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⑩大垣城 (岐阜県大垣市郭町)1

⑩大垣城 (岐阜県大垣市郭町)1

「西美濃の要衝」大垣城(築城時の名は牛屋城)。

1500年、この地を支配した豪族、竹腰尚綱が陣屋として築いた。

1535年、美濃(岐阜県)守護、土岐氏一族、宮川(みやがわ)安定(やすさだ)が本丸・二ノ丸を築き城として整備。

1563年、氏家卜(うじいえぼく)(ぜん)が、拡張した。

1583年、池田恒興が近世城郭とすべく、本格的に整備した。


 それから、一柳直末・伊藤祐盛・伊藤盛景らと城主が変わり、関ヶ原の戦いの西軍の本拠となり、石田三成が入る。

 華々しい戦いがあるも、落城。

徳川の世となり石川康通らが藩主となり、1635年、戸田氏が藩主となると幕末まで続く


要衝の地を守る城であり、珍しい4重4層の壮大な天守が聳え、水堀を幾重にも張り巡らせた総構えの堅城。

10万石藩主の居城として威容を誇った。


 今回のお話は、大垣城近くの菩提(ぼだい)山城(さんじょう)(岐阜県不破郡垂井町岩手)。


■軍師、竹中(重治)半兵衛

大垣は美濃と近江(滋賀県)を結ぶ最重要拠点だった。

そのため、斉藤道三と織田信秀が奪い合った。

この地には、竹中半兵衛の居住した陣屋があり、派手な活躍ぶりが有名になる。

菩提山城(岐阜県不破郡垂井町岩手)を詰の城とし、麓の岩手城(竹中陣屋)に住まうのが竹中家。


斎藤道三を支え、力を持った西美濃三人衆、氏家直元・安藤守就・稲葉良通がいた。

氏家直元が、大垣城主だった。

皆、支配地は近い。

周辺の国人衆も含めて、縁戚が続く一門でもあった。

親戚は入り組み、協力もするが、敵対もする。


安藤守就(あんどうまもりなり)は、道三に命じられ、信長への支援部隊を率い、那古野城に詰める時もあり、信長と親しく、信長も頼りにした猛将だ。

安藤氏(伊賀氏)は美濃の稲葉氏の支流になる。

稲葉良通一鉄の伯母を母とする、守就(1503‐1582)が、安藤氏を称した。

美濃国大野郡を支配し、北方(きたがた)城(岐阜県本巣郡北方町)を居城とする。


竹中半兵衛(重治)(1544-1579)は娘婿。

1560年、半兵衛が家督を継いだとき、安藤氏、得月院いねと結婚した。

安藤(伊賀)家・竹中家は通婚があり、二人は幼馴染でもある。

以来、安藤守就(あんどうまもりなり)は、半兵衛を支え、支持し、世に送り出していく。


竹中氏は、西美濃の国人、岩手(いわで)氏の嫡流。

岩手(いわで)氏は、清和源氏を始まりとする土岐氏の支流になる。

美濃国不破郡岩手(いわで)漆原に在地し勢力を広げた。


室町時代初期から、守護土岐氏、重臣となり、続いて、斎藤家に仕えた。

当主は、頼重・重朝・重久と続く。

この頃、六千貫(1万2千石)程度の領地だった。


武田氏の勢力が強くなり、土岐氏の力が弱くなると、土岐氏重臣にも武田氏の影響力が及んでくる。

武田氏一門、信忠が、岩手(いわで)重久の娘婿養子としてり送り込まれ岩手(いわで)家は武田氏影響下となる。

以後当主は信忠・信久・信冬(長誠)と続く。

岩手(いわで)氏嫡流として、土岐氏、そして引き継いだ斎藤氏に仕え、家中も当然と思っていく。


信忠が岩手(いわで)氏の家督を継ぎ、重久は追い出され分家とされてしまった。

やむなく、竹中氏を名乗り、子たちと引き連れた家臣団と共に、土岐氏・斎藤氏に仕える。

重久の子、重氏は大御堂城(岐阜県揖斐郡大野町公郷)を居城としたが、嫡流としての意地を持続け、本城を取り戻し、嫡流に戻る日が必ず来ると固く信じた。

時が過ぎる。


そして起きた斎藤家の内紛。

重氏の嫡男、重元は、主君、道三を支持し、家名再興にかける。

だが、1556年、道三は殺された。

勝利した義龍は、重元を謀反人であると攻めた。


この時、重元の子、半兵衛12歳は、居城、大御堂城に居た。

まだ幼いと、戦には連れていかれず、城を守っていた。

そこに、勢いづいた義龍派や暴徒が城を奪おうと襲ってきた。

