大樹の森 =Ⅲ=
ユナは、両手をあげて男性の声の聞こえた方へと、ゆっくりと振り向いた。そこには、薄暗がりの中でも目立つ長い金色の髪、その中心にはぎらりと光る蒼に近い緑の瞳が此方を睨んでいた。
ユナは、最初その鋭い視線に驚きこそしたが、その髪の色と瞳の色に、大樹の里に住まう人間ならばよく在る色だったことで、プツリと緊張の糸が切れてへたりこんでしまった。「よかった、人だ‥‥」幼さ故に思った事が口から出ている事にも気がつく余裕もない。
へたりと力の抜けきった状態で、見上げた青年は、よくよく見ると村人たいよりも一回りも背丈が大きく耳は少し尖っていた。
だが、それでも今度こそ魔物の襲撃を警戒していたユナには、人の姿をしていた、ということだけで一気に力が抜けてしまった上に、驚きで腰も抜けて立ち上がれずに、座りこんでしまった。だが、それで青年の視線が更に鋭くなったような気がした。
「‥‥‥」
あぁそうだ、よくよく考えれば、ここは本来侵入禁止区域だ。入ること自体が、許されざる行為。
まずい‥‥このまま殺されるかも‥‥
良くても森の外に放り出される‥‥
そうなったら、大樹に薬の元を探しに来ているユナとしては、とてもとても困る事態だ。
どうにかどちらも回避したい。
いくつかの行動パターンが、脳裏を駆け巡るが、ほんの少し動こうとしたユナの、真横の木に矢が突き刺さる。
「ひっ!」
頬を矢が掠めた。
柔らかな頬に、一線。皮膚が裂かれて血が流れる。突き刺さった矢の高さは、きっちりユナの頭の高さに突き刺さっていた。もしかしなくても、頭を撃ち抜くつもりで放たれたモノだったのかもしれない。
どうしよう‥‥‥ やっぱり殺される!!
ユナはきつく目を閉じた。本来ならば、まだまだ幼き子ども、泣いて叫び、助けを求めたかった。だが、ユナはそれをごくりと飲み込んだ。牢獄での大人達の仕打ちを飲み込んできたように。叫びそうになる自分を手慣れたように律した。
なにせ牢獄では、叫んだ瞬間に拳が、足が、棒が彼めがけて何度も降ってきたのだ。過去の暴挙が脳裏を過って、目を閉じ、手で口を塞いだ。だからといって、死への恐怖が無くなる訳ではない。いくら声を殺しても、身体は無意識にガタガタと震えている。先程だって死にかけたのだ、でも、その時は既に意識もギリギリだったから、恐怖も何もなく死を受け入れようとしていた。
───でも今は?
何故かあの酷い怪我も治っていた。意識もある。何もせずに死ぬのは
‥‥嫌だ。
せめてとばかりに、矢を向ける男を睨みかえそうとしたが、不意に視界が真っ白になって、気がつけば地べたに伏していた。
──あれ?
