①五稜郭(北海道函館市五稜郭町) 1
①五稜郭(北海道函館市五稜郭町)
ロシアの南下政策でロシア船が頻繁にみられるようになり、幕府は防衛力を強化する必要ありと、松前藩内函館に奉行所を置くと決めた。
1802年、函館奉行所(当初蝦夷奉行所)ができた。
それから50年余り後、1854年3月31日、江戸幕府とアメリカ合衆国が日米和親条約を締結した。
アメリカが、東アジアとの貿易の為に太平洋航路が必要だと、強硬に求めた結果だ。
航路上での人身保護と物資の補給を目的とした条約だった。
ここで、箱館は、長い鎖国の歴史を破り、開港された。
外国船の来航、外国人が上陸することになり、防衛力の強化が必要となる。
そこで、将軍、徳川家定は、函館周辺を幕府直轄地とし、築城を命じた。
■武田斐三郎の妻
設計を担当したのは洋式軍学者の武田斐三郎。
総面積、74,990坪(約247,466m²)での設計だった。
外国の脅威に対抗する為の築城という大義だった。
だが、開港即攘夷とはならない。
外国人居留地の計画も失敗し、町中に外人が混在する状態になってしまう。
当初は身構えて対応したこの地の人々だったが、外人が身近になると、脅威が薄れていく。
すると、予算がない事もあり国家の威信を示す為の築城と趣旨が変わる。
築城規模も、次第に縮小される。
武田斐三郎(1827 - 1880)は伊予大洲藩(愛媛県大洲市)出身の学者、陸軍軍人。
緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、江戸で佐久間象山から洋式兵術を修業する。
そして、従来の築城の発想を塗り替えた築城を目指す。
日本初の洋式城郭「五稜郭」の設計に取り組み、才を発揮した。
大砲による戦闘が一般化していたヨーロッパの稜堡式の築城様式を採用し、堡を星型に配置した。
諸外国の優れた考えは、取り入れ、解析し、活用するとの信念で、設計したのだ。
外国に負けないとの自信があり、それ以上の城郭を作ると胸を張った。
見るだけで作ってしまう、周囲を驚嘆させる技術者であり、科学者だった。
日本初のストーブを考案したのが武田斐三郎。
入港した英国船にあったスト-ブを見てスケッチしただけで、図面化し、試行錯誤を繰り返すが、創り上げてしまう。
斐三郎は肱川を間に挟んで、大洲城(愛媛県大洲市)の対岸、中村で生まれた。
甲斐武田家を祖とし、大洲藩主、加藤家に、仕えた。
江戸時代は、武田の名を出すことなく竹田姓を名乗り、続いた。
兄、敬孝も秀才で、孝明天皇に仕え、維新後は、宮内庁に入り西郷隆盛から厚く信頼される。
兄に倣い、大洲藩校・明倫堂に通い、母親の実家で漢方医学を学んでいたが、向学の志高く、もっと学びたかった。
22歳の時、意を決して、もっと学びたいと藩主に願い出た。
許され、大坂の緒方洪庵の適塾で学び、オランダ語を習得する。
2年後、洪庵の紹介で江戸に出て、伊東玄朴から英語・ロシア語を学び、佐久間象山から兵学、砲学を学んだ。
特に、航海、築城、造兵に興味を持ち、猛勉した。
天才的頭脳の持ち主ながら、努力家でもあった。
箕作阮にオランダ語を教えられ磨きをかける。
オランダ語・英語・ロシア語に堪能となり優秀すぎると、幕府から旗本待遇で呼ばれる。
1853年、ペリーが来航した時、象山に連れられて吉田松陰たちと共に浦賀に行って黒船をじっくりと見た。
新しい時代の予感を実際に体現し、学んだことを生かすと、身震いする。
すると、幕府から出仕命令が来た。
長崎でロシアのプチャーチンとの交渉していた幕府側の通訳をするためだった。
急遽選ばれたのだが、ロシア語を使いこなすことができ、幕府の予想以上の成果を上げた。
1854年、江戸に戻ると、次に、蝦夷地を巡回する任に就く。
その時、ペリーの艦隊も箱館来航した。
そこで、急遽、箱館でペリーとの通訳を務めることになる。
今度は英語だが、以前から興味を持っていた黒船であり、張り切って通訳を務める。
箱館港開港に関する協議だったが、ペリーは、武田斐三郎の英語力そして学識の深さに目を見張り、褒め称える。
日本人侮れずと、慎重に事を運ぶよう肝に銘じる。
この時、武田斐三郎ら幕臣一行に宿所を提供し接待したのが、町名主、小島又次郎だった。
箱館奉行所も、斐三郎の能力を高く評価する。
以後、斐三郎は箱館に10年間滞在することになる。
開港後、函館は、外国人が多数訪れ、諸外国との交渉が出来得る最優秀な人材が幾人も必要不可欠だった。
斐三郎は適任で、急遽集められた通訳の中心となる。
諸外国に対する知識はダントツで、皆が目を見張り、驚くばかりだった。
1856年から五稜郭の設計を任される。
外国と対峙できる城づくりは、斐三郎しかできないと皆が一致したのだ。
斐三郎は喜んで取り組む。
興味深く勉強してきた得意な分野だと、壮大な設計をし、築城に着工する。
