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⑨新発田城 (新潟県新発田市大手町)4

⑨新発田城 (新潟県新発田市大手町)4

4堀部安兵衛ー轟け武士の意地ー

1610年、糸姫(秋香) (1600-1636)が生まれた。

新発田藩主、溝口秀勝は、正室との間に生まれた最後の末の姫、晩年に生まれた姫、糸姫(秋香)を溺愛した。

いつまで一緒に居られるかわからないと愛おしく、出来得る限り側に置いた。


心配していた通り秀勝は、糸姫(秋香)10歳の1610年11月13日、62歳で亡くなる。

死の直前、糸姫(秋香)にぴったりだと、溝口政友の嫡男、(もり)(まさ)との結婚を決めた。

秀勝は、深い教養を持つ剣豪、溝口秀友が好きだった。

命を何度も救われ、戦国武将の鏡だと讃え、溝口姓を与えたのだから。


溝口秀友が亡くなると、嫡男、政友に引き継がせる。

政友も文武両道に優れた剣豪であり、引き続き、側近く重く用い、千石を与えた。

秀勝は、政友と丹羽久兵衛の娘との結婚を決めた。

秀友の父方は丹羽家に繋がっており、縁がある。


丹羽久兵衛の娘の母は、教養の深さで有名な文武両道に優れた安芸広島藩家老、上田宗固の妹だ。

母の再婚によって生まれた。

秀勝には、秀友・政友親子は価値ある有用な人材だった。


秀吉の側近くで仕え続け、豊臣家と縁の深い秀勝は、関ヶ原の戦いで西軍に属した武将の多くと付き合いがあった。

改易され浪人となった旧友を見るに忍びず、召し抱えた。

能力のある大物の武将であり、相応の禄を与えるとの約束で招く。

財政的には負担だが、救済したいし、藩政に価値ある人材だった。


それでも、一門や譜代の臣で千石以上の禄を与えることが出来たのは僅かだった。

新発田藩6万石という小藩の苦しい財政ではやむを得なかった。

そこに、新規召し抱えの重臣が増やし、ますます、財政負担を大きくした。


江戸幕府が安定し、戦のない平和な時代になり武断より文治に比重が移っていた。

政友・盛政は、剣豪であり深い教養を誇り尊敬されてはいるが、藩政と直接関わらない。

高禄を与える必要のない家臣だ。

それでも、秀勝は死を前にして、政友の家系を家老とし代々受け継がせたいと心に決めた。武家である以上、武芸を守る必要があるはずだから。


そこで糸姫(秋香)の幸せと盛政を守るため、結婚させ、藩主一門とし、1095石に加増すると決めた。

糸姫(秋香)は大切にされ、盛政の家系は、家老家として続くと安心して逝った。


2代新発田藩主、宣勝は、父の遺言で弟に分地し、新発田藩5万石を受け継いだ。

ますます高禄の重臣を召し抱えるのは、負担となるが気を引き締め、藩を守ると心した。

父の遺命は守りたいと、秋香と盛政を結婚させた。

1623年、秋香の義父、政友は亡くなる。

夫、盛政が家督を継ぐが、財政・行政手腕に秀でてはいなかった。


ここで、兄、宣勝は、秋香に政友から盛政(-1685)の家督引継ぎを認める代わりに、禄を7百石に減らしたいと伝えた。

新発田藩として出せる限界だと。

藩主の姫だった秋香も意地があり、抵抗する。

父との約束は1095石であり、守られるべきだと。

だが、大坂の陣以後も豊臣系武将を召し抱えており、5万石の小藩には7百石が限度だと秋香に詫びつつ、決定を変えなかった。


秋香も父、秀勝に貢献しただけで、溝口盛政家が末代までも千石が安泰とは思わない。

それでも藩主の妹、秋香が健在な内に減らされ怒りがこみ上げる。

優秀な子を産み、かってのように藩主家に貢献し高禄とするしかないと唇をかみしめる。


秋香は一男四女に恵まれる。

嫡男は、斎。

長女は、永代家老、溝口内(ない)(しょう)家、溝口長重に嫁ぐ。

次女は、重臣、河村彦兵衛に嫁ぐことになる。

3女は、重臣、南六郎兵衛に嫁ぐことになる。

4女は、重臣、窪田吉直に嫁ぐことになる。

次女・3女・4女は秋香の死後に決まった結婚だ。


我が子、斎が成長し家督を継げば藩主一門となり高禄に戻り、家老家として藩政に力を発揮できると信じた。

だが、嫡男、斎は、幼くして亡くなる。

父が秋香に託した思い、溝口家の存続が無残に壊れ、申し訳なくて情けなくてたまらない。


続く、1628年、兄、宣勝が亡くなり、甥、(のぶ)(なお)が3代藩主となる。

秋香は藩主との縁が遠のいてしまうと、焦るが、男子は生まれない。

(のぶ)(なお)にとっては、秋香に男子が生まれなければ藩主との縁が切れ、好都合だが。


秋香は、床に伏せる日が続き、1636年11月9日、36歳で溝口盛政家の将来を心配しつつ亡くなる。

死の前、長女を溝口内(ない)(しょう)家、溝口長重との結婚を決めた。

溝口盛政家の格式を保つことができる、筆頭家老家との結婚だ。

秋香が、願い、(のぶ)(なお)の了解を得た。

これが精いっぱいだった。

残る3人の子たちの将来が気にかかるがどうすることもできず逝った。


藩主、(のぶ)(なお)は、盛政の再婚相手に、家老、柿本正方の娘を推した。

秋香には及ばないにしても、一応、盛政の体面を保った。

こうして、盛政は、柿本正方の娘と再婚し、二男三女が生まれる。

盛政の6女が、堀部安兵衛の母となる。


秋香亡き後、藩主、(のぶ)(なお)は、溝口盛政家に冷たかった。

長女以外、秋香の娘たちでさえ、重臣に嫁いだだけだった。

後妻の娘たちは、中堅藩士を嫁ぎ先とする。

藩主家とは縁がなかったかのように、決められた結婚だった。


堀部安兵衛の母、るいは江戸詰300石の中堅の藩士、中山家の嫡男、()()()衛門(もん)(-1683)に嫁ぐことに決まる。

ところが、結婚の前、1645年、()()()衛門(もん)の父が亡くなった。

家督を継いだ中山弥()()()衛門(もん)に対し、藩主、(のぶ)(なお)は、年若く江戸詰めは無理と国元に戻し250石とする。

江戸暮らしにあこがれ、多少の禄の低さは我慢しようと思っていた堀部安兵衛の母、るいの夢は破れた。

がっくりし、国元で結婚式を挙げる。

 

