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シャボン玉

作者: 堀川忍

シャボン玉

堀川 忍  作




 私は、いわゆる「転勤族」の家庭ではなかったので、引っ越しという経験が少ない。少なくとも五本の指で数えられるほどだ。そんな私ではあるが、定年退職を前にして、突然妻が「家を建てる!」と宣言したのである。それまで住んでいた自宅の隣にS社が提案した新築の家を建てるらしい。理由は、それまで介護していた義父や義母を見送って、自分たちの「終の棲家」として、それまで住んでいた自宅の隣にあった、家庭菜園や駐車場に使っていた土地に新しく太陽光発電やIH設備で管理された家を建ててくれるらしいのだ。私に対しても、それまでの二階にあった部屋を歩くのが不自由になったので、一階に作ってくれるという配慮があったのだと思う。

そんなわけで、私は人生で五度目の引っ越しをすることになった。妻が出した条件は、それまで私が大量に所持していた書籍やCD等不必要な物を整理することだった。

「今度の家には、必要最小限の物だけ運んで、後は断捨離して欲しい」

確かに私の部屋には、「この先、絶対に読むことはないだろう」と思われる古い本やカセットテープやレコードなど、無駄だと思われても仕方のない物が溢れていたからだ。私は、仕方なく、自分の荷物を整理することにした。古いカセットテープの音源や邪魔なCDはパソコンにデータ化して、大量の書籍は古本屋に売り払ってしまった。少しずつスペースができた書棚の中に古いアルバムなどが出てきた。昔懐かしい写真や小中学校の卒業アルバムに混ざって、深緑色の小さなアルバム…確か幼稚園の時のものだ。私が、そのアルバムを手に取ろうとすると、その隣に長い手紙の入った封筒と小包のようなものが置いてあったのだ。

「うん? これは…?」

私は、その長い手紙を読み返して自分の辛い過去の思い出に引き戻された。自分にとって大切であった筈の、決して忘れてはいけない筈の思い出なのに、「それ」は、部屋の片隅でひっそりと私を待っていてくれたような「思い出」だった。私は薄い幼稚園のアルバムをめくり卒園時に写した集合写真の中の一人の可愛い少女のことを思い出していた。以下は私の思い出をもとにして描いた物語である。




 あれは、確か僕がまだ、幼稚園に行く前だったと思う。僕の家はとっても貧乏で、その日に食べる晩ご飯のオカズにさえ困るようなこともあったんだ。お店に買い物に行くことができないと、お母ちゃんと一緒に少し離れた武庫川の土手でヨモギとか土筆とか食べられる草を摘んでそれが夕ご飯になるような日もあったんや。僕が生まれる前から僕んちはずぅっと尼崎っていう市のホンマに下町っていう所に住んでたらしいわ。その頃は道意町ていう町に住んでたんやけど、浜田や杭瀬、他にもあちこちの街に住んでたらしいわ。なんで道意町に来たのかって言うとお父ちゃんの会社の社宅があったからや。僕んちは両親と四人の兄弟の六人家族やった。一番上がお姉ちゃんで、お兄ちゃんが二人。僕は一番末っ子で可愛がられていたらしい。兄ちゃんらからは時々イジメられててんけど、お姉ちゃんはいっつも僕を守ってくれてん。お父ちゃんは、海に近い大きな工場でボイラー技士をやってたんやけど、身体が弱くて母ちゃんがよく内職をしていたのを覚えているわ。確か国道四三号線の舗装工事が社宅の裏でやっていた頃やと思うわ。ちょっと北へ行くと、センタープールいうて、ボートのレース場の池なんかもあったんやでぇ。

 僕が小学校に入学する前に、なんでかよう分からへんねんけど僕は、「みのり幼稚園」っていう私立の幼稚園に入れてもろてん。当時としては珍しい送迎バスなんかもあって、変な話やけど周りはみんな「お金持ち」の子ばっかりで、少し場違いなとこやなって思てん。…それに、その頃の僕は身体が弱くてよく熱を出していたので、せっかく入れてもらった幼稚園やのに、一年のうちの半分も行かへんかってん。そやからあんまり「みのり幼稚園」のことはほとんど覚えてへんねん。今になって考えたらせっかく送迎バスまである私立の幼稚園に入れてもろうたのに、もったいない話やったなって思う。そやけど、今でも覚えていることが一つだけあるねん。ホンマは思い出してんけどな…


 僕は名前が忍やったから、みんなから「シィちゃん」って呼ばれてたんやけど、他の友だちの名前は忘れてしもうた。…そやけど、一人だけ島村千代子っていうっていうメチャベッピンな女の子がおってん。その頃の人気歌手やった島倉千代子と一字違いやったんで、みんなは「お千代さん」なんて言うてたけど、僕は入園して名前を知ってから千代子ちゃんのことを「チィちゃん」って心の中で呼ぶようにしててん。僕なぁ、その頃は身体もあんまり丈夫やなかっし、引っ込み思案やったから、入園式で初めて会うたチィちゃんを見て「テレビに出てはる人か?」って思てん。なんて言うたらええか分からへんけど、目元が綺麗でメッチャ美人やってん。僕は思わず「一目惚れ」してしもてん。多分「初恋」っちゅうやっちゃ。他にも可愛い子はいっぱいいたけど、チィちゃんとは比べようがなかってん。きっとあんな人を「美人って言うんや!」って、僕はそう思た。そやけど、その時は名前も知らんかったし、「どうせ僕とは違う金持ちのお嬢様なんやろうな」って思てあきらめててん。チィちゃんはホンマに綺麗やってんけど、いっつもニコニコ微笑むだけで、滅多に話すことはなかってん。しゃべられへんことはないねんで。入園してすぐの「仲良しタイム」で自分の名前もちゃんと「島村千代子です」って言うて恥ずかしそうに座ったからや。先生からの質問にも「はい」って返事してたもん。「きっとどっかのお嬢様やから、僕ら貧乏人とは口もきかへんのや」僕はずっとそう思ててん。けどホンマは違うかってん。

 僕が入園してちょっとした頃に熱出して休んだ次の日に幼稚園に行ったんやけど、前の日にお医者さんから「明日はおとなしく部屋で遊ぶんやで」って言われたから、僕は外遊びの時間にも部屋で絵本を読んでてん。そしたらみんなから「暴れん坊」て言われてた男の子が三人部屋に戻ってきて、「俺らと一緒に鬼ごっこしようや!」言うてきてん。僕が「嫌や」言うたら、読んでた絵本を取り上げて「男のくせに、一緒に遊ばへんのんか!」ってみんなで叩いてきてん。僕は喧嘩も弱かったんで、泣いて我慢しててん。その時やった。

「おまんら、なんばしよっとや!…一人んごつ、大勢でせごうち楽しかかぁ?」

 園の部屋の中に、大きな声が響いてん。しかも何言うてんのんか意味も分からへんかってん。まるで外国の言葉みたいやってん。みんながビックリして振り向いたら、普段はあんなにおとなしいチィちゃんが、もの凄い恐い顔でこっちを見ててん。そしたらしばらくして暴れん坊の一人が言うてん。

