小石川伝通院で総勢234名の浪士隊が結成された。
すぐに、将軍、家茂警護のために、京に向けて出立。
朝廷より「新選組」の名を得て、会津藩主、松平容保より市中見回りを昼夜行うことを命じられる。
死を掛けた危険な任務だと、潤沢な資金が与えられる。
顔良し・スタイル抜群・男らしさがきらめく土方歳三のモテモテの時が始まる。
同時に、近藤勇に権力を集中させ、京を警護する新選組の威光を高める為、土方歳三の本領発揮の時となる。
新選組の厳しい規則をつくり、規則を破った者を容赦なく切腹させた。
敵を殺した数よりも、身内で掟を破った者を殺した数の方が多いと言われるほどだ。
こうして新選組の主流となり、身内で幹部を固め、9月ごろには、新選組局長、近藤勇・副長、土方歳三となる。
土方歳三は、新選組を幕臣にし、近藤勇を大名とすると目標を定めている。
この大義の為には何をしてもよいという考えだ。
それが幕府にとっても有効な策となると確信していた。
土方歳三自身も、武士以上の武士になり切って働いた。
潤沢な資金を得て、酒宴・遊興・隊士集めと忙しい。
1864年6月5日、池田屋事件を起こし、成功させた。
新選組の名は天下にとどろき、褒美の金品も出た。
土方歳三のすべきことは、市中見回りでの手柄を新選組が独り占めすることだ。
その為に、どのような手段でも使って良いという考えだ。
市中見回りは新選組の力で、平静さを保っているとの評価が定着する。
幕臣取り立てを願い続け、ついに、1867年6月、新選組の幕臣取り立てが決まる。
土方歳三の願い通り、新選組は武士になった。
だが、すでに時代は変わっており、土方歳三は守旧派となっていた。
10月には、将軍、慶喜が大政奉還し、政権を担う徳川幕府は終わった。
12月9日、慶喜は征夷大将軍職を辞し、朝廷は王政復古の大号令を宣言し、軍事の統括権もなくし、徳川幕府は正式に滅んだ。
土方歳三の思い描いた武士はなくなり、天皇が率いる世になってしまった。
これからをどう生きるか悩む。
たとえ時代遅れになろうとも、土方歳三には、武士であることしか生きる道はなかった。
新選組は朝敵となった慶喜に従い続けると決める。
1868年始め、鳥羽伏見の戦いが始まる。
負傷し戦線を離脱した近藤勇に代わり土方歳三が指揮するが、新政府軍に敗れた。
慶喜ら幕府の首脳陣は、江戸に逃げ戻り、新選組も江戸に戻るしかなかった。
土方歳三は剣で勝てる戦いは過去の事だ。
これからは、洋式軍備なくして勝利はないと、洋式軍備の必要性を訴えた。
江戸では、幕府がフランス式調練を取り入れていた。
考えることは同じだ。
そこで、フランス陸軍の指導を受け猛烈に勉強する。
1月中には洋式軍服を受け取り、受け取った洋式軍服を着て、写真を撮る。
戦いやすい洋式軍服が気に入った。
皆に広め、新政府軍と戦いたかった。
江戸では、慶喜の警護の役目を与えられた。
慶喜は動かず、警護の必要はない。
そこで、2月28日、勝海舟から、甲州の治安を守るよう命じられ、200名あまりを引き連れ甲府城に入る。
ここ死んでも良しと、戦術を考え、率先して戦う準備をした。
だが、旧幕府軍は一枚岩ではなかった。
逃亡者が相次ぎ、陣容を整えられない。
どんどん力を増す新政府軍と戦うことさえできない。
その間、江戸城は無血開城された。
主戦論の土方歳三を江戸から離す計画に、はめられたのだ。
土方歳三は、自分の世を見る目の浅さに改めて情けなくなる。
急ごしらえの武士では世の情勢をとらえきれない。
幕府が戦う気力をなくし、徳川家の存続だけを願っているのだ。
江戸での華々しい戦いを考えていた自分がおかしく、虚しい。
まだ、戦い続ける旧幕府軍がいた。
そんな旧幕府軍と合流し、宇都宮で戦い、一度は勝利する。
だが、流れは止めようがなく、負け続けて、負傷した。
会津で療養後、仙台に向かう。
4月25日、囚われていた近藤勇が斬首。
土方歳三は何のために今まで頑張ってきたのかと情けなく全てに意欲を失う。
幕府を支える武士として、武士より武士らしく生きると、規律を厳しく守らせ鬼となったが、守るべきものがなくなった。
わかるのは、もはや勝利はないということだった。
会津を死に場所と決め、迎え撃つ布陣を整えたが、会津藩勢はあっけなく負けた。
自分の美意識を満たす、死に場所はなかった。
やむなく、米沢に向かい、仙台青葉城に入り、徹底抗戦を訴えるも、伊達藩は拒否。
後は土方歳三として、どう死ぬかということを考えるしかないが、答えはない。
そんな時、榎本武揚率いる艦隊に招かれ乗る。
総勢2300名が乗り、函館を目指す。
思う存分暴れる、死に場所ができたと胸が高鳴る。
土方歳三には、五稜郭は夢見た最後の地だった。
10月26日、五稜郭に入る。
すぐに、松前城に向けて進軍。
松前城を占拠する。
さらに、松前藩兵を追撃し勝利する。
指揮官、土方歳三としての力を見せつけた。
松前藩を追い出し、共和国政府を樹立したのだ。
土方歳三は近藤勇を亡くし、生きる希望を失ったが、独り立ちしたことを実感した。
死に場所を見つけ、生きる希望を見つけたのだ。
笑ってしまうが、幸せだった。
共和国政府樹立の大功労者として、総督、榎本武揚以下、8人の幹部の一人に、土方歳三が選ばれる。
武士の中の武士になる、毎日毎日思い続けていたことが実現した。
自然に笑みが浮かぶ。
なんの意味もない、死に場所を見つけただけだと、客観的に見つめる自分もいたが。
それでも、思う存分戦うと、責任感が満ち溢れる。
いい気持だった。
新政府軍を相手に、要職、陸軍奉行並、土方歳三は、名に恥じない、軍功を数々上げる。
だが、兵力の差はどうしようもなく、1869年6月20日、狙撃された。
34歳で戦死。
土方歳三は、多くの殺人を繰り返した責任を取り、死に花を咲かせ閉じた。
近藤勇を支える人生を送ると決めたが、最後は独り立ちして、近藤勇に並ぶ武士として散り、満足だった。
ただ、女人遍歴の面から見てみると、近藤勇と同じようには生きることができなかった。
近藤勇は、清水徳川家臣・松井八十五郎長女、松井つねと結婚し正規に武士になる。
天然理心流宗家、近藤周斎の養子になっての結婚であり、武士として誰もが認める道を結婚で歩み始めた。
別居が多く、女人との逢瀬は重ねたが、松井つねを妻として重んじ、大切にした。
松井つねとの結婚で、武士の道ができ、思う存分に生きることができたとの思いがいつも心底にあった。
松井つねは最高の伴侶だった。
土方歳三には、伴侶はいなかった。
共に生きると決意するまでの恋はなかった。
近藤勇は取り立てて誇るほどの容姿ではなかったが、土方歳三は誰もが認める完璧なスタ-だった。
自他ともに認める「いいおとこ」であり、武士の妻にふさわしい伴侶がみつかれば、結婚したかったが、出会わなかった。
そのため、近藤勇のような道は取れず、実力で多少のあくどいことはしても、武士になったのだ。
豪農で暮らしに不自由することはなく、皆に可愛がられた圧倒的なガキ大将だった。
同時に、何をさせても、とても優秀だった。
そこで、兄姉は、江戸で一旗揚げ商人として成功する道を進ませようとした。
ところが、奉公先では、商才を磨くより、周辺の女人との醜聞ばかりだった。
実家に戻ると、心配した兄、為次郎が、お琴との結婚を決めた。
お琴は戸塚村にある三味線屋の娘で、評判の美人で、才媛。
三味線の調律から演奏もこなし、長唄は名取だった。
だが、武士を目指す、土方歳三は、結婚相手にふさわしくないと興味が持てない。
結婚はしなかった。
吉原の上位遊女、花魁、火炎玉屋の黛太夫との浮名が有名だ。
すごくお金のかかる黛太夫とつきあうだけでも、すごいが、土方歳三に気にもとめなかった。黛太夫自身が語る土方歳三との恋は、自慢話として残っているだけだ。
黛太夫はお金を取らず、帳尻を合わしたとしか考えられない。
超有名な女人を虜にし、全く気取らないすごさがあった。
京に入ってからは、土方歳三が自慢する遊興の日々だった。
江戸の吉原と並ぶ花街、京の島原(京都市下京区)では、花君太夫、天神、一元、などをなじみとした。
彼女たちは、和歌や俳句、能楽、歌舞伎など文芸の教養が深く、芸を売る女人でもあった。
京の文化の中心を担っている心意気もあった。
彼女たちから圧倒的人気を得たのが、土方歳三。
届いた、熱烈なラブレタ-は、数限りないほどあった。
土方歳三が返事を書くことはない。
即興での歌は多く残したが。
面白いことに、土方歳三に入れ込んだ花君太夫は、中岡慎太郎の馴染みだった。
花街に勤王佐幕という敵味方はなく、入り組んだ関係で、中立を保っていた。
だが、お互いの情報源になっていた。
土方歳三は宴を開き華やかに遊ぶが、気を許すことなく、情報収集を第一とし、新選組での権力の確立の為に活かし、生涯続く恋をする気はなかった。
緊張感はあったが、激しく大きい戦いがあるわけではなく、基本的には、暇人で、謀略で権力を固めていく京での暮らしであり、そのための花街だった。
お茶屋遊びは、打ち合わせにも、各方面への友好を深める為にも、密かにうわさを流す為にも、価値があった。
庶民的な花街、
祇園(京都市東山区)では、芸妓三人程と遊んだ。
北野(北野天満宮の門前町)では舞妓、君菊・小楽。
君菊との間には女の子が生まれたが、夭折する。
大坂新町(大阪市西区新町)では、若鶴太夫、外2、3人。
北の新地(大阪市北区)にも、多くの馴染みがいた。
潤沢な資金があったゆえの遊びであり、多くの同志を追い詰め殺し気が滅入ることも多く、気分を晴らし大義に向けて英気を養う必要もあり、仲間と共によく遊んだ。
近藤勇が力を落とし、土方歳三が先頭立って戦うようになると、責任感と、勝利の為に、茶屋遊びを止める。
近藤勇が死ぬと、女人との関係も断ち切った。
俳句が好きでよく創った。
素直な心情がにじみ、楽しくひょうきんな人柄が表れている。
辞世の句とも思える句が
早き瀬に力足りぬか下り鮎
梅の花咲ける日だけにさいて散る
しれば迷いしなければ迷はぬ恋の道
春の草五色までは覚えけり
梅の花 一輪咲いても 梅は梅
来た人にもらひあくびや春の雨
「鬼の副長」が、真実の姿でないことを物語る。
近藤勇のように武家の娘を伴侶としたかった。
だが、幕臣として武士になったのと幕府が崩壊するのがほぼ同じ時期だったのがあまりに不運だった。
薩摩藩か長州藩に生まれていれば、勤王の志士として名を成したかもしれない。
どちらにしても、五稜郭があればこそ、武士としての誇りをもって死ねたのだ。
武士として生きて死ぬことが夢であり、実現させたのは五稜郭だった。