こうして、不服ながらも、新発田の地で、結婚生活が始まる。

夫婦仲は良く、次々三女が生まれ、るいもこの暮らしもよいと思い始める。

嫡男が生まれることを願ったが、授からないのが不満ぐらいの平穏な日々だった。

1670年5月やっと待望の長男、後の堀部安兵衛が生まれる。

難産だった。

生みの苦しみの中、母、るいは、安兵衛を残して息絶えた。


秋香の夫、盛政は、娘が亡くなったことがとても悲しい。

中山家も慌てた。

そこで、娘の身代わりとなった不憫な孫、安兵衛の後ろ盾になってやりたいと考える。

後妻、柿本正方の娘と共に、孫、安兵衛を預かり、しばらく育てると抱き上げ屋敷に連れていく。

秋香亡き後、要職から外された盛政の晩年を彩る楽しい子育てが始まる。


安兵衛は、とても活発で、祖父母に元気を与える。

武芸に秀でた溝口家の血筋を引いていると、盛政の自慢の孫となる。

だが、3年後、祖母、柿本正方の娘が亡くなる。

すると盛政に難題が降りかかり対応に追われ、安兵衛を育てる時間をなくす。

やむなく、中山家に戻す。

あどけなさに心惹かれるが、溝口家を守るため、すべきことがあった。


元気に育った3歳の安兵衛が戻った中山家。

祖父の広大な屋敷に比べてこじんまりした住まいになったが、中山家でも屈託なく思い切り暴れ、人気者だ。

母はいないままだったが、姉達に可愛がられた。

ここで、姉たちは次々と嫁ぎ、中山家を去っていく。

周囲の変化を寂しく思いつつも順応する力を身につけた。


父と暮らし、父の指導で文武両道の天分が開く。

父との二人暮らしは、充実していた面白かった。

ところが1683年、父は新発田城の櫓の失火の責任を追及され200石に減俸された。

武芸に秀でた父は、行政手腕がなく家中では目立たなかったが、誠実に任を果たしていた。

思いもかけない仕打ちに、謀られたと無念の思いで、落ち込み、やる気をなくす。


父は、やるせなく、耐えられなくなって、盛政に相談した。

そして、意地を通すと職を辞すが、まもなく亡くなる。

妻に先立たれ運のない惨めさがつきまとっていたが、なすすべもないまま、職をなくし、失意のまま死んでしまった。

安兵衛には、誇りを失わない孤高の生き方を貫いた、誇りに思う父だった。


父母を亡くした安兵衛13歳を、祖父、盛政が再び引き取る。

安兵衛の能力は素晴らしく、溝口家のすべてを引き継がせたく思うほどだ。

隠居の身となり、時間もあり、最後の力を振り絞った。

多くを教えたが、たった2年だった。

1685年、この子は中山家の宝になると言い残し、盛政は亡くなる。


安兵衛は、父の無念を晴らしたく、溝口家の蔵書を読み武芸の鍛錬に励んだ。

もっともっと学びたかったが、わずかの間で、祖父も亡くなった。

もう少し生きていて欲しかったと思うが、次々続く不運に耐える力を身に着けていた。

これが我が人生と笑った。

安兵衛はただものではなかった。


祖父の家は祖父の死で混乱し安兵衛は居場所がなくなる。

それでも一人、黙々と学び続ける。

そして溝口家が崩壊していくのを見続ける。

盛政は、後妻、柿本正方の娘との間に二人の男子を儲けた。

上の子、政俊が後継となっていた。


盛政が亡くなると藩主、重雄(しげかつ)(秋香の甥の子)は、政俊から溝口姓を取り上げた。

700石もの高禄も、溝口姓も、秋香も盛政も亡くなった以上、必要ないと考えたのだ。

政俊は抵抗するが藩主の命令は絶対だった。

政俊は、祖母方の丹羽氏の名に戻り、150石で家名を守る。

政俊の弟は、曾祖母方の上田氏を名乗り、150石を得て家を興す。

ここで秋香の溝口家は終った。


安兵衛も盛政家の衰退が悲しく、どうしようもない無慈悲な運命を嘆き悲しむ。

それでもなぜか「恨みは晴らす。きっとその日が来る」と思う。

絶対にへこたれない、強い精神力が育っていた。


溝口家の屋敷を引き渡すべき時が来る。

安兵衛も出なくてはならない。

次に行くべきところを考える。

三人の姉の内、長女、ちよは幼くして亡くなっていたが、次女、きんは、豪農の長井弥五左衛門、三女は藩士の町田新五左衛門に嫁ぎ、二人とも安兵衛を愛し、我が家に来るようにしきりに誘う。