「ち、千代子が英語しゃべった!」

 それにつられたように、暴れん坊たちは僕を残して逃げるように部屋から出て行ってん。残された僕も泣くのをやめて、分からへんことを言うたチィちゃんを見ててん。

「英語やなか…」

 今度はチィちゃんが、うつむいて泣き出してん。僕は焦ってチィちゃんの側に行ってん。それから「何語でもかまへん。助けてくれておおきになぁ」言うて初めてチィちゃんの肩に手ぇ当ててん。チィちゃんはまだ泣いてたんやけど、泣きながら話してくれてん。

「ウチは、三月まで大分におったきぃ、関西ん言葉の上手にしゃべれんとよ。ほいじゃきぃ、友だちもおらんし…」

「大分?」

「うん。九州の…別府温泉ちぃ知っちょぅ?」

「うん。別府温泉やったら知ってるでぇ!…行ったことないけどな」

「そん、別府んあるとこたい」

「そんな遠くから来たんかぁ…」

「列車でん一日かかるきぃ。帰りたくても、帰れんとよ…」

「あの…あんなぁ?…僕みたいなんでも良かったら友だちになられへんかぁ?」

「…そいじゃき、シィちゃんはこげなウチで良かと?」

「当ったり前やんか!…入園式の時に初めて会うた時から『結婚するなら、チィちゃんみたいな人がええなって』思ててんでぇ?」

「嬉しか!…そいじゃきぃ、ウチはシィちゃんのお嫁さんにはなれんとよ…?」

「な、なんでや?…僕は本気やでぇ!…ウチが貧乏やからかぁ?」

「そげなこつなか…」

「ほんなら…なんでやのん?」

「筋ジスっちぃ、知っちょう?」

「キンジス?…なんなん、それ?」

「病気や。絶対に治らん不治の病らしか…」

「フジの病って、チィちゃん。今元気やんか?」

「…ほいじゃきぃ、もう今ではみんなと同じごと走れんとよ。そのうちに歩けんようにもなっちもうて、身体全部ん筋肉が動かんようになるっちぃ…」

「もうええっ!…チィちゃんが歩けんようになったら、僕がオンブしたる。…そやから、僕のお嫁さんになってぇな!」

「…ほいじゃきぃウチなぁ、二十歳ぐらいまでしか生きられんとよ…そんでん良かかぁ?」

「かまへん。僕が中学出たら、うんと働いて、チィちゃんを絶対に幸せにしたる。…そやから、僕のお嫁さんになってぇなぁ!」

「分かった。そん時まで生きちょったら、ウチんこつ貰うちくるるぅ?」

「俺がチィちゃんと結婚すんのは…当たり前田のクラッカー!」

 僕が友だちの家で初めて観たテレビのテナモンヤ三度笠の藤田マコトの真似をすると、チイちゃんがニコッと笑ってくれてん。そん時に外遊びからみんなが帰ってきてん。

「今ん話は、みんなには…」

「もちろん、内緒やんなぁ!」

 僕はチィちゃんから離れてん。チィちゃんもなんもなかったように、他の女の子と一緒に笑ってた。けど、僕は目ぇではずっとチィちゃんの顔を見てたんや。


 次の日は午前中で終わったんで、帰りのバスに乗ろう思て並んでたら、チィちゃんが僕のとこに来て耳打ちするように言うてん。

「シィちゃん。昼ごはんの後ん、ウチの家に来ぇへんと?」

「えっ?…ええんかぁ?」

「うん。来ちくれたら、嬉しかぁ!」

「…えぇけど、僕なぁチィちゃんちを知らんしぃなぁ」

「田中病院ちぃ…知っちょう?」

「うん。尼宝線の田中病院やったら、前にお父ちゃんが入院しとったから歩いても二十分ぐらいで行けるでぇ…自転車やったら五分ちょっとで行けるでぇ」

「シィちゃん、自転車ん乗れるっと?」

「うん!…何べんも失敗してこけたけど、こないだやっと乗れるようになってんでぇ!」

「凄かねぇ!…ほいじゃきぃ、車にぶつかったら危なかよ…?」

「分かった。…ほな、二時に歩いて田中病院の前に行くわ!」

「二時なぁ。待っちょるきぃ、気ぃつけて」

「うん!…ほな、後で」

 僕が乗るバスの方が先に出たんやけど、チィちゃんは笑顔で手ぇ振ってくれたでぇ。僕は家に戻ってすぐに昼ごはん食べてから、お母ちゃんに「一時半になったら教えてぇなぁ?」言うてん。「なんで?」ってお母ちゃんが聞いたんやけど、「秘密のデートや!」言うてごまかしてん。それまで暇やったから、お兄ちゃんのマンガを読んでたらお母ちゃんが言うてん。

「シィ?…もうすぐ一時半やでぇ」

「うん。ほな、ちょっと出かけてくるわ」

「どこに行くんや?」

「秘密…西小学校の近く!」

「自転車で行ったらあかんでぇ、ほんで五時半には帰ってくるんやでぇ!」

「分かってるぅ。いちいち煩いなぁ!」

 そう言うて僕は家を出てん。田中病院は、尼宝線のところにあったから、まず西小学校へ向かって歩いてん。途中に川があってな。橋を越えたら阪神電車の線路が見えて、その向こうには、今年姉ちゃんが入学した啓明中学校の大きな校舎も見えてん。僕は西小の運動場をぐるっと回ってから、早歩きで尼宝線の方に向かってん。僕がハァハァ息をしながら田中病院の前に着くと、チィちゃんと見たことないオバチャンが二人で一緒に待っとってん。

「遅うなってしもて、かんにんなぁ?」

 僕が言うたらそのオバチャンが腕時計を見て笑って言うてん。

「まだ、約束の二時にはなっていませんよ。…貴方がシノブ君ね?」

「はい。…えぇと、オバチャンは…誰なん?」

 そしたら急にチィちゃんが笑いながら出てきて言うてん。

「ウチのお母ちゃんじゃきぃ。ウチが初恋ば相手ん会う言うたら、一緒に行きたいん言うきぃ、付いち来ちもうたちよ」

「は、初恋?」

「ほら、シノブ君が困っているみたいよ?」

「ホンマじゃきぃ。ウチを嫁さんにしちくれるちい言うてくれたやんね?」

「そ、それは、ホンマやけど…」

「まぁまぁ、ここでは人目につくから、家まで来てもらえる?」

「はい!」

 僕らは、三人でチィちゃんの家に向かって歩き出してん。チィちゃんは小犬みたいに僕の手ぇ引いて踊るように歩くねんでぇ。幼稚園ではいっつも澄ましているチィちゃんがまるで駄々っ子みたいにしてたんで、僕はビックリしてもうたわ。「こんなとこ他の友だちに見られたら恥ずかしいやろな?」思た。…けど、嬉しかったでぇ。「あんなに嬉しそうな千代子の顔をみるのは、本当に久しぶりだわ!」ってオバチャンも後で言うてたわ。けど、オバチャンが大阪弁でも大分弁でもないのが不思議やな思て聞いたら、「これは職業病なのよ。オバチャンは、NHKラジオのアナウンサーというのをしていて、それで大分県の放送局にいた時にチィちゃんのお父ちゃん、つまり今の主人と結婚したのよ?」らしいわ。別にえぇけどアナウンサーの喋り方しかでけへんのも不思議やなって思たでぇ。

