大樹の森 =Ⅳ=
神々しい程に美しい鳥の姿に心奪われていたユナだったが、不意に鳥は、一度大きく羽を広げて鳴いた。その鳴き声で辺りの葉が揺れ、古い葉が落ちていく。軽い地震のような衝撃に「わっ」と驚いて彼は耳を塞いだ。その一瞬の合間に白い鳥は、いつの間にか羽根をはためかせ、空へと舞い上がっていて、何度か低空を旋回すると、そのまま、また地上へ舞い降りて青年の両肩をがっしりと掴むと、あっという間に天高くへと昇っていった。
まぁ、もちろん青年に抱えられていたユナも一緒に飛ぶ訳で‥‥‥
先程は抜け出したくて、じたばたと青年の手から逃れようともがいていたのに、今度は青年にしがみついて振り落とされないように必死になった。
耳元で大きな羽音が聞こえる。
お腹には青年の腕による圧迫感による痛み。
足に地のない恐怖。
もしものことがあれば、死にかけたりすることは、想定していたけれども、こんな目にあうなんて思ってもみなかった。
‥‥ただ。
あれ?この感覚、どこかで一度あったような?
口を開けて呆けてるユナを尻目に、鳥は大きな羽を羽ばたかせ更に上空へと飛翔していった。
木々の枝の輪を抜ける度に、ユナの体には枝葉が当たって幾つかの擦り傷が増えていく。彼の鳥は、とても容赦がないようだ。しかし、今のユナはそんな小さな痛みなんて気にしている余裕なんてない。身を震わせ、必死で青年の体にしがみつき落下死の恐怖を噛み殺すしかない。空に上昇して行く感覚が落ち着くまで、ユナは彼にしがみつくしかなかった。爪が食い込み少し、青年の背中に赤い痕が残ている。
そうして、ある程度上昇しきると、不思議と今度は今、どんな高さを飛んでいるのかもわからない状態が逆に恐ろしくなってきて、本当は下など見たくもないというのに、黄昏の光がうっすらと瞼を照すので、目を開けようとしてしたが、風圧で開けられずに目をまた閉じた。風がキツイ。でも、全く開けられないほどでもない。
目を開けよう。
いや、どうしよう?
でも、今どうなっているのかな?
うぅ…
そんな2つの事柄に脳は悩みこそしているが、しかし、人間というものは恐ろしいものほど見てみたくなるもののようだ。ユナもその例に漏れず、おそるおそるだが、今度こそ彼は瞼を開いた。
そして、目の前に広がる光景に、ただただ赤い瞳を大きく見開いた。
あの深い深い森を、こんなにも容易く抜けて、世界が一転して輝いている。
黄金色の太陽に照らされて、薄く青とピンクと黄色のグラデーションが燦然と輝いていた。
黄昏の世界が、ユナの目の前にひろがっているのだ。
それは、村に籠っていては、決して見ることが出来ない世界。
金色と菫色が織り成す美しき世界。
それが、目一杯に広がって、森はあんなにもに大きかったはずなのに天空からは、木々のさざめきも小さく遠いのだ。
そうだ、自分の村は何処だろう?と探すものの、残念ながら彼の村はわからなかった。けれども、それでもユナの瞳はその広く美しい光景に大きく限界まで見開かれたままだった。
あまりにも真剣に空を見つめるユナに、青年は心配そうに声をかけた。
「おい、大丈夫か?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
その声が聞こえていないのか、ユナの瞳には、黄昏の空と森を写すばかりで、反応はなく、彼は、困ったように頬を掻いて苦笑した。それから、目的地が近づいてきたのだろう。鳥に合図を送って更に大樹の上部へと舞い上がった。
そして、森が更に小さく見える頃。
大樹に大きな穴が、ぽっかりと開いているのが見えてきた。それは人一人は優に入れるほどに大きな虛だ。どうやら、青年の住まいは、大樹の虛の中に出来ているようだ。普通の人には決して入ることの出来ない場所。
だがそれ以前に、大樹に人が住んでいたとは、思いもしなかった。なにせ遠く端のユナの村からみても、この大樹の周りでは時折、竜巻が渦巻いて大樹を覆っている事があるのだ。正直人が住むことなど不可能だろうと思っていた。
だが、こんな大きな虚があり、あの風から隠れられるのであれば、生きていける‥‥のだろうか??それでも人が生きているのが不思議であった。
あちこち見渡していると、唐突に鳥の足が青年の肩からぱっと放れ、鳥はあっという間に飛び去っていった。
「え?えっ!?」
唐突な落ちる感覚にユナは訳がわからないと、軽いパニックを起こしてえ?としか言えなくなっていた。下は軽く30階のビルに匹敵する高さで、足元に何にもない。そのまま落ちればトマトのように潰れて終わりだろう。だが、その前に何かをハンマーで殴るような音がした。
「っと、危ない。
アイツまーた、何も考えずに離しやがって……」
青年が大樹に矢を突き立てていた。抱えられているユナも唐突な事に脂汗がでていた。そんなことお構い無しに、彼は片腕でユナを抱えたまま、そのまま大樹を蹴り突き刺した矢に足を乗せ乗ると、そのまま容易く木登りを始めた。抱えられているユナはその逞しい腕にすがり付くしかなかった。
それで、また元の虚にたどり着くと、ようやっと腰を落ち着ける事ができた。
「はぁ、はぁ、こ…、怖かった…」
ずっと恐ろしい事ばかりで感覚が麻痺してくるかと思ったがそんなことはない。こわいものは怖かった。
「ん?そうか?あぁ、そうか。そうか。
人間には怖いよな。悪かったよ。顔色もさっきより悪くなっているしな。
ともかく、ほら中に入りな」
腕を掴まれ半ば強引に彼の住居に引きりこまれそうになる。
しかし、ここまできて、不意に母の言葉が思い出された。
『ユナ、この里にとって大樹はシンボルであり、神聖なものでもあるの。あなたはいつかこの大樹に誓いを立てる機会があるわ。その時、決して敬いの心を忘れてはいけないのよ。ましてや木を傷つけてはいけないのよ』
あれ?‥‥さっき矢を突き立ててたんだけど‥
敬いとは??
虚の中で生活している人がいるんだけど、これはいいのだろうか??
ユナの中では大樹は神聖なもの!という認識が崩れていく。何よりこの森に住まう『人間』の存在など聞いたことも無かったのに、もう本