手が震えている。口は開けても、息を吸っても呼吸が苦しい。心臓がばくばくいっていた。視界が白くなったり黒くなったり、消えたり見えたりする。頭がズキズキ痛んだ。
おかしい、立ち上がる事ができない。意識があるのに、自分で自分を動かせない。それは、先程よりもずっと恐ろしいことだった。
それから、少しすると硬いブーツの音が近づいてきて、肩を爪先でコンコンと蹴られたが、反応なんてできやしない。息をするので精一杯だ。蹴られた痛みも、遠くに感じた。
「おーい生きてるか?」
耳元で低い男性の声が聞こえる。今度は肩を捕まれ揺すられるが、息が苦しくって、頭がぼーっとして、それどころではなかった。
「‥‥‥仕方無いか」
その声だけが遠くからでも聞こえた。それから、不思議な浮遊感といつの間にか村の誰よりも濃い緑色の、まるで深い森のような瞳が目の前にあった。端正な顔立ちの青年に似合う瞳は、けれども冷たく、まるでユナを石ころか虫でも見ているかのような瞳だった。それでも彼は美しかった。こんなに美しい人を見るのは、初めてだというのに、何故かユナは少しだけ彼に既視感を感じていた。
それから、すぐに口の中がとんでもなく苦味を感じて、慌てて吐き出そうと唾を吐きたかったが、何故か吐けない。抵抗するも、舌も動かせない。何かが蠢いて、それから、ごくりと固い何かを飲み込んだ後に、浮遊感がなくなって、固い地面の感触を背に感じて暗転した。
───────
目を開けると、変わらぬ暗い森の中のままだ。
しばらく意識が飛んでいたようだった。
変わったことといえば、見たことのない布が身体にかけられていて、少し離れたところで焚き火が点っていたことだった。
ふるりと身体が震えた。寒くて、まだふらふらする身体で火元に近づいた。暖かい。
少しだけ身体の震えがおさまった気がする。。
「起きたか‥‥」
先程の男の声が聞こえて、あわてて振り返ると、彼の手には大きな弓と矢が見えて、慌ててまた両の手をあげた。つがえられずに、手に持たれた矢の、その矢尻の鈍い光が見えてスーっと血の気が引いていった。また、心臓が痛いほど脈打ち、呼吸が酷く乱れ、手に力が入って痛む。
「お前は、何故この森にいる?‥‥‥‥‥‥‥答えろ」
鋭くユナを睨みながら、形のいい唇が、命令してきた。
「おまえは一体何者だ?」
低く鋭い声が恐ろしくて仕方がない。口からあふれでた言葉は、「っ!ぁ、ご、ごめんなさい!ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいいいいいい!!!!! 」そんな言葉しかでなかった。そう言えば、牢獄の看守役の大人達は気が済んだり、ある程度殴って飽きたら去っていくのだ。
だが、青年は呆気に取られているだけのようだった。彼は許してはくれないのかもしれない。
でも、ユナに言える言葉はそれだけだった。他に言葉が思い付かなかった。何せ何かにつけて、謝罪を何百としない限り、殴られ、蹴られ、叩かれ続けていた。だから、他に言葉を知らなかった。身体を丸めて頭を隠すようにユナは体を必死で守ろうと丸まりながら、ただただ素知らぬ人に謝罪を繰り返した。
「おい」
―――やっぱり殺される!!
そう思って身を更に丸めた。動いたせいで帽子がはずれてしまい、真っ赤な髪が溢れでてきた。
あ、終わった。
目を閉じて辞世の句とやらを考えてみたが、やはりよくわからなかった。
しかし、いつまで経ってもユナが予想していた衝撃はこない。
「っお前………暗くて見えにくいが赤髪…か……?」
青年は目を大きく開いて驚いているようだが、ユナはそれどころではない。恐れで見上げることもできず、ただただ壊れた玩具のように、謝罪の言葉を吐き続けている。その謝罪が止まったのは青年に腕を引かれて無理矢理起き上がらせられたからだ。
「おい、お前‥‥‥さっきよりは体調はどうだ?後怪我はないか??」
「ひぃ!ごめんなさい!って‥‥‥っえ?え?けが??」
驚きのあまりに、ユナの大きな金色の瞳が大きく開かれ青年を下から上まで眺めた。先程の冷たい表情はなく、困惑したしているようだった。
「わるいな、頭は打ってないか??