 僕らは、さっきまで僕が歩いて来た道を戻って行ったから、「まさか、ウチの社宅に来るんか?」思たけど、どうやらチィちゃんの家が僕んちの近くらしかってん。「なんでわざわざ田中病院なんかで待ち合わせたん?」て聞いたら「ウチ幼稚園の他に知っちょうとこは、病院しかなかきぃ」言うてチィちゃんがうつむいてん。近くの田中病院と労災病院や阪大病院しか知らへんらしい。阪神百貨店や甲山公園も阪神パークにも行ったことがなかってんて。

 道意町は、ゴチャゴチャした町やったけど、阪神電車とセンタープルの近くには昔からの大きなお屋敷みたいなんが何軒か並んでて、チィちゃんの家もそのうちの一つやったらしいわ。…けど、そこへ行くにはどうしても通らなあかんところがあってん。線路わきの小さな橋の側におんぼろのアパートが一軒だけあって、その中の一つの部屋の窓に大きな緑色の網が張られた部屋があって、そこに中学生ぐらいの男の子がいっつも網にもたれかかって、赤ちゃんみたいによだれをたらして「アバアババ…」言うてんねん。何言うてんのんか分からへんかったから僕や近所の子は、みんな「お化けや!」言うて笑い者にしててん。

「この道、行ったら『お化け』がおるやろう?」

「何ねぇ、お化けっちぃ?…もしかしたら吉田健太郎兄ちゃんこつかぁ?」

 急にチィちゃんが僕の手ぇ離して睨んでん。

「あん、兄ちゃんはお化けなんかやなかと。学校にも何処にも行けんけん。あぁやっていっつん自分の大好きな空ば見とるんよ?」

「…まだシノブ君には難しいから分からないかもしれないけれど、小児麻痺っていう頭の中の脳の病気なのよ?」

「ショウニマヒ?」

「シィちゃんは、ウチがあないなったら、やっぱりお化けじゃ言うきぃ?」

「そんなん、言うわけないやんかぁ!」

「ウチん身体んごとも、段々筋肉ん動かんごちなるっちよ?」

「チィちゃんは、どんな身体になってもチィちゃんやんかぁ!」

「ほいじゃきぃ、健太郎兄ちゃんごとも同じんごつ、ありんまま見ちぃあげちよ!…人は誰でん好きで病気んなる人のなかとよ。見ときぃよ?」

 そう言うとチィちゃんは、その窓のところに行って、「健太郎兄ちゃん。こんにちは!」言うてん。そしたらそれまで窓にもたれて外ばっかり見てた健太郎兄ちゃんがチィちゃんの方を見てニコッて笑ってん。そやから、僕はちょっとおっかなかったけど、窓辺に近づいて行ってん。

「今までお化けやなんて言うてごめんなぁ。健太郎兄ちゃん…」

 すると健太郎兄ちゃんは、僕とチィちゃんの方に手ぇ伸ばそうとしてくれてん。…もちろん網に包まれた窓やから直接握ることはでけへんかってんけど、チィちゃんがやったふうに僕も網の外から手ぇ当てたら、兄ちゃんの手ぇの温もりが伝わってきてん。そしたら健太郎兄ちゃんがホンマに嬉しそうに笑うてんでぇ!

「ほぃ、兄ちゃん手ん温もり伝わってきちぃやろぅ?」

「うん!」

 そんな僕らを後ろから黙って見てたオバチャンが言うてん。

「どうして千代子がシノブ君を好きになったのか、分かったような気がするわ」

 言いながらオバチャンは少し泣いててん。ホンマによう泣く親子やなぁ思たでぇ…


「これっ、何なん?…ここは百貨店かぁ?」 

 僕がチィちゃんちの子ども部屋に入った時の第一声やった。何でか言うたら、部屋の中がホンマの百貨店みたいに、いろんなもんがところ狭しと並んでいたからや。ひょっとしたら、百貨店よりも多くのもんが置いてあったかもしれへんでぇ。お人形やママゴトの食器とか、フライパンみたいなん。絵本とかその頃は僕んちにもやけど、あんまり家に置いてなかったテレビとかレコードを聞くためのステレオみたいなんもあってん。ピアノかってあってんでぇ…もちろん、綺麗に片づけられてたから、僕の家よりかはきちんと整頓されてたんやけどな。僕が驚いてんのん見ていたチィちゃんも呆れたように言うてん。

「シィちゃんの驚くんは、無理んなか。ほいじゃきぃ、ウチは『こげんもんはいらん』ちぃ言うたんじゃけんどなぁ…『今のうちに』ちゅうて父ちゃんが言いなしゃるんよ」

「親心っちゅうやつかぁ…それにしても凄いなぁ!」

 僕は本屋さんみたいなたくさんの本とか、レコードなんかを見回しててん。外国の絵本や玩具なんかもあってん。僕の家やったら「これだけ買お思たら百年はかかるやろうなぁ?」思てため息ついてん。

「シィちゃんの好きんもんのあるとやったら、持って帰ってんよかよ?」

「アホかぁ。みんな女の子の物ばっかりやんかぁ…それより、あれってピアノやろう?」

 僕が部屋に入れてもろて、一番最初に気になってたものを指さしてん。それは、学校でも音楽室や体育館にしかあらへんようなピアノで…もちろんグランドピアノやないけど、それでもお医者さんとか、ホンマの大金持ちの家にしかないもんやった。

「あれん良かかぁ?…持っち帰る?」

「な、何言うてんねん!…あんな大きいもん、一人でどうやって持って帰るねん。…それに社宅は狭いから置く場所かてあれへんわ!」

「ほいじゃのぅ。あんピアノを持っち来たんも、大きなトラックじゃったしぃ、こん部屋に運んだんも三人の大きか男ん衆じゃったきのぅ。なんぼシィちゃんの力持ち言うてん。あれは無理やいねぇ?」

「当たり前やろう!」

「…弾いちみるぅ?」

 チィちゃんがピアノの蓋を開けて赤い布みたいなんをよけてから、僕に言うてん。

「好きんだけ、弾きんしゃい。ウチはシィちゃんのお嫁さんになるんじゃきぃ。ウチんもんはみんなシィちゃんのもんじゃ」

「ドレミのドって、どこなん?」

 白と黒い鍵盤ちゅうのんがぎょうさん並んでたんで僕がチィちゃんの顔見て聞いたら、僕の右手の人差し指を持って「この二つ並んだ黒鍵の左下がド」言うてそのまま弾いたら綺麗なドの音が部屋に響いてん。僕は生まれて初めてピアノ弾いて感動したわ。

