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⑨新発田城 (新潟県新発田市大手町)1

⑨新発田城 (新潟県新発田市大手町)1

加治川を分流した新発田川を外堀に利用し、本丸を中心に二の丸で囲い、その南側に三の丸を築いた細長いまったくの平城が新発田城。

政治・経済の中心となるべく、石垣がすき間なくきちんと積まれ、三階櫓は3匹の鯱が輝き、白と黒の対比の美しさで目を和ませる海鼠壁で築かれた城だ。

春の桜、真冬の雪と四季折々に見せる姿にもうっとりだ。

名城の素晴らしさを領民に示し、領民の誇りとなる城だった。


1.新発田(しばた)氏の時代 ー新発田重家の決起ー

1581年上杉景勝・直江兼続に武士の面目を潰され、新発田(しばた)重家(しげいえ)が怒りの雄叫びを上げた。

以後、6年も続く泥沼の戦いが始まり、景勝・兼続を苦しめる。


新発田氏は源頼朝(みなもとのよりとも)の側近、佐々木盛綱の子を始祖とする。

鎌倉幕府開府に功あり、恩賞として頼朝より越後加地の地を与えられ、加地(かじ)氏と名乗る。

軍事力に秀でており勢力を強め、有力な(あが)北衆(きたしゅう)(阿賀野川北岸地域の国人衆)となる。

本家、加地氏から越後新発田を与えられ分家し、新発田氏を名とした一族が、新発田氏だ。


鎌倉時代から南北朝の時代を経て室町幕府となっても変わらずこの地を治めた。

居城、新発田城を築き、続いていく。

守護・守護代に従いながらも、独立性を保ち、共存を図りながら、有力揚(あが)北衆(きたしゅう)として、領民の支持を受け治める。


加地氏は上杉謙信の姉と結婚するほど、謙信に信頼され、軍事力も抜群だった。

生まれた秀綱は上杉一門としての誇りを持って、謙信に仕えた。

新発田(しばた)長敦(ながあつ)・重家兄弟も、宗家、加治氏とともに謙信に従う。

だが、新発田(しばた)長敦(ながあつ)(1538-1580)・重家兄弟の軍事力は抜きんでていた。

戦功を上げ続け、加地氏以上の軍事力を持つ。


そんな時、1578年、謙信が亡くなった。

すぐに上杉家の家督争い「御館(おたて)の乱」が始まる。

秀綱は景虎側に付き景勝を追い落そうとする。

名ばかりの名門、景虎を擁し、より独立した強い権力を握りたい野望があった。


一方、新発田氏は権力基盤が弱い景勝を推すことで、勝利後の自らの覇権を目指す。

新発田氏が、景勝を擁したことで、一族が分かれ、戦うことになる。

この時、一族で最も強いのが、新発田兄弟だった。


新発田兄弟は、熱心に「景勝に味方し、勝利し、戦後、上杉家に匹敵する力を持とう」と加地氏に説く。

加地氏一門が一致団結すれば、景勝に匹敵する力を持てると説く新発田兄弟だった。

宗家、加地氏として納得し、野望実現を景勝に掛けようと決める。

 こうして、加地・新発田一族が総力を挙げて、景勝を擁して戦うことになる。


景虎にとって加地氏が裏切ったことは、大きな痛手だ。

加地地の影響力は大きかった。

景虎に味方していた他の国人衆も、景虎を見限り景勝支持に変わり始める。

そして景勝は勝利する。

新発田長敦・重家兄弟は、予想通り、景勝勝利に大きく貢献した。


新発田兄弟は兄が知将、弟が猛将と役割分担をしながら、一糸乱れない戦いぶりだった。謙信のもとで、外交・軍事を担い、強い力を持ち、勇名が轟いていた。

そんな新発田兄弟を味方にすることが、勝利のカギだと兼続は、決めた。

そこで、大判振る舞いの恩賞をちらつかせつつ、丁寧に景勝支持の助力を頼んだ。

新発田兄弟の力を誉めまくり、平身低頭だった。

新発田兄弟は、誠意がある対応だと信じた。

景勝が勝利宣言した時、新発田兄弟も興奮し喜び、恩賞による一族の輝く将来を確信する。


そんな時、兄、長敦が急死する。

他にも景勝勝利に貢献した重臣で次々亡くなっていた。

重家は景勝の命じていることではないかと、疑い不安になった。


 それでも子のいない兄の死で、弟、重家が、新発田家を継ぐしかない。

重家は五十(いじ)()()氏に養子入りしていたが、新発田家に戻り家督を継ぎたいと景勝に願う。

恩賞を巡って火花が散っていたが、主君は主君であり、許しを得る必要があった。


重家の弟、新発田駿河守盛喜は、三条城主、神余(かなまり)(ちか)(つな)に仕えていた。