半兵衛は、ひるまず、母とわずかな家人と共に、巧みな戦術で、侵入者を翻弄し、ついには、撃退し、城を守る。

若干12歳で武将としての名を挙げた。

ここから、半兵衛は、天才的、戦術家であり、優秀な戦略家として高名になっていく。


主君に見放された竹中家は野に潜むしかないが、嫡流としての意識は高い。

半兵衛は、岩手(いわで)城主、信冬(長誠)を落とし込める策を張り巡らす。

戦が続き高圧的に税の増収を図る岩手(いわで)城主、信冬(長誠)の悪政に領民が怒っていた。


その領民に怒りが最高潮に達した1558年、岩手(いわで)城主、信冬(長誠)を討つと、嫡流、重元・半兵衛(重治)が高らかに宣言し戦いを始めた。

領民の圧倒的支持を受けて、岩手(いわで)氏居城、岩手(いわで)城(岐阜県不破郡垂井町岩手)を襲い奪い、信冬(長誠)、追い出した。

積年の恨みを晴らし、岩手(いわで)城を取り戻し、家中は歓喜した。

すぐに、信冬(長誠)の支配地と周辺の西美濃不破郡一帯(約3万石)を押さえた。


岩手(いわで)氏追い落としは成功した。

次に、義龍を主君とし仕え、領地の安堵を認められれば、家名の再興が終わると、取次を頼んだのが、安藤守就だ。

父、重元の叔母(重氏の妹)が、安藤守就の母だった。


安藤守就は、了解し、うまく取り次いでくれた。

こうして、重元と半兵衛は、故郷を取り戻し、3万石を支配する。

そこで、岩手(いわで)城近くに居城、菩提山城(岐阜県不破郡垂井町岩手)を築く。

岩手(いわで)城には入らず、新しい城を築いた。


一連の作戦を計画し、仕組み、主導したのは、まだ14歳の半兵衛(重治)だ。

すでに軍師だった。

また、細身のはっとするほどの美形の武将に育っていた。

静かにたたずむと、女人と間違われるほどだ。

しかも、武芸の鍛錬も怠らず、免許皆伝の剣術の腕前だった。


安藤守就は、半兵衛(重治)の見事な策に、感動した。

そして「ぜひ娘婿になって欲しい」と願う。

1560年、父、重元が亡くなり、半兵衛(重治)16歳が家督を継ぐと、守就の娘、得月院いねと結婚する。

結婚のとき、いねはまだ幼かったが、二人の夫婦仲は素晴らしかった。

以後、安藤守就にとって最高の婿、半兵衛(重治)となる。

全面的に支援し、後ろ盾になり、竹中家・安藤家は手を携え、斎藤龍興を支える。

同時に、斎藤氏の将来を冷静に見ることになる。


1561年、織田信長が美濃に侵攻した。

その時、半兵衛(重治)は「十面(じゅうめん)埋伏陣(まいふくじん)」(10隊の伏兵と囮部隊で敵を攻撃する陣立、三国志の計略)で破り、名を上げる。

1563年、織田勢と新加納で戦うが、半兵衛(重治)の戦術は冴え、斎藤勢は勝利した。

故郷を取り戻し、家督を継ぎ、半兵衛(重治)の軍師としての力が全面開花した。


1564年、主君、斎藤龍興の居城、稲葉山城を、弟や安藤守就と共に一日で奪取する。

軍事力抜群の安藤守就(あんどうまもりなり)に支えられ、奇想天外な作戦を成功させた。

占拠後、6か月余りで、斎藤龍興に返還。

これも見事で、家中は拍手喝采だ。


稲葉山城(岐阜城)奪取・返還の奇想天外な早業・面白さに、信長から召し抱えたいとの丁寧な申し出を受ける。

龍興に恥をかかせ、もはや仕えることはできないと覚悟していた。

次にどうすべきか悩むが、半兵衛(重治)は、斎藤氏と敵対したくない。

また、軍事を猛勉強しており、試したいこと知りたいことがあった。


そこで、斎藤家と敵対せず、近江で勢力を伸ばしている浅井長政に仕えようと思い立つ。

斎藤家ですべきことを果たしたと、辞す。

浅井氏に仕えたいと申し出た。

浅井氏当主、長政は、話には聞いていたが自分で確かめたく、自ら対面する。

記憶力・思考力が並外れてよく、兵法軍学をよく学んでいることを確認し、驚き喜び、すぐに、重用していく。


1年ほど長政に仕え、浅井家を知り尽くしたと思う時、龍興に呼ばれた。

美濃在中、龍興に進言したことを、龍興は取り入れてくれると、期待し、戻る。