「…なぁんか、心に沁みてくる音やなぁ」

「…なぁ、シィちゃん。ウチん歌、聞いちくりるぅ?」

「うん。なんでもええから、チィちゃんが一番得意なやつ歌うて!」

 チィちゃんは「うん」言うて、しばらく考えてから僕の指を離して違う白い鍵盤を“ポ~ン”て音を出してから深呼吸するみたいに両手を広げて歌い始めてん…



 『シャボン玉』


 シャボン玉飛んだ。屋根まで飛んだ。

 屋根まで飛んで、壊れて消えた…


 シャボン玉消えた。飛ばずに消えた。

 生まれてすぐに、壊れて消えた…


 か~ぜ風吹くな。シャボン玉飛ばそ…



 チィちゃんの歌を聞いてたら、まるで別世界に行ったみたいに静かぁな気ぃしてなんも言われへんかってん。ほんでなぁ、なんでか知らんねんけど、涙がこぼれてきてん。そしたら、いつの間にかチィちゃんが僕の側に来て僕の涙を拭いてくれてん。

「シィちゃん。ウチ…生きたかぁ。長生きんしちぃ、シィちゃんのホンマん嫁さんになりたかぁ…」

 僕はどないしたらええんか分からへんかって、僕より泣いてるチィちゃんの肩に手ぇ置いてん。ほんでなぁ、恥ずかしかったんやけど、言うてんでぇ…

「チ、チィちゃん。今すぐは無理やけど、大人になったら、必ずチィちゃんと結婚するさかい。…そやから、そやから、それまで生きててぇなぁ!」

「ウチん身体は、段々動かんごちぃ、なってん?」

「当たり前や!…たとえチィちゃんがミイラみたいになっても、チィちゃんは、僕の嫁さんになるんや!」

「ホンマ?…ホンマにウチが動けんようなっちぃ、ウチを嫁さんにしちくれるっちゃ?」

「ホンマや!…僕は、チィちゃんが世界でいっちゃん好きやねんもん」

「ほいじゃ、ウチん秘密の見しちょうよ?」

 チィちゃんはそない言うたかと思たら、いきなり僕の目の前で自分の水色のスカートのボタンをはずしてスカートを脱ぎ始めたんや。

「な、何すんねん?」

「よぅ、見ちぃやぁ?」

 そない言うてチィちゃんはスカートも「ハイソックス」っちゅうんかぁ?…少し長い靴下も全部脱いでパンツいっちょうになってしもてん。僕が目ぇそむけたら、チィちゃんが少し怒ったような真面目な声ではっきり言うてん。

「よう見ぃ、ウチはこげな女子おなごじゃきぃ…そんでん良か?」

 僕がビクビクしながらチィちゃんの指差す足見たら、膝から下の…ふくらはぎ言うところが少し普通より膨らんでのんが分かってん。うつむいたままのチィちゃんのふくらはぎを僕は宝物みたいに優しく撫でてあげてん。

「人によっち違うきぃ、入学までには車椅子んなるじゃろっちぃお医者さんの言いなさちゃっとよ?」

「よう分かったわ。それやったら、僕も誰にも言うてへん秘密にしてることを教えたるわ…そやけど、その前にスカートはいてぇなぁ。こんなとこにオバチャンが入って来たら、僕がエッチな変人や思われるやろう?」

 チィちゃんがスカートをはいてくれたんで、二人並んでソファーに座ってから僕は決心して自分の家の秘密を話し始めてん。


「…これは、お母ちゃんから『他の人には絶対に言うたらあかんでぇ!』言われてたんやけどな。僕の名前は宮里忍って言うやん?…この宮里っちゅう苗字は、実は沖縄の出身やねんてぇ。そやけど、沖縄は今アメリカに占領されてるやん。そやからみんなに知られたら差別されるやんかぁ?…実際、姉ちゃんなんかは学校でイジメられたり仲間外れにされたりしてたらしいねん。もちろん言わへんけどなぁ?…そやから『どこの出身なん?』言われたら『九州の方ですって答えるんやでぇ?』ってお母ちゃんから、きつぅ言われててん。田舎のお爺ちゃんちがまだ沖縄の那覇っちゅうところにあるんやけど、アメリカやからパスポートちゅうんを取って、国際線の飛行機やないと行かれへんねん。僕の家が貧乏なんは、お父ちゃんが一年か二年に一回何万円もかけて伊丹の大阪国際空港から、帰るためやってん。昔は沖縄の人のことを琉球人言うて差別してたらしいわ。方言が誰にも通じんかったからな。僕もお父ちゃんとお母ちゃんが二人で話している言葉の意味が今でも分からへん。そやから、僕の家の本籍っちゅうんも熊本にあるらしいわ…」

 僕の話を黙って最後まで聞いてたチィちゃんがポツンと言うてん。

「…ちっとん、知らんかった。シィちゃんにもそげな辛かこつのあったっちゃねぇ?」

「人間、誰かって人には言いたくない知られたくないものがあるもんや。…そやけど、これからは、なんにも秘密にせんと二人で生きたいんや。僕は一生懸命勉強して世界一のお医者さんになったる。ほんで、チィちゃんの病気を治す薬を必ず発明する。…そやから、さっきみたいにすぐに死ぬみたいなことは、もう言わんといてほしいねん…」

 僕がまた泣きだしたから、チィちゃんがそばで「もう泣かんでぇ、かんにんなぁ」言うてお母ちゃんみたいに僕の頭を撫でてくれてん。けど僕がなかなか泣きやめへんかったから、急にイタズラっぽい目ぇして言うてん。

「なぁ、シィちゃん。今からウチん魔法の見ちくれんねぇ?」

「…はぁ、魔法?」

「うん。ウチは一つだけ魔法ん使えるっちゃ!」

「ホンマかぁ?」

「ウチが今からこんハンドベルっちぃ鳴らすけん。シィちゃんば三つ数えると。…良か?」

 チィちゃんが机の上に置いてあったベルを鳴らしたから、僕は「一、二、三…」言うて数えてん。そしたら、突然部屋のドアが開いて隠れんぼしてたみたいにチィちゃんのオバチャンが入ってきてん。ホンマにビックリ仰天やった。