神余(かなまり)(ちか)(つな)は、景虎を擁して戦っていた。

だが、新発田盛喜は、兄たちの説得に応じ、従うと決め、景勝側で戦う。

主君、神余親綱を敵とし激戦を繰り拡げ倒し、三条城を奪い取り城主となった。


加地・新発田勢は、抜群の軍事力で、三条城を含め次々景虎側の地を奪い取っていた。

奪った地は新発田氏らが得る約束だった。

約束が守られると、景勝に次ぐ力を持つことになるのが確実だった。

重家にとって当然のことだが、景勝にとって避けたいことだと予期できた。


やはり景勝は、重家の家督に引き継ぎは認めるが、恩賞は前当主との約束であり、当主が変わった以上、約束は成り立たないと突っぱねた。

新発田氏・五十公野氏との恩賞の取り決めは、当主の交代で終わったと勝ち誇って宣告した。

ここで、新発田氏の領地・五十公野氏の領地の安堵を認めるが恩賞はないと通告された。

勝ち取り平定した地をすべて景勝に引き渡せとの命令だ。


「御館の乱」一番の功労者、重家は多大な戦費を投じ景勝を勝たせただけとなる。

景勝にだまされたとどうしようもない怒りが満ちてくる。

兄も殺されたと疑う重家は、すべて、景勝筆頭家老、兼続の卑怯な策だと確信する。

兼続は恩賞を出し渋り言いがかりを付けるのが常套手段だった。

恨む国人衆は多くおり、彼らは皆、重家に同情した。


ついに、重家は、景勝・兼続に雄叫びをあげ、反旗を翻す。

兼続には予想していた展開で、一気に潰すと、受けて立った。

だが、兼続の持つ軍事力より、重家の軍事力が上回っていた。

重家は、新発田城に籠もりつつ、引きつけては討って出る、巧みな戦いで上杉勢を翻弄した。

苛立つ兼続・景勝は本庄(ほんじょう)繁長と(しき)部長(べなが)(ざね)に討伐を命じる。


本庄(ほんじょう)繁長と(しき)部長(べなが)(ざね)にとって、新発田勢は、揚北衆として隣り合い協力してきた仲間で、敵とは思えない。

色部長実の妻は重家の妹で、繁長の妻は景勝に敵対した古志長尾家で、景勝の臣ではない。

揚北衆は独立意識が強く新発田氏と戦う大義もなく、お互いが相手を思いやる。

兼続は、いらだち怒りが増すばかりだが、勝機はなく泥沼にはまり込む。


新発田城は加治川を背に、阿賀野川・信濃川河口の湿地帯に囲まれている天然の要害だ。

守るに易く、攻めるのはむつかしい。

しかも後ろに織田信長がいた。

信長を味方につけ、支援を受けていたのだ。

信長から船で運び込まれる十分な物資の補給を受け取っており、士気は高い。

重家は、景勝が新発田城を攻め落とす事は不可能だと自信があった。

兼続を追い詰め滅亡させ、景勝に勝つと希望が膨らんでいた。


本能寺の変までは重家が戦いの主導権を握り、景勝勢が逃げ惑う時もあった。

だが1582年、信長は死んだ。

以来形勢は逆転、補給の道が狭められ、重家の勝利は困難となる。

重家は運に見放されていくと嘆いた。


敗戦も覚悟した景勝は生き返り、早期の勝利に、強気で突き進む。

色部長実は、忠誠心見せるよう強く迫られ、和議を望んでいたが重家と対決せざるを得ない。

その上、兼続から嫡男、光長と兼続の妹との結婚を望まれ受けざるを得なかった。

兼続と縁戚になり景勝政権に組み込まれた。

 

景勝は、謙信を引き継ぎ上杉家当主となった威厳を持つ。

硬軟取り混ぜての恩賞で、納得せざるを得ないと臣従を誓う家臣団ができていく。

こうして、景勝政権は、家中をまとめた。

上杉家中は、もはや重家との和解の道はなく、討ち取らざるを得ないと覚悟を決めていく。


重家は、信長後継、秀吉との協力を望み、交渉を続けた。

だが、秀吉が選んだのは、景勝だった。

1586年、秀吉は景勝と同盟を結び、重家を敵とみなした。

後ろ盾になり、支援する同盟を結んでいた蘆名(あしな)氏も凋落してしまった。

新発田重家の命運はつきた。


1587年夏、景勝は1万余の軍勢で新発田城を取り囲み、重家は最後の時を迎えた。

戦い抜いた最後、盟友、色部長実の陣に突入し首を渡すと叫び、果てた。

新発田氏は滅ぶ。


景勝は、色部長実の手柄と称賛し、色部氏は大きく出世する。

米沢藩家老となり、赤穂浪士討ち入り時の江戸家老であり、藩政を主導する。


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