15歳の安兵衛は、祖父・父と伯父たち、武士の行く末の難しさを見てきた。

祖父は、安兵衛が藩士になるよう手を尽くしてくれたが、実現しないまま、亡くなった。

藩士になることは難しいとあきらめる。

選択肢は他になく、中蒲郡牛崎村の姉、きんの長井家に行く。


新発田は新田開発が続き、新田を拡げる資力のある豪農は、自らの田畑を増やしていた。

長井家は新田を認められて多くの田畑を持ち裕福だった。

この家で、安兵衛は思う存分剣術を磨き、新発田について学び、知識を身につける。


この頃すでに、安兵衛の剣の腕前は近隣に知られていた。

長井家や出入りするものすべてが、安兵衛の剣術の技に見とれ息をのむ。

長井家も、このままではもったいないと「素晴らしい才能だが、国元では認められる場はない、江戸に出るべきだ」と勧めた。


父母が憧れた江戸だ。

安兵衛も興味があり、行きたかった。

そこで、18歳になると「いよいよ、その時が来た」と長井家の縁者のいる江戸に出立した。

江戸に着くとすぐ、小石川の堀内道場に入門する。


安兵衛の剣術は、自分でもびっくりするほど、江戸でも通用した。

天賦の才が花開き乱れるように、瞬く間に敵なしとなった。

免許皆伝を許され、堀内道場の四天王となる。

高名が轟き、大名屋敷の出張稽古に呼ばれ、引っ張りだこだ。

一流の剣術師範となった。

1690年、20歳で、牛込天龍寺竹町(新宿区新戸町)に一戸建ての自宅を持つ。


安兵衛は父・祖父に教えられて今があると、心のなかで頭を下げ、尊敬している。

祖父の家の再興は荷が重すぎるが、父の汚名を挽回し中山家を再興する機会はあるはずだと確信し、その力が自分にはあると思えた。

「人生、面白くなってきたぞ」とずっと遠くの大好きだった人を見つめた。


機会が訪れた。

1694年2月11日、同門の菅野六郎左衛門が高田馬場での果し合いを決め、助太刀を頼んできた。

事の経緯を聞き、納得、助太刀する。

見事、剣豪で名高い相手方三人を斬り倒し、江戸の町は安兵衛の剣豪ぶりを拍手喝采した。

ここで、新発田藩に仕官を申し出、召し抱えられるはずだった。


そんな時、安兵衛の活躍を噂に聞き、赤穂藩浅野家に仕える堀部弥兵衛が確かめに訪れる。

弥兵衛も、評判通りの人物だと感動する。

安兵衛を離したくないと惚れ込み、熱心に頼む。

「娘、きちの結婚相手を探し、江戸市中で大人気の剣豪に興味を持って会ったが、まさに思い描いた通りだ。婿に最高だ、ぜひ迎えたい」と興奮して。


安兵衛は、驚きながらもうれしかった。

堀部弥兵衛に連れられ、主君、赤穂藩5万3千石藩主、浅野長矩(ながのり)にお目通りする。

「喜んではいけない。ここは慎重に、うまい話にはわけがあるはずだ」と弾む思いを押さえ、かしこまって緊張気味に対面する。


浅野長矩(ながのり)はすぐに、武芸の話を始めた。

得意中の得意の話であり、安兵衛も気楽に自信を持って答えることが出来た。

武芸の話で盛り上がり、藩主、浅野長矩(ながのり)に気に入られた。

安兵衛も浅野長矩(ながのり)に心酔し、堀部家の婿養子となることが決まる。


新発田藩と赤穂藩は同じような小藩だ。

新発田藩士になるため、苦労し、努力したが、藩主への目通りはとても無理だった。

なのに、赤穂藩では、藩主と重臣に認められ、婿養子に願われたのだ。

信じられない快挙で、世の中捨てたものではない、と大笑いする。


安兵衛は新しい道を生きると決めた。

中山氏の再興をあきらめ、流れに逆らわず武士の誇りだけは捨てることなく進もうと。