「千代子どうしたの?…何かあったの?」

「分かっちぃ?…ウチん魔法っ!」

「こんなん、ズルいわぁ!」

 そう言うて僕が笑ったら、チィちゃんも手ぇ叩いて笑いだしてん。

「ほぃ、泣いちょったシィちゃんが笑うたぁ。ウチん魔法はシィちゃんば笑わすこつじゃったきぃ!」

「一体何なの?…魔法って…?」

 オバチャンが不思議そうな顔をしてチィちゃんと僕をキョロキョロ見ててん。そしたらチィちゃんがまだ笑いながら言うてん。

「なんでんなか。ほいじゃきぃ、ウチもシィちゃんもオヤツん食べたかぁ!」

「あら、もうすぐ三時だから、用意するわ。ちょっとだけ待っていてね?」

 そう言うて部屋を出て行ってしばらく待ってると、三人分のカルピスとかクッキーなんかをお盆に載せて戻ってきてん。僕らは、三人並んで椅子に座ってカルピス飲んだり、クッキーちゅうのを食べてん。いっつも駄菓子屋さんで買うてる二枚で一円の塩煎餅なんか比べもんにならへんぐらいに美味しかったでぇ。それから三人でいろんな話しをしたり、オバチャンに絵本を読んでもろたりしてん。そしたらハト時計が五つ鳴ったから、僕は家に帰ることにしてん。

「また来てあげてね?」

「はい」

「約束じゃきぃ…ずぅっと待っちゃるきぃ!」

「分かってるって、夏休みになったら毎日でも来るわ!」

 僕が門から道に出て歩いてると、角を曲がるまでチィちゃんとオバチャンがいつまでも手ぇ振って見送ってくれてん。


 その日の晩ご飯の時に何でも優しく教えてくれるイッちゃん上のお姉ちゃんに聞いてん。

「なぁ、姉ちゃん?」

「何や?」

「筋ジスって、どんな病気なん?」

「はぁ?」

 言うて、お姉ちゃんが飲みかけてた味噌汁を少し吐き出しそうになってん。

「き、汚いなぁ、姉ちゃん!」

 上の兄ちゃんが文句言うたら、「アンタには関係ないやろぅ!」言うて箸を置いてん。

「キヨコ、食事中なんやから、ちゃんとしぃやぁ」

 言うて、お母ちゃんがお姉ちゃんに注意してん。僕はお姉ちゃんに「急に変なこと言うてゴメンなぁ?」言うとお姉ちゃんは、真面目な顔して僕の顔見て言うてん。

「なぁ、シィ。筋ジスって、筋ジストロフィーのことかぁ?」

「うん。多分…」

「誰から聞いたんや?」

「幼稚園で同じ組のチィちゃんからや。自分が筋ジスや言うてん」

「チィちゃん?」

「うん。島村千代子っちゅう名前なんやけど」

「はぁ?…島倉千代子?…歌手の?」

「ちゃう、ちゃう。シマムラや。一字違いの別人や。みんな間違えるねんけど…」

「何でもええわ。…んで、その千代子っちゅう女の子が言うたんか、自分は筋ジスやって?」

「うん」

「…シィは、その子が好きなんか?」

「うん!…結婚しぃたい思てんねん」

 お姉ちゃんは、しばらく考えてたんやけど、しばらくしてから悲しそうな目ぇして僕にゆっくり言うてん。

「あんなぁ、シィ?…アンタがその子に優しくしてあげんのはええ、けど結婚まで考えるのは、お姉ちゃんは反対や…って言うか、結婚はでけへんねんでぇ?」

「何でやのん?…何で結婚でけへんのん?」

「その子は歩けんのん?…走れんのん?…よう転けへんかぁ?」

「歩けるでぇ…走られへんけどなぁ」

「車椅子って知ってるかぁ?」

「うん。お父ちゃんが前に入院してた田中病院にあったやつやろぅ?…そう言ぅたらチィちゃんも入学までには、車椅子になるかも分からへんて言うてたわ」

「そやろう?…そのうちに寝たきりになって、自分でご飯かて食べられへんようになんねん。ジャンケンかてでけへんようになるねんでぇ。それで、それで…」

 お姉ちゃんが自分の膝の上に僕を載せてから、涙流して「死ぬかもしれへんねん。…そう言う病気やねん。筋ジストロフィーっていう病気はなぁ…」言うてん。

「分かってるでぇ。チィちゃんも初めはあきらめかけてたんやけど…けどなぁ?」

「けど、何なん?」

「僕が一生懸命勉強して、お医者さんになって必ず治す薬を発明したるって言うてん!」

「医者?…お前が医者になんかなれるわけあれへんやろぅ!」

「医者になろう思うねんやったら大学の医学部っちゅうとこに入学せなあかんねんぞぅ!…お金もぎょうさんかかるねんぞぅ!」

 兄ちゃんたちが一斉に言うたんで、僕が暴れ出そうとしてん。けど、それまで黙って晩ご飯食べてたお父ちゃんが怒鳴ってん。

「ごちゃごちゃ煩いっ!…黙って食べるんや。忍が本気で医学部のある大学に行くんやったら、お金のことは心配せんかてええ。忍、その代わり本気で勉強するんやでぇ?」

「う、うん…」

 その後はみ~んな黙ってしもうた。


 その日の夜、みんなは箪笥の上に置いてたラジオでおもろい番組を聴いてたんやけど、僕は自分のノートに「僕は、いがくぶにぜったいにいく」いうて書いてんでぇ!


 その次に僕がチィちゃんちに行ったんは、夏休みになってからやってん。なんでか言うと七月の終わりまでチィちゃんは「検査入院」とかで、ずぅっと病院におったから、幼稚園休んでたからや。夏休みになったある日、僕の社宅に誰か来た思たら、チィちゃんとオバチャンやってん。二人で僕のお母ちゃんに挨拶に来てんて。ほんで「家へ遊びに来ない?」いうてオバチャンが言うたんで、お母ちゃんも「ええよ。遊びに行って来なさい」いうて、普段よりか丁寧な言い方して送り出してくれてん。

 久しぶりに会うたチィちゃんは、前とあんまり変わらんかったけど、ずぅっと病院におったせいか全然日焼けしてへんかってん。けど、元々色白やったチィちゃんは益々美人になっとったでぇ。

「この子ったら、毎日『シィちゃんに会いたい!』って言ってたのよ?」

 オバチャンはそう言うて笑うてたけど、前よりチィちゃんの手ぇをしっかりと握っていたんが分かってん。転けへんようにしてたんやろうな。それと、も一つ不思議に思うたんは、半袖のブラウスに鈴が付いててん。

「これ何なん?…飾りかぁ?」

「何でんなか!」

 チィちゃんが恥ずかしそうに笑うたんで何も追求せぇへんかってん。後で姉ちゃんに聞いたら「転けたらすぐに気づくためやろう」言うて教えてくれてん。やっぱりチィちゃんは少しずつ悪うなっとったんやな。部屋で二人っきりになった時はなんか恥ずかしい気ぃなって黙っててん。それに前はおらんかったオッチャンもおったからな。