だが、龍興は、変わっておらず、進言を取り入れない。

がっくりきて、斎藤家を辞し隠棲する。


すると、秀吉が是非にと現れた。

秀吉と意気投合し、秀吉は「(半兵衛(重治)の)思い通りに働けるよう信長様に願う」と言ってくれた。

半兵衛(重治)は、秀吉から高く評価されたと確信し承知する。

こうして、信長の家臣として召し抱えられる。

同じ頃、美濃3人衆も、信長に寝返っている。


半兵衛(重治)は、信長に願い、信長から秀吉に付けられる。

そして、斎藤家を滅ぼし、信長から少し減らされたが、故郷に2万石を改めて得る。

検地がまだできていない時で、実質それ以上だった。

半兵衛(重治)に欲はなく、十分だった。


続く1570年、越前国朝倉氏討伐に従うが、後方に位置する浅井長政の裏切りで、挟み撃ちにあい、信長勢は総崩れとなり、命からがら逃げ戻る。

半兵衛(重治)には、予期できたことだった。

ここから知り尽くした浅井家の情報をすべて秀吉に知らせ、秀吉の浅井攻めに大きく貢献していく。


まず、美濃国境に築かれた浅井方砦の松尾山城主、樋口直房の調略から開始した。

樋口直房は、半兵衛(重治)を見どころがあると見込み、長政に引き合わせ、召し抱えられるように推してくれた。

半兵衛(重治)は、浅井家臣となると、樋口直房を恩人であると、尊敬し、親友となった。


樋口直房は、兵法・軍略に通じ、民政にも力を発揮し、人望も厚く近江一の智謀の将と謳われ、書や茶道、連歌など風流好きでもあった。

まさに、半兵衛(重治)と同じで、気が合う。


樋口直房は、半兵衛の説得を受け、信長方に寝返り、松尾山城を秀吉に引き渡す。

小谷城攻撃の織田方拠点ができたと信長は、とても喜び、半兵衛に褒美だと、黄金五十枚、甲胄と鞍と太刀を与えた。

松尾山城は後に、小早川秀秋が、自ら陣を引き、関ヶ原の戦い時、西軍の西面をつき、一気に東軍勝利に導いたので有名だ。


続く姉川の戦いで、弟の重矩久作(1546-1582)が信長の近習として参陣し功を上げる。

半兵衛(重治)は安藤守就と共に戦い、勝利に貢献した。

勝利の勢いに乗って、信長の命令で、秀吉と共に長政居城、小谷城から6㎞とすぐ近くの横山城を奪い取る。


ここを拠点に、長政と対峙し、長期戦に備えることになった。

信長は、半兵衛(重治)を付けて、秀吉にこの城を任せる。

以後、半兵衛は秀吉に従い、数々の戦略と調略で智将の名をほしいままにしていく。

秀吉になくてはならない軍師、半兵衛と、称賛される。


1573年、小谷城総攻撃の時が来る。

秀吉に望まれ、長政の妻、お市の方や娘たちを救い出す手立てを考えた。

半兵衛(重治)旧知のお市の方と姫たちだ。

無事、城から救い出す。

小谷城は落城し、浅井家は滅亡した。


信長は、浅井氏旧領の大部分、12万石を秀吉に与えた。

半兵衛(重治)なくしては秀吉の浅井攻めはなかったと言えるほどの功を挙げた。

だが、秀吉は、12万石のうち、わずか1053石を恩賞として渡しただけだ。


しかも、秀吉は、半兵衛(重治)を秀吉直臣としたいと願うこともなく、半兵衛(重治)は信長家臣のままだった。

半兵衛(重治)は秀吉とともに行動することがますます増え、実質、直臣扱いだが。

この頃、半兵衛(重治)は、不破郡周辺で2万石を得ており、不満がなかった。

以後も、秀吉に従い、秀吉居城、長浜城の築城及び長浜の町づくりに貢献した。


 1574年、盟友、樋口直房が、信長を裏切ったと追求され、殺されたのは、辛かった。

義侠心に溢れた武将ゆえに、落とし込められたのだ。

自分にも責任があると悔いた。

以後、慎重に動かなくてはいけないと心する。


1577年、黒田官兵衛が信長に従う証に嫡男、長政を信長のもとに送り、信長は、秀吉に預け、秀吉が半兵衛(重治)に預けた。

ところが翌年、官兵衛は、信長を裏切った荒木村重の虜になってしまう。

信長は、黒田官兵衛が裏切ったと思い込み、長政を殺せと命令する。


半兵衛(重治)は、長政を菩提山麓にある自らの屋敷で預かる。

ここで世話したのは、筆頭家老、不破矢()(そく)