ここで、堀部安兵衛が誕生する。

藩主の側近く仕え、剣の道も究めることができる素晴らしい環境の下で、堀部家当主になる。

充実した日々だった。


堀部家を継ぎ7年が過ぎ、運命の日となる。

1701年4月21日、主君、浅野長矩(ながのり)が江戸城内で吉良義(よし)(ひさ)を斬りつけた。

江戸城本丸、松の廊下刃傷事件だ。

安兵衛が仕えた浅野長矩(ながのり)は切腹、赤穂浅野家は改易だ。

あっけない幕切れが来た。


浪人となった安兵衛だが、どこか予期していた気がして、主君らしい散り方かもしれないと思えてくる。

浅野長矩(ながのり)は、武芸に通じた、文武両道の名君だった。

安兵衛と、同じく、太平の世では通じない一本気な価値観を持っていた。

最高の主君だったと、義父、弥兵衛と共に主君の仇討ちを固く心に決める。


そして大石内蔵助に従い、1703年1月30日、47人の赤穂浪士と吉良屋敷に討ち入る。弥兵衛は表門隊に属し槍を持って門を警護する役目。

安兵衛は裏門から突入し、吉良義(よし)(ひさ)を殺す、最強の武士としての最重要な役目だ。

大太刀を持ち剣の腕前を発揮し、思う存分吉良勢をなぎ倒し、命の灯をすべて燃やした。


激闘の末に、吉良義央を討ち果たす。

主君の恨みを自らの手で成し遂げ、感無量で立ち尽くす。

人生最高の時だった。

内蔵助に促され、吉良義央の首を泉岳寺の主君の墓前に捧げ、口上書を携え幕府に出頭する。


江戸市中は仇討ちに大きな拍手を送り、号外が売れまくる。

安兵衛は、伊予松山藩江戸屋敷に預けられる。

藩主、松平定直は自ら安兵衛らと会い、褒め、最大級の接待で労をねぎらい歓迎を続けた。

安兵衛は成し遂げた喜びに浸りながら「武士の誇りを捨てずに生きることができて思い残すことはありません」と、実家、中山家・祖父、盛政家に心ひそかに報告する。

1703年3月20日、武士として最高の生き方ができたと微笑み、切腹した。


安兵衛は、ただ仇討に邁進したわけではない。

仇討ちが成功してもしなくても、自分の命は尽きる。

そこで、主君、浅野内匠頭の思いと、討ち入りを主導する大石内蔵助や共に戦う同志たちの、真実の生き様を残そうと考えた。


主家断絶後の経緯を同志達の書状を交え「堀部武(たけ)(つね)筆記」に詳細に書き綴り、後世の正しい資料としてほしいと、堀内道場の親友、細井(ほそい)広沢(こうたく)に預けた。

細井広沢は、綱吉側近、柳沢吉(よし)(やす)に仕え、安兵衛の良き理解者だった。

刃傷が起きる前に、柳沢家を辞していたが、(よし)(やす)の支援を受けていた。

それでも、細井(ほそい)広沢(こうたく)は、約束を守り、後世に吉良邸討ち入りの詳細を残した。

綱吉べったりと思われる柳沢吉(よし)(やす)も、冷静な目を持っていた、ということでもある。

 

堀部安兵衛は、新発田城で培った武士としての意地を貫き、新発田藩主に繋がる生まれである誇りを持ち続け、大望を成し遂げた英雄だ。

 子は生まれなかったが、思いのままに生きることができたのは妻、きちが居たゆえだった。妻、きちとは、自分亡き後の生き方を何度も話し合っている。

妻、きちは、養子、堀部言真と共に、熊本藩主に仕えるため、熊本に行く。

安兵衛との話し合いの通り、豊かで、心地よい生涯を送る。


安兵衛は、祖母・義祖母・母・姉から受け継ぎ自分らしく編み出した生き方を、堀部の義母・妻により大成できた。

皆に感謝しつつ逝く。


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