「お父ちゃん仕事は大分ん大学の先生じゃきぃ。今は夏休みじゃきぃ、来ちぃくれちょうよ」

「大学の先生かぁ…」

「ほいじゃきぃ。シィちゃんも毎日来れるっちゃろう?」

「…うん。でもなぁ、医学部に入ろう思たら、う~んと勉強せなあかんやろう?」

「ウチんため?」

「そうや」

「ウチんためっちゃねぇ。けんど、切なかぁ…」

「…それやったら、ここで勉強してもええかぁ?」

「ほぅじゃ。そいやってん。シィちゃんに毎日会えっとねぇ…?」

「ここにはぎょうさん本があるから、僕も助かるわぁ!」


 次の日から、僕はお姉ちゃんから必要なノートなんかをもらってチィちゃんちに行ってん。分からへんとこはオバチャンが丁寧に教えてくれるさかい一挙両得や思てん。…そやけど、帰りしなに、オッチャンが出てきて「ちょっといいかな?」言うてん。そやからオッチャンと二人で社宅の近くの公園で話してん。

「シノブ君は、医者になるために、勉強しているらしいね?」

「はい。そんで、チィちゃんの病気を治す薬を発明します!」

「…医者になるのをあきらめてくれんちかぁ?」

「はぁ?」

「あん子ん病気は、急性でおまけに進行性のらしかぁ…」

「キュウセイ?…シンコウセイ?」

「あぁ、すまんかった。…つまり急に発病しちぃ、悪うなるんも早かと…」

「そ、そんなぁ!」

「オイも信じられんちゃ。ほいじゃきぃわざわざ大分ん離れてちぃ、大阪までん来さしたんじゃが…」

「帰るんですかぁ?…チィちゃんも、大分に?」

「今すぐやなかちぃ、あん子も嫌がるじゃろうちぃ…」

「ぼ、僕は…」

「あの子ん良か思い出ば、残しちやってくれんねぇ?…母親ん言うちょったと。『あん子ん笑うんは、シィちゃんと一緒におる時じゃっちぃ…』ほいじゃきぃ。頼むけん。あん子ば笑わせちぃ、楽しか思い出ん作っちゃくれんねぇ。頼むけん…」

 オッチャンは涙まみれになってそない言うてん。僕も泣きながら「わかりました」って言うてん。


 それから、僕らは、四人家族みたいにいろんなとこに行ってん。阪神パークや浜甲子園。それに夏休みには甲子園で高校野球なんかも観たし、六甲山や須磨水族館にも行ってんでぇ。

「シィちゃん、勉強せんでん良かぁ?」

「ええねん。僕医学部に行くんやめてん。ほんでなぁ、薬学部っていうのに行くことにしてん。その方が医学部より簡単やし、チィちゃんの薬の研究かてできるやろう?」

「ほいじゃったらええけんど、あんまり無理んせんでねぇ?」

「あぁ、分かってるって!」

 言い訳も実はお姉ちゃんが全部考えてくれててん。ホンマに悲しいけど、楽しい夏休みやってんでぇ。

 九月になって運動会がってんけど、幼稚園は狭いから西小の運動場を借りてやってんで。チィちゃんは観てるだけやったから、あんまり覚えてへんねん。僕も走るん遅かったしな。


 十月の中頃やったと思うねんけど、十一月にある「お遊戯会」のフィナーレをどないするか、みんなで考えることになってん。その頃には、チィちゃんは何かにつかまってないと歩けんようになってたんやけど、僕は手ぇ挙げてん…

「はい!…千代子ちゃんの歌がええと思いますぅ!」

 僕はドキドキしながら言うてん。先生も友だちも少し困ったような顔をしてはってんけど、その時に一番後ろから園長先生が言いはってん。

「私も島村さんの歌がええと思うけど、チヨちゃんはどう思うの?」

「みんながいいなら歌いますけど…一人では…ちぃと」

「誰かが一緒ならいいのね。…で、誰ならいいの?」

「シ、シノブ君です…シィちゃんが一緒にいてくれるなら…」

「で、でも園長先生、もし…」

「もし?…もし、何なの?…誰にお願いしても、『もし…』は、消えませんよ。…もしもの時は私が責任を持ちます。忍君、それでいい?」

 僕は立ち上がって大きな声で「はいっ!」って返事してん。そやけど、それからが大変やった。毎日遅うまで、舞台を二人で手ぇつないで歩く練習や歌う歌の練習なんかが続いてん。…もちろん、歌は『シャボン玉』やってんでぇ。

 当日は「文化の日」言うて十一月三日の祝日で、大勢の人が幼稚園の「お遊戯会」を観に来てくれてん。しかも僕の誕生日やってん。いろんな友だちの芝居やら演奏なんかがあって、段々僕らの出番フィナーレが近づいてきてん。チィちゃんのオバチャンがごつぅ心配してたわ。

「チ、千代子、大丈夫?…今なら、誰かに代わってもらえるわよ?」

「大丈夫じゃきぃ!…ウチん晴れ姿ん、ちゃぁんと観ちぃ!」

「そうですよ。お母さん。何かあったら私らが…」

 園長先生がそう言いかけたら、園内にマイクの声が響いてん。


…次は、いよいよ本日のフィナーレですぅ。今日の最後の舞台は島村千代子さんですぅ。…いやいや、島倉千代子やおまへん。島村千代子さんの歌で『シャボン玉』ですぅ。エスコートしてくれるんは、宮里忍君で~す。はい、拍手ぅ!…


 ちゃっかり笑いも取りながら先生が僕らを紹介してくれてん。僕は「ほな、行こうかぁ?」言うて手ぇ差し出すと「ほな、行きまひょうかぁ?」言うて、けったいな関西弁で笑うて僕の手ぇしっかり握ってん。チィちゃんは、少しだけ足引きずりながら、僕は、そんなチィちゃんを優しくかばうように舞台の上でお辞儀してん。そしたら先生が低い方の“ソ”の音をピアノでポンて弾いてん。チィちゃんは、あの時みたいに両手を広げて大きう深呼吸して、『シャボン玉』の歌を歌いきってん。あの時みたいに素敵ぃな歌声が会場内に響ぃてん。「ちゃんと最後まで歌えるんかなぁ?」僕の方が緊張してたわ。チィちゃんが歌い終わって、二人でちゃぁんとお辞儀してん。そしたらな…

 皆んな大きい拍手をしてくれてん。…しかも泣いてはってん。中にはチィちゃんのオッチャンもおったし、僕のお母ちゃんもお父ちゃんもおってん。僕らは、転けんように慎重に階段まできてん。そないしてたら先生までみんな泣いてはってんでぇ。

僕は「まるでホンマの結婚式みたいやなぁ!」そない思て隣のチィちゃんの顔みたら、僕を見てホンマに嬉しそうにしててん。二人で手ぇつないでゆっくりと降りてきてもまだ拍手はやまへんかってん。そやから「お遊戯会」は大成功で終わってんでぇ!


