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人外少女と終末世界  作者: umt.s5
一章「贋造の街」
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ビッグでダンディな渋い男

一日千文字。小さいことからコツコツと。


 誰何の声がした――。

 儚げな響きで揮発したそれは、知覚できる閾値の埒外で密かに消えていった。


 ――昨晩から降り続けた雨は、一定の緩やかなリズムを刻み、夜通し寝室の窓を叩いている。

 長く続いた雨脚も明け方になるにつれ弱まり、更に一二時間経つと完全に収まってしまっていた。

 雨が止んだのとほぼ同時刻――ノリは何か厭な夢から目が覚めた。


 重く沈んだ体を無理矢理に起こし、カーテンの隙間から漏れた、白く透き通った朝の陽ざしが畳の床を撫でているのを認めると、ノリはカーテンの端を掴んで思い切り開け放ち、同様にして窓も全開にした。


 春も過ぎて草木がいよいよ萌え始めると、雨の後の湿った土や草花の青々しい匂いが、以前にも増して鼻腔から脳へと強かに伝わってくる。


 特に朝一番、目覚めた際の夢うつつな時分に、窓を開け放つとそれはもう格別な程爽快で、朝特有の気怠さや己の抱え込んでいた諸々の悩み事などが、一挙に取るに足らないと思わせてくれる。


 ノリはこの曖昧な時間が堪らなく好きであった――。


 厭な夢など初めから存在しなかったかのように、ノリは快活に一つ大きな伸びをする。

 安アパートの五階から望む街並みは、荘厳と不動を貫いていて、家々の甍は朝の煌びやかな光を浴びて輝いていた。


 小鳥のせせらぎや、忙しない喧噪に耳を傾け朝を全身で以て堪能する。そうこうしていると、背後から何かを焼く香ばしい匂いが漂って来、それとともに「朝ごはんよー」と言う抑揚のない声が聞こえてきた。


 ――いつもの母の声だ。


 ノリはおもむろに壁掛けの時計を確認した。針は七時三分を示している。


「まずい、遅刻じゃないか」


 慌てて着替え自室を出ると、リビングでは既に朝食が机上に並べられていたので、ノリはその中からポークウィンナーを三本取って口に入れた。


 当然の事として、ノリの自業自得でしかないのだが、本日日直当番である彼にとって、これ以上の遅刻は彼の沽券に大きく関わってくる重要な因子だ。


 故に余暇はいかほども残されていない。


 ノリは台所で皿洗い真っ只中の母に「行ってくるよ」と一声かけ、家を出た。

 日直当番としては遅刻に他ならないが、それでも幾分か早い時刻のせいだろうか車の通りも少なく、街の喧騒は小鳥のさえずる声に負けている。


 ――いつも通りの、いつもの朝。代り映えのしない日常である。

 ノリが両頬を叩き、いざ行かんとした時だった。


 ――喧騒が消えたのだ。一切の無音。まるで時が止まってしまったように静かで不気味な、一瞬だけを切り取った世界。


 そして、視界の端。

 ――辻。


 ビルの密集する一角の棟の屋上に、ノリは人影を見たのだった。

 水墨画のように淡くぼやけ揺らめいて、不定形なそれはただじっ、とノリを見据えていた。


「あれは……」


「何アンタちんたらしてんのよ」

「うわああっ!」


 突然背後から怒気をはらんだ女の声がし振り返ると、年の頃はノリと変わらない少女が手を顔のあたりまで上げ、小さく振りながら破顔し立っていた。


「……なんだ――ユキノ、か」

「なんだ――じゃないわよ。何時だと思っての? 日直遅れてもいいわけ?」

「いや、よくはないけど。変な人影が――あれ?」


 ノリが今一度確認すると、不定形の何かは跡形もなく消えていた。


「……なによ。何もないじゃない」

「でも確かにさっきは――」

「まあいいわ。どうせカラスを見間違ったんでしょう。アンタらしいわ」


 ユキノはノリの近所に住む幼馴染みである。

 成長期なのだろう、身長がこの数年で伸びに伸び、遂にノリの身長を超してしまった。今は彼女の唇が丁度ノリの額の辺りにくるまでになり、由々しき事態だと猛抗議するノリに対しユキノはしたり顔で、


「ノリちゃんはちっちゃくてかわいいでちゅね」


 などと屈辱的なことを言い、そうして手を替え品を替え、今日まで続けている。

 ノリは苦し紛れに「深海よりも深い寛容な心でもって見逃してやっているのだ」となんとか自己を正当化しようと躍起になっていたのだが、それ自体もユキノの嘲笑の対象と化していた。


「僕はカラス程度の些末なことに囚われているような、器の小さい男で終わるつもりはない。もっとこう、ビッグでダンディな渋い男になるからよろしく」


 ビッグでダンディ――。

 ノリの直近の座右の銘である。


「アンタ先週と言ってること違うわよ。先週はえっと……なんだっけ? ……知的でユーモラス……だったかしら。来週が楽しみね」

「……う、うるさいやい」


 少し間を置いてユキノはクスクスと無邪気に笑った。首筋の辺りで切りそろえられた髪が風に揺られなびく。崩れた髪型をそっと撫でるように直す仕草が妙に大人びていて、ノリは目を逸らした。


 ユキノが流し目にこう言った。


「ねえ……学校、サボろっか?」


幼馴染み……いい響きだ

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