あ‥‥‥この頬の傷は俺だな‥‥‥すまなかった。
先程の薬で一時的には動けるだろうが、このまま動き続ければ良くはない。治療するから行くぞ」
そう言ってユナを小脇に軽々と抱えてしまった。まるで鞄のような扱いで、ユナは着いていけずに目を白黒するばかりだ。
「!?っ!?!‼️!!」
せめてもの抵抗とバタバタとユナはもがくが、体格差は大人と、赤子くらいの差があるので、まるで歯が立たない。傍目からみても、遊んでいるようにしかみえなかった。
「落ち着け。暴れるとまた倒れるぞ。治療をするだけだ」
ユナを小脇に挟んで、青年は木漏れ日が僅かに入る程度の暗い道を、難なく歩いていくが、ユナには道さえ理解出来なかった。あまりに荒い獣道。草木の生い茂った道とは言いがたい道をずんずんと彼は進んでいく。
どこに連れていかれるのかも分からないユナにとって、恐ろしく心細い道。進んで行く度に、ユナの心臓は出会った時から潰れてしまいそうな程に、心音を立てていて今度は頭痛までしてきていた。ガサガサと草の根を掻き分ける音、木の折れる音、鳥の鳴き声、獣の遠吠え、なんだって今のユナを怯えさせるには充分だ。
ユナがそんな状態になっていることなど、気にもとめずに、当の青年は森の奥へ奥へと進んでいく。森中引き摺り回しの刑のアンジェに比べれば、抱えて怪我をしないようにと草木が当たらないようにと、気を遣いながら進んでくれるので、遥かに優しいのだけれども、全く知らない他人という事だけで、ユナにとって恐怖でしかないのだ。
そうして、びくびく怯えながら連れられた場所は、先程とはちがって、空に木の枝や、葉のない開けた平地だった。
少し明るくなったことで、ユナは辺りを見回してみたが、何もわからなかった。それから、青年は唐突に首にぶら下げていた白い鳥を象った小さな何かを掴み、口に咥えて強く吹いた。
音がしているのだろうか?耳を済ましても聞こえない。不思議そうに青年を見上げていたが、程無くして一体彼が何をしたのか理解できた。
離れた場所から大きな羽根音が聞こえる。
かなり離れている筈なのに、それでも明らかに鳥の形がはっきりと分かるのだ。近づいて来るほどに、その大きさにユナは今度は別の意味で震えた。
小鳥なんて大きさの可愛いものじゃない。じゃあこれは?
「なに…あれぇ……」
先程のように比にならないほど、身体が震える。
隣の青年よりも、更に何倍も大きな鳥が此、方に向かって猛スピードで突っ込んでくるのが見えるのだ。
「ん?あぁ、鳥だ。」
見ればわかるだろ?とばかりに、にべもなくそう答えると、彼はユナを抱え直した。向かってくる大きな鳥への恐れも合わさって、ユナの喉はヒッっとか細く鳴り、本能的に逃げようとするも、がっちり掴んでくる青年の腕のせいで逃げることは叶わない。あわあわとただ、猛禽類が近づいて来るのをただ見ているしかできないのだ。まるで、クモの巣にかかった蝶ような気分でユナは空を見上げていた。
た、食べられる!!殺される!やっぱり鳥のエサにするつもりだったんだぁ!!
…お母さんごめんなさい。僕は薬を見つけることもなく、終わってしまいそうです。
ずっと恐怖で怯えるユナにとは異なり、青年は鳥に向かって手を大きく振っていた。まるでこっちこっちと友達に手を振って合図をしているかのように、笑顔で手を振っている。鳥も、それに答えるように、勢いを更につけて此方に向かってくる。
あまりにも早く飛んでくる鳥に、ユナは
さよなら、母さん
っと、反射的に目を瞑って身体を丸るめたが、鋭い爪が突き刺さることも、大きな嘴につつかれることもなかった。
近くで大きな羽根音が聞こえる、羽ばたきによって強い風が起きて、体重の軽いユナは、青年の腕に抱え込まれていなければ、飛ばされて木に叩きつけられるか、崖から落ちていたことだろう。それぐらい大きな鳥だった。
恐る恐るユナは、頭上すぐに近くの木に止まった鳥の、その姿を眺めた。
金色の長い尾羽根に、身体は真っ白でまるで神の使いのように、神々しく美しい鳥であった。ユナは、先ほどの食べられるのでは?という恐れを何処かへ消し飛ばして、本来の幼くも瑞々しい感性で、その美しい鳥の姿に見惚れていたのだった。