 …せやけど、チィちゃんはしばらくするとホンマに歩けんようになってしもうてん。十一月の終わり頃には、とうとう車椅子ちゅうのに乗らなあかんようになってしもうてん。そやから僕は前の日にチィちゃんちで車椅子に乗ったチィちゃんを乗せたまんま動かす練習をさせてもらってんけど、これが思ってた以上に大変やってん。道に落ちてる石ころさえ車椅子の邪魔になるなんて思わへんかったし、しんどなって途中の公園で休憩しよう思ても入り口の段を超えるんができんでオバチャンに手伝ってもろうてやっと公園の中に入れたぐらいやってん。僕がハァハァいうて息をついてたら、車椅子のチィちゃんが声かけてきてん。

「シィちゃん。…きつかとやろう?…もうええきぃ、こげんこつん、やめよう?」

「なんでそんなこと言うねん?」

「ねんでちぃ…」

「何が『なんでちぃ』やねん。前にも約束したやろう?…チィちゃんがどないな身体になっても必ず僕が守るって!…僕なぁ、『お遊戯会』のフィナーレの時が僕とチィちゃんとの結婚式やったって思うてるねんでぇ?…もしも、僕に力が無いんやったら、力道山みたいに身体ぁ鍛えてもっと強くなったる。僕は一生かかってもええから、チィちゃんの車椅子を押してあげながら生きていきたいんや!」

「シィちゃん。ウチぃホンマに嬉しかぁ!」

「あの日が二人の結婚式ねぇ…本当に頼もしいお婿さんだこと!」

 オバチャンも嬉しそうにそない言うてくれてん。そしたらなぁ…

「シィちゃん。二人は結婚しぃたんじゃきぃ、ウチんごと千代子ちぃ呼ばんね?…ウチはアンタんごとシィしゃんちぃ呼ぶきぃ…あかん?」

「…そ、そんなん急に言われたかてぇ…」

「ゆっくりでん良かよ。ゆっくり二人で生きちぃいこ?…な。シィしゃん?」

「うん。分かったでぇ…えぇと、チ、千代子」

「おおきにぃ!」

「シノブさん。千代子のことをよろしくお願いします」

「な、なんでやぁ?…なんか照れるがなぁ!」


 僕とチィちゃんは、幼稚園では今まで通りに呼び合うてん。けど、家にいる時なんかは「千代子」「シィしゃん」って呼び合うようになってんな。…まるで新婚の夫婦みたいやってんでぇ。外で遊ぶのは大変やったけど、時々は車椅子のチィちゃんを乗せて散歩かてしてん。もちろん、オバチャンも一緒やったけどなぁ。

 そない言うたら、チィちゃんが車椅子で幼稚園に行く時も、必ずオバチャンも一緒に来て、部屋の隅っこでチィちゃんのことを見守っていてん。「なんでかなぁ?」思て先生に聞いてん。そしたら、先生が困ったような顔をして「先生の数が足りないからよ。それに、何かあってもお医者さんや看護婦さんと違うから、何もできないでしょう?」って教えてくれてん。

 それでもなぁ。園長先生たちや他の先生たちも、チィちゃんの家みたいに階段になっているところをスロープいうて坂道にしてくれてん。それだけでも、チィちゃんのオバチャンは何べんもお礼を言うてはったわ。

「オバチャンも大変やなぁ?」

「それでも、行かせてくれるだけでも有難いのよ。…それにシィちゃんがいつも手伝ってくれるので、とても助かっているのよ?」

「…そんなん、当たり前だって僕は…」

「そうねぇ。シィしゃんは千代子のお婿さんだものね?」

「しぃっ!」

 僕は友だちに聞かれへんかったかな。思てんけど、誰も聞こえてなかったみたいやってん。みんな僕とチィちゃんのことを認めてくれてはるみたいやってん。「みんな、黙っててくれてありがとうなぁ」僕は心の中でみんなに頭を下げながらチィちゃんの車椅子を押して行ってん。もちろん、僕以外にも一緒に車椅子を押してくれる子もおったし、「暴れん坊」言われてたあの子らも、「一緒に綾取りせぇへんかぁ?」言うて仲良くしてくれてんでぇ。僕は「幸せやなぁ…」思てんでぇ。ホンマにこの時がいっちゃん幸せやってん。


 けど…幸せな毎日もそう長くは続かへんかってん。年が明けて二月の連休の時に、オッチャンが尼崎のチィちゃんちに来はって、「大切な話があるから聞いてくれるかい?」言うてん。僕はなんか嫌な予感がしてん。医者になるんをあきらめた時のオッチャンの顔を思い出してしもうたからやってん。

 僕とオッチャンは、二人で少し遠くの神社の境内で話してん。オッチャンがどんな話をすんのかドキドキしながら、一緒に歩いてん。

「シィちゃん、いや忍君。君のおかげで千代子は本当に幸せな思い出をたくさん作ることができた。本当に有難う!」

「そやかてチィちゃんは、僕の…」

「聞いたよ。お嫁さんにしてくれたらしいね?」

「はい。…つまりぃ、オッチャンはぁ…」

「…つまり、義理の父親っていうことだね?」

「はい…」

「それじゃぁ、義理の息子ととして、忍君。君にお願いがあるんだけど…」

「な、何ですかぁ?」

「千代子を…つまり、君の奥さんを大分に帰してあげて欲しいんだ」

「そ、そんな無茶なぁ!」

「無茶なのは、分かっているよ。父親の我がままかもしれない。それでも、せめてあの子の最期は…最期はきっちり見送ってあげたいんだよ!」

「それやったら、僕も行きますぅ!」

「それも、考えたんだ。だけど、君が一緒に行くとあの子が自分の死をすぐに受け入れてしまうような気がするんだよ?」

「僕と離れて生きるんがチィちゃんの幸せになるんですかぁ?」

「分からないよ。…けれど、せめてここよりは空気の美味しい、あの子の生まれ育った大分で…残された時間をすごさせたいんだよ!」

「会いに行くのも駄目なんですかぁ?」

「…もしも、仮に君があの子に会いに行ったとしたら、千代子はどう思うと思うかい?」

「ウチん、大切な人の来たかぁ…ウチはいつでん死んでん良かって…」

 僕が下手くそな大分弁で言うと、オッチャンが頭を深う下げて涙混じりで言うてん。

「無茶苦茶なのは、十分に分かっている。…ほいじゃきぃ、ワシはあん子に親としちぃ、一分でん、一秒んでん長生きして欲しかぁ。お願いじゃ。あん子の生きる星になって欲しかとよぅ…」

「チィちゃんの、生きる星ぃ…?」

「…離れている、けれど同じ空の上から、ずぅっと見守ってあげちぃ欲しかぁ…」


 僕はそのまんま社宅に戻ってん。期末テストの勉強をしてたお姉ちゃんに、オッチャンの話を聞いてもろてん。お姉ちゃんは、鉛筆を指先でもてあそぶようにしながら考え込んでいたみたいやけど、僕の目ぇじいっと見てから言うてん。

「シィ?…アンタには物凄く辛いかもしれへんけど、アンタは大好きなチィちゃんのために鬼になるしかないとウチは思う…」

「鬼ぃ?」

「自分のことより、ホンマに好きな人のために、あえて別れてあげる。…チィちゃんのために何ができるんか、よう考えてみぃ?」

「チィちゃんのために、何ができるか、かぁ…?」

 僕は、まだ子どもやし、末っ子の甘えん坊やし、ただの泣き虫やった。…けど、けど、けど…

「チィちゃん…」

 涙がなんでか知らんけど止まらへんかったでぇ…


 次の日に、僕はチィちゃんちに行ってん。最近はいっつも側におるオバチャンに「大事な話があるから、二人だけにしてくるぅ?」言うてん。そしたらオバチャンが何も言わんと出て行ってん。

