夕飯ができているから食べなさい
【前回のあらすじ】
振られましたー。
遠西市。
沿岸部に張り付くようにして広がるこの市は、水源にも恵まれ肥沃な土地も多く、気候も安定している為、古今交通の要衝として栄えてきた。
灘周縁を除き、市を凡そ東西に分断する形で丘陵地があり、西に向かって迫り上がるように少しずつ勾配が増加していく。
しかし、地形というものは複雑にできていて、すべてにおいて一辺倒ではなく、ある程度の変数は存在して然るべきである。
西側に行くための坂の勾配の度合いでいえば五本の指に入るであろう眼前の坂を、ノリは見上げて思案に暮れていた。
もう日は落ちて街や車の放つ光が背後にちらつく中、一方で街灯もなく生い茂った木々がアーチ状に坂を覆うその闇の先は何やら蠢いているようで、ゾッとしたものが体の奥底から湧いて出てくるのだ。
ノリは身震いをひとつすると踵を返した。
――この先には旅館街がある。
中央街からも外れていて人影はまばら。そもそも元が遊郭だというのだから、子供の遊び場になるような場所ではなく、特別の用もなければわざわざ近寄ったりはしない。
だから幽霊屋敷だなんて言われても、その場所自体に興味が湧かないのだから仕様がない。
それに――。
好奇心云々で気安く近寄っていい場所だとは到底思えないのである。
ノリは重い足取りで帰路に就いた――。
家に着くと大した灯りもつけず、母が台所で何やらやっているので声をかけると「夕飯ができているから食べなさい」と言って、見ると確かに机上にはできたてのご飯が並べられている。
――それも母の分はなく、ノリの分だけだ。
――いつも通り。
ノリは気になって聞いてみることにした。
「かあさんは一緒に食べないの?」
すると少し経ってからこう返ってきた。
「夕飯ができているから食べなさい」
母は依然としてノリに背中を向けたままだ。
「……聞いてよかあさん。今日登校途中でユキノと喧嘩しちゃってさ。あいつそのまま学校来なかったんだよ。不良ってヤツ? やだよねえ」
「夕飯ができているから食べなさい」
「なんでもさあ、坂の上の旅館街に幽霊屋敷があるらしくて行こうって言うんだ。でもなんか嫌で嫌でたまらなくて、断ったんだ」
「夕飯ができているから食べなさい」
「でもっ! やっぱりあんな顔されたら心配するじゃないか! なんだって言うんだよチクショウッ!」
ノリは机上の物を勢いに任せて床に落とした。器の割れる強烈な破裂音が室内に響き渡る。
静寂に包まれた室内で、薄暗い電球の灯りがぼんやりとノリの震える両手を照らしていた。
――熱い。
体がうだる様だ。汗が止まらない。息が上がって苦しい。震えが全身に、広がっていく。
こみ上がってくる感情の渦をどうにかしようと、ノリは何もなくなった机上を思い切り叩いた。何度も何度も――。
暫くして母が言った。
「……夕飯ができているから食べなさい」
この辺は書いてて楽しかった。