その時受けた長政を殺せとの命令。

黒田官兵衛が裏切るはずがないと、不破矢()(そく)に「長政殿の命を必ず守るように」と命じる。


不破矢()(そく)は、黒田長政を自分の屋敷に隠し、長政の幼名、松寿丸からお松と名づけ対外的には女子とし、万全を期して大切に守る。

だが、それだけでは、信長は納得しない。

不破矢()(そく)は、泣く泣くよく似た知人の息子を殺し、首を持参した。

こうして官兵衛が戻るまで隠し通した。


半兵衛と不破矢()(そく)は以心伝心、最高の盟友だった。

矢足の妻は安藤守就の妹で、妻を通しても親戚だ。

不破氏は、美濃国不破郡南宮神社の社家だった。

山内一豊と親類になる。

不破氏に嫁いだ岩手家家臣、喜多村長吉の姉が、十助直吉(不破矢足)を生む。

そして、望まれて、喜多村家の娘婿養子になり、家督を継いだ。


喜多村家は、代々、竹中(岩手)家筆頭家老の家柄だ。

竹中重元が戻ると、仕え、その後、半兵衛に仕えていた。

後に、不破姓に戻す。


半兵衛(重治)と不破矢()(そく)は命をかけて、長政を守った。

半兵衛(重治)の意地であり、生きる道だった。


1578年、秀吉が、中国攻め総大将になると、嬉々として、従う。

宇喜多直家に属した備前八幡山城(赤穂市)を調略によって落城させる。

戦いは続き、次々策を進言し、秀吉は快進撃を続ける。


だが、1579年7月6日、半兵衛は、播磨三木の秀吉本陣で病のため亡くなった。

三木城兵糧攻めを秀吉に進言し、別所長治を降伏させたのが、最後の策だった。

この無血開城作戦は、備中高松城の水攻めにも使われた。


覚悟はしていたが、もう少し生きたかった。

無念の死だった。

思い通りに策を立て、実行し楽しみながら、野心のない生き方を貫いた。

現状2万石程度あればいいとの思いは持っていた。


それでも、半兵衛は、家臣をとても大切にした。

個性ある優秀な人材を集めた。

家臣と共に、戦い暴れるのが大好きだった。

苦労を共にした家臣を厚遇し、残したい思いはあり、加増を断ることはなかったが。


秀吉は、後に、朝鮮の役を起こすが、朝鮮で病死した武将を嫌った。

陣中での死は病死であっても勝利に反する、不吉なことと思っていたのだ。

半兵衛が側で死ぬのを見たくはなかったが、半兵衛は死後を思い、すがりつく様に秀吉に後を託し、陣中で亡くなった。


秀吉は京での養生を進めたが「陣中で死ぬこそ武士の本望」と半兵衛は断った(『竹中家譜』)。

秀吉が、加増を約束した書状を渡そうとしたが、必要ないと破り捨てた(『武功雑記』)

という逸話が残される。

半兵衛の秀吉に託した思いに、秀吉は答えなかった事を、正当化した逸話らしい。


得月院いねは、半兵衛(重治)を支え続けた。

どこに飛んで行ってしまうのか、何をするのか予想できないほど、すごすぎる夫だった。

あまりに緻密で繊細で我を忘れて打ち込み、体力・精神力が持たないと心配し続けた。

若すぎる死は覚悟していたが、死後の展開は無念だった。


かけがえのない重門に竹中氏宗家を引き継がせることに、全力を尽くすことになる。

重門は、母に鍛えられ、秀吉に仕え懸命に尽くし1589年、秀吉から故郷、美濃国不破郡に5000石を得た。

ここで、竹中宗家としての誇りを得たが、石高では半兵衛(重治)が得ていたころよりはるかに下がり竹中氏宗家の扱いではなかった。

得月院いねは「石高だけで、家の価値は測れない。竹中氏宗家らしく生き抜けばいい」と重門を誉め、励ますが。


だが、半兵衛(重治)が創り上げた家臣団を召し抱え続けることはできない。

家臣団が、ちりじりになるのを耐えるしかなかった。

皆、優秀で、主君を変えても価値ある働きをしていると亡き夫、半兵衛(重治)の墓前に報告するが、つらい。


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