「大事な話って何ぃ?…シィしゃん?」

「四月になったら、二人とも小学生やんなぁ?」

「うん…」

「…けど二人は同じ小学校に行かれへんやんなぁ?」

「うん…うちは尼崎養護っちぃ学校やしねぇ」

「…大分に…帰りぃ」

「はぃ?」

「なぁ、千代子。大分に帰るんや。お前の生まれた大分に…」

「なんでじゃ。あぁ…シィしゃんも一緒なん?」

「いいや。僕はこの町に残る」

「嫌じゃきぃ!…何で夫婦が離れて暮らさなあかんのん?」

「それやったら、聞くけど…オッチャンとオバチャンも夫婦やないんかぁ?…そやのに離れて暮らしてはるやんかぁ」

「そぃば、ウチん病気のためやちぃ…」

「離れていても夫婦なんやろう?…尼崎養護学校よりも、家族一緒の方がええと…思う」

「…シィしゃんは、ウチんこと嫌いになったんきぃ?」

「アホかぁ!…僕は、僕はチィちゃんのために言うてんのや。離れていても、きっと勉強一杯して、チィちゃんの病気を治すぅ薬を発明したら、真っ先に迎えに行く。…そやから待っててぇ、大分で。ほんで別府温泉やら、国東半島やら綺麗な所へ案内してぇなぁ…」

「ほいじゃきぃ、ほいじゃきぃ…」

 チィちゃんが甘えん坊のように泣き出してん。そやから、僕は怖い顔してこない言うてん。

「そんな泣き虫のチィちゃんは…そんな泣き虫は、僕は嫌いや!」

「ホンマに、会いに来てくれるぅ?」

「そやから、約束したやろう?」

「手紙んくれるぅ?」

「あぁ、約束する?」

「ウチんごつ愛しちょぅ?」

「あ、当たり前田の…」

「クラッカー?」

「そうや。同じ日本の中やから…心配せんかて、ええ」

「はい。分かりました。シィしゃんの言葉に従いますぅ…」

 オッチャンもオバチャンも部屋の外で泣きながら聞いてはんのは、感じで分かってんけどなぁ。

「最後に一つだけぇ、頼みがあるんやけど…」

「何ぃ?」

「あ、あの歌…『シャボン玉』もういっぺん聞かしてくれへんかぁ?」

「ええよ」

 チィちゃんの車椅子をピアノのとこまで運んでん。チィちゃんは涙声やったけど、あの日みたいにちゃぁんと歌ってくれてん。


 三月になって卒園式が終わって、いよいよ明日がチィちゃんの家族が大分に引っ越すいう日、つまりぃ前の晩に島村さん親子三人がウチの社宅に挨拶に来てん。僕のお父ちゃんやお母ちゃんと長いこと話してはった。僕は狭いけど、奥の部屋に隠れるように座っててん。チィちゃんは車椅子やからオーバーかけて玄関におってん。そしたら三人が帰る寸前にチィちゃんが僕を呼んでん。僕が行くと、チィちゃんは泣いてなかったんで安心したわ。

「シィしゃん…」

「なんや?」

「ウチんごつ嫌いになってん良かきぃ、ほいじゃきぃシィしゃんらしか生き方んしちぃね?」

「えっ?」

「お医者さんにも薬学部にも行かんで良かきぃ…薬ば発明せんでん良かきぃ…必ず会いに来ちぃや?…約束じゃきぃね?」


 …これが僕が見たチィちゃんの最後の姿やった。引っ越しの日も隠れてトラックやらが出て行くのを見ててん。その後、何回か手紙が来てんけど、僕が漢字とか分数とか覚えるようになっていくのに、チィちゃんの手紙の字が平仮名のまんまで、来るたんびにチィちゃんの書いた字ぃが、逆に汚くなっていくねん。そして、僕が中学校に入学する時にオバチャンから手紙が来てん。

「もう千代子は手紙を書けなくなったので、出せません。でも、いつもアナタのことばかり言っています。手紙は出せませんが、アナタのことを忘れたわけではありません。今後お便りはできませんが、どうか千代子のことは心の隅の方にでも置いておいてあげてください。身勝手な母をお赦しください…」


 僕が小学校三年の終わりに僕んちも伊丹市ちゅうところに引っ越してしもうてん。そいで高校生まで伊丹の学校に通ってんけど、大学受験の時期に、突然「島村幸一」っちゅう人から、小包と長い手紙が入っててん。「誰や?」思て、住所を見たら大分県の日田市って書いてあってん。正直、僕はオバチャンから最後の手紙をもらってチィちゃんのことは忘れることにしてたんやけど、その時に急に思い出してん。…でも、それは「チィちゃんの死」を知らせる手紙やってん。

 結局、チィちゃんは最期まで僕が来るんを待ってたらしいわ。そやけど…そやけどなぁ。

「千代子はこの春に亡くなりました。でも千代子の死因は筋ジストロフィーではなくて、今年の春に大流行していた風疹による髄膜炎が死亡原因だそうです。千代子は最後の最期まで、貴君の名を呼び続けて、眠るように逝きました。本当に感謝しきれません。有難うございました。同封したものは、千代子の生前の写真と最後に娘が書いた文字です。仮に貴君に辛い思いをさせるのであれば、焼くなり送り返すなりしていただいて構いません。父親として、貴君に無理ばかり言ってしまい、本当に申し訳なく思っています。千代子の分まで、幸せになっていただけますよう、祈っています。もしも、今後貴君が大分に来るようなことがあれば、自分の家だと思って連絡いただければ嬉しいです。きっと千代子もお墓の中で『シィシャン』が来るのを待っているでしょうから…

           心の中の義父島村幸一」


 不意に僕の心の中に、チィちゃんの歌声が聞こえてきてん。

「シャボン玉、飛んだ。屋根まで飛んだ。屋根まで飛んで、壊れて消えた…」

 「風、風吹くなかぁ…」チィちゃんのシャボン玉は、最後の最期まで飛び続けてんなぁ。大分には「風」は吹かへんかってんなぁ…手紙を読んで僕はそう思ってん。


「チィちゃん、よう約束を守ってくりちぃ。おおきにぃ…」


 写真には、ベッドの中のチィちゃんや、車椅子で病院の庭を散策するチィちゃんが映っていてん。そいでノートに大きくクレヨンみたいなんで書かれた最後の字が入っていてん。

「みやざと ちよこ」

もうすぐにやってくる四月の空に向かって、僕は最後に「千代子!」って叫んでから、入学する大学に行くための準備の続きをやってんでぇ。


2017・3・3(金)

10:23(a.m.)



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