だが、幕府の考えが二転三転し、思い通りにはいかない事も多かった。
それでもどうにか1864年完成。
1866年には不満足ながらも、付帯工事も完成する。
慣れない函館の地で、有り余るほどのなすべき仕事があり、緊張と責任感で張りつめていた斐三郎に住まいを提供したのは、町名主、小島家だった。
内潤町(函館市末広町)で雑貨酒類を販売する裕福な商家だった。
当主、小島又次郎は、外国人への関心が深くよく勉強していた。
ペリ-来航時から斐三郎の世話をし、偉大さに感動しており、宿所にしてほしいと願った。
函館奉行所詰となった1855年、斐三郎28歳は、又次郎宅に住む。
世話するのは、又次郎の娘(妹)、小島美那子。
美那子はまじかに外国人を見るようになり驚くことばかりだった。
それでも時代の変化を冷静に書き留める賢さがあった。
そんな外国人との交渉を堂々とこなす斐三郎を、あまりに凄すぎると、憧れた。
斐三郎も、行き届いた心配りで世話され、小島美那子に感謝する。
そして、心惹かれ愛が生まれる。
小島美那子は、公私にわたって嬉々として斐三郎を手伝う。
斐三郎と美那子は、自然に愛をはぐくみ、子が出来、結婚となった。
小島又次郎は大喜びだ。
函館奉行所も、事の次第を聞き、旗本並みの要人、斐三郎に似合いの女人とするために、美那子を役人、梨本弥五郎の養女とし、家格を合わせ嫁がせた。
最高の伴侶を得た斐三郎は、ずっと考えていた後輩の育成に乗り出す。
1856年、奉行所に願い、諸術調所(洋学、兵学の研究教育機関)を設立する。
今まで学んだことをすべて教えると張り切る。
大学並みの教育をしていくが、すべてを一人で教える一人教授の学校だ。
生徒と共に、国産帆船「亀田丸」を操り、ロシアの黒竜江に日本初の修学旅行に出かけた。
榎本武揚や前島密や井上勝なども彼に学んだ。
生徒はすべて寮で同じ生活をし、身分貴賎を問わず、学術の成績で上下を決めた。
順調で充実した暮らしだったが、1863年、美那子と死別。
まだ27歳の美奈子を亡くすと函館に住まいする意欲を失なってしまう。
生涯の伴侶と決めた人を失い、函館に住む意味がなくなった。
五稜郭普請の目途も立ったと、江戸に戻る。
待っていた幕府は、江戸開成所教授や大砲製造所頭取に任じる。
日本を代表する学者として国内外で知られていく。
西洋学問の第一人者、佐久間象山(1811-1864)と再会を果たし、再び師事する。
自信過剰で傲慢な象山とは、以心伝心で通じるところがあり、師であり親友でもあった。
そして、象山から紹介されたのが、信濃国松代藩に縁のある大塚高子。
妻亡き後、独り身の寂しさを感じていたが、大塚高子と出会い、恋し、再婚した。
ここで新たな出発が始まり、力がみなぎる。
ところが、まもなく象山は、殺される。
衝撃が大きかった。
斐三郎は、権力志向はなく、ただひたすら、科学者であり教育者であり続けたかった。
家庭を大切にし、日々の暮らし・友人との楽しい語らい・豪放な宴が大好きだった。
だが、それだけでは生きていけない世の中となったと知る。
1868年、大洲藩が討幕派だったため、幕臣の斐三郎の身にも危険が迫り、大塚高子の伝手で、信濃国松代藩屋敷に匿われる。
そこで、松代藩の兵制士官学校の教官を務める。
そして、明治政府が出来る。
匿われる暮らしから解放されたが、新政府は、斐三郎をほうっておかず、呼び出す。
兵部省に出仕し、科学技術方面の指導者となることを願われる。
指導者として、活躍せざるを得なくなり、明治政府の国家づくりに関わっていく。
陸軍士官学校の創設の任を担う。
重要な役目で、熱心に取り組まざるを得ない。
するとこの間、妻、大塚高子が亡くなる。
仕事に打ち込むばかりで家庭がおろそかになっていたと、悔やむばかりだ。
愛する妻の死はつらかったが、子たちもおり、家の要は必要で、妻の縁者、西村仲子と再々婚する。
だが、佐久間象山亡く、思いのたけを話せる友は少ない。
一から家庭を作っていく事になり、緊張とときめきがあるが、気を遣う日々となる。
斐三郎には、ときめきはうれしいが、その時は過ぎていた。
忙しすぎて新婚のゆっくりと過ごす時間はない。
3度目となる心安らぐ家庭づくりは、負担が大きかった。
ひたすら日本陸軍創設に打ち込み、1880年、激務による過労死。
53歳だった。
函館での約10年間が、妻を、家族を、愛し、日本人としての誇りを持って真面目にまっすぐに好きなことに打ち込んだ最も充実した時だった。
五稜郭には、天才学者、武田斐三郎と、最愛の人、小島美那子の愛が詰まっている。
小島美那子は「亜米利加一条写」(ペリー箱館来航時の状況を記す)を書いている。
武田斐三郎が伴侶と見極める才知があふれていた。
五稜郭公園にある斐三郎のレリーフ。触れると頭がよくなるらしい。(レリーフの頭と顔はつねにぴかぴかに輝いている)