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⑩大垣城 (岐阜県大垣市郭町)2

⑩大垣城 (岐阜県大垣市郭町)2

半兵衛のいとこ、重利が竹中宗家後継。

半兵衛(重治)は弟、重矩(1546-1582)に幼い我が子、重門(1573-1631)を託した。

兄から、今後のことを聞かされていた弟、重矩は、兄の死を聞くと、竹中勢を率いる為、陣中に駆け付ける。

だが、秀吉は、まだ若い17歳の半兵衛のいとこ(父の弟の子)重利(1562-1615)を直臣とし、竹中勢を任せた。

秀吉は、半兵衛(重治)の遺言を裏切り、弟、重矩ではなく、後継にいとこ、重利を選んだ。


弟、重矩は、信長家臣であったため、信長家臣のままとした。

そこで、半兵衛(重治)に仕えていた重利を秀吉直臣としたのだ。

竹中家分家、重利と竹中家宗家、半兵衛(重治)の妹との結婚で、一応、本家を引き継ぐ大義とした。

こうして、重利が秀吉に召し抱えられ、重門の後見人となり竹中氏宗家を率いることになる。

重門も成長後、秀吉に仕える。


重矩の妻は、信長一門、中川重政の娘だった。

信長から見て専横な振る舞いがあった中川重政は、弟、津田盛月とともに、信長の怒りにふれ、追放され、家康に預けられる。

信長にはありがちなことで、後に許されるが、勢力は格段に落ちる。


秀吉にも同じ思いがあった。

秀吉は、中川重政と京で信長政権を立ち上げる時の同僚だった。

信長政権の基盤づくりに、重要な役目を共に担い、権益も得た。

だが、中川重政は、信長一門の京都奉行として秀吉を見下した態度をとり、心中許せない思いがあった。

弟、津田盛月(1534-1593)は、秀吉(1537-1598)と同じ目線で話し控えめだった。


そこで、秀吉は、津田盛月を高く評価した。

追放中も津田盛月を支え、許されると、召し抱える。

津田盛月は秀吉に忠誠をつくし、重用される。

中川重政との結びつきは、重矩を嫌う理由の一つだった。

また、重矩は、手柄を立てたわけではないのに兄の威光を笠に着るように秀吉は感じた。


1580年、信長は、安藤守就の野心を疑い、謀反の恐れありと、追放した。

甲斐の武田勝頼と内通した罪とされた。

重治(半兵衛)亡き後の竹中家は秀吉の庇護はなく、弱かった。

この頃、武田氏は滅亡寸前であり、先を見る目のある安藤守就(もりなり)が内通するはずがないが。

やむなく、守就(もりなり)は故郷、武儀郡谷口村へ移り、謹慎する。


この時、稲葉良通一鉄が、安藤守就(もりなり)の領地を奪った。

信長も許した。

守就(もりなり)は、稲葉良通一鉄にはめられたのだと、怒り確信した。


1582年6月21日、本能寺の変が起きる。

重利は常に、秀吉の側に付き従い、弔い合戦を戦い、勝利する。


重矩は、信長家臣であり、京には呼ばれておらず、国元に居た。

明智勢の強い地を領地としており、反信長の一揆が起きた。

重矩には防ぎきれず、1582年6月25日、殺される。


その時、守就(もりなり)は、明智勢が有利と見た。

天が味方したと勇んで、子の安藤尚就らと共に、光秀に呼応した。

挙兵して勝手の居城、北方城を奪い、再起を図る。

光秀と事前の打ち合わせをしたわけではなく、まず、挙兵し、それから兵を集めていくというドタバタとなってしまった。


北方城に戻り、稲葉一鉄(良通)への守りを固めようとしていた時、稲葉一鉄(良通)は素早く反撃を開始した。

兵は集まりつつあったが、時間が足りなかった。

歴戦の勇士、安藤勢は必死で防戦し大激戦を繰り広げたが、数に勝る稲葉勢に圧倒される。


1582年6月27日、安藤守就(もりなり)・尚就以下一族郎党は殺され、安藤家は壊滅した。

守就(もりなり)の弟の子、幼少の可氏(1571-1629)のみ生き延び、山内一豊に匿われる。

成長後、土佐藩主、山内一豊の家老となり続く。


秀吉は、反旗を翻した安藤勢を明智方、自領を守った稲葉勢を反明智方と見なした。

稲葉一鉄(良通)は、安藤氏の領地を確実に手に入れ、力を増した。


最大の支援者、安藤氏は滅亡、信長が亡くなり、重矩も亡くなった。

ここで思うままに、秀吉は、竹中家を再編する。

半兵衛(重治)の後継は、重利。

重矩の後継を重門(しげかど)9歳とし家督を継がせる。

重矩が、信長から得ていた所領は取り上げ、改めて本拠、不破郡の5千石だけ相続させた。

秀吉は、重利を嫡流と見なし重用し、重門(しげかど)以上の処遇としていく。

重利は、1594年、豊後国国東郡高田1万3000石大名にまで、出世する。


重門(しげかど)が、半兵衛自慢の家臣団を引き継ぐ。

だが、5千石では、召し抱えきれず、去っていくものが出てくる。


関ヶ原の戦いで、奮戦し、領地が激戦地となり、戦後処理も含めて、家康は1千石加増し、秀吉時代より、わずかだが、優遇し6000石旗本となる。

その後、重門(しげかど)の孫、重之に1000石を分地し旗本家を起こさせた。

こうして、竹中宗家(重門(しげかど)系)は旗本5000石で続く。


苦楽をともにした筆頭家老、不破矢()(そく)の長男が福岡藩に仕え、次男が旗本、竹中重利(重門(しげかど)3男)に召し抱えられる。

竹中一族は、豊後府内藩竹中家、土佐藩山内家、加賀藩前田家などにも仕え重職に付く。


竹中半兵衛と黒田官兵衛は、秀吉の天下取りに大きく貢献した当時は、大差なく、並び立つ英雄、だった。

関ヶ原の戦いでも、積極的と消極的な差はあったが、東軍に属した。

にもかかわらず、江戸時代には、旗本5千石と、福岡藩52万石藩主と大差がついた。


大垣城近くを本拠とした、竹中半兵衛(重治)を引き継いだ妻、得月院いねは奮闘するも、思い通りにはならなかった。

それでも、竹中半兵衛(重治)は、笑って上出来だと受け入れたことでしょう。



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