前編
僕の友達で少し変わっている子がいる。
そんな友達から、ある日手紙が届いた。
「我、関せず。近隣の騒声など。我は今この時を、”思考なる深海”の底にて、巨大な重しを足首に付け、呼吸という、生物が当然与えられるべき権利を放棄しているところだ。苦しみは当に過ぎた。我が今感じられるのは尊き”無”だけである。”無”の極致ともいうべき現状。その我には”モノの真理”というものが、よく見える。例えば近隣の騒声。これは若い男女の諍いである。隣人たる男女が、頻繫に、我には然したる問題とは到底思えないような事柄を火種にして、諍いを起こしている。男の帰りが遅い、女が高額の革袋を内密に購入した、男が足袋を居間に放り出している、女が己の分だけ珈琲を用意した……などと。そうした喧噪の内においても、我は諸行無常な俗世の理を探求せんべく、ひたすらな潜水を続けている。知恵という名の”海水の揺らぎ”、関心という名の”水生生物の群れ”。そしてそれらを眺める内に、突如として生まれる閃きという名の”あぶく”が、海面に昇りつくまでと。この心地の良い静寂たるや、是非とも其に味わって欲しいものだ。……さて、話を戻そう。我は関せず。俗世とは遠く、”思考なる深海”の底にある我の意識へ干渉する手段など、そもそも存在しない。故に的確な表現に化すなら、”我関せられず”とでも言おうか。しかし、すべての生物がそうであるように、環境への適応と呼ばれるもの、それが”進化”と名を変えて、今日も世の常として繰り返されている訳である。我とて、その一員であることには変わりなく、体内で幾多に存在する”らせん状の繊維体”が好き勝手に学習をし、その成果として、発生し得る”感情”までは制御のしようが無いのだ。これを説明するには少々俗物の言葉を使わざるを得ないことを、其には了承願いたい。”壁を全力で殴りたい”」
僕はこの手紙を読んで、仕方なく彼女の部屋に向かうことにした。
要約すれば、”隣人がうるさくて、我慢ができません”ということだからだ。
僕は彼女からのSOSだと受け取った。
彼女は人間関係を得意としていない。
だから、その方面にはすごく臆病だ。
その為、隣の部屋に出向いて、文句を言う勇気もないのだろう。
そうだ、出向く前にコンビニに寄って行こう。
彼女の好きなシュークリームでも持っていけば、きっと上機嫌で僕を迎えてくれるはずである。
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僕は彼女の部屋の前に付くと、チャイムを鳴らした。
だが、返事が無い。
もう正午を過ぎているが、寝ているのだろうか?
「おーい。居ないの?」
彼女は携帯電話を持っていない。
自宅に電話を置いてもいない。
つまり、彼女と連絡を取るには手紙か、直接会いに行くしかない。
5回目のチャイムを鳴らそうとしたところで、漸く部屋の中から物音が聞こえた。
どうやら起きたらしい。
暫く待っていると、扉が向こう側から押されて開いた。
「おはよう。良く寝てたね」
「いや、意識を失っていたことは認めるが、一般的に言われる睡眠をしていたか、といえばそれは違う。我が自身を無意識下に置く第一の要因は一般でいう”身体疲労の回復”などではなく、思考の整理を行う為だ。意識下で行う思考整理には限界があるからな。どうしても思考視野に無い部分は無意識に任せざるを得ない」
「そっか。それより中に入ってもいい?お土産も持ってきたし」
「好きにすればいい。それに、別にお土産の有無で其の入出を制限するつもりもない」
「はいはい。それじゃあ、お邪魔しまーす」
彼女の部屋に入る。
6畳1間のアパートで、玄関からすぐ2畳ほどの廊下になっている。
廊下には玄関側から、キッチン、冷蔵庫、洗濯機の順番で入って右の壁際を占有している。
キッチンは綺麗なもので、おおよそ料理など為されたことが無いのが伺える。
部屋の中はいつも通り飾り気が無く、質朴としていた。
部屋を入って左奥の壁際にパイプベッド、中央に外装のビニール生地が破れまくっている座椅子。
右奥の壁際に木肌の小さなこたつ机。
そして僕がプレゼントした高級な本皮の座椅子が、透明なビニールを被ったまま置いてある。
「僕のあげた椅子、まだ使ってくれてないみたいだね」
「執筆の際には使っているよ。大変座りにくいがね」
「ビニールは外さないんだね」
「汚れてしまうからな……それに、我には不相応な椅子だよ。これは」
彼女はそう言うと、ベッドに腰かけた。
僕は彼女に持っていたスーパーの袋を示した。
「お土産はシュークリームだよ。好きでしょ?」
「実に好ましい」
「よかった」
「お茶の一つでも用意してやりたいのだが、其が突然来訪してくるものでな。その用意がない」
「大丈夫。そうだと思ってお茶も買ってあるから」
「実に準備がいいな」
僕はコンビニで買ったシュークリームを2つと、ペットボトルのお茶を彼女に差し出した。
彼女はそれをか細い腕を伸ばして、受け取った。
「礼を言うよ。最近はめっきり食欲が湧いてこなくてな。生命活動を続けれるだけの食は取らねばと思うのだが、中々面倒だ」
「どのくらい食べてないの?」
「はてな……3、4日といったところだろう」
「4日!?駄目だよ、食べないと」
僕は自分の分に買っておいた”みかんたっぷりゼリー”も彼女に差し出した。
「これもあげる。というか、もっとちゃんとしたものを食べてほしいな」
「気を遣う必要はないよ。今は偶々そういう時期なんだ。最近潜っている案件がどうも”佳境”というところでね。もうすぐ我の答えが見えてきそうなんだ」
「どういうテーマなの?」
「【非実在物を代価物から構成するとき、実在の認識に至る過程の類型検証】というものでね。まあ簡単に言えば”偽物が本物と呼ばれるにはどうすればよいか”ということさ」
言い終えると、彼女はシュークリームを頬張った。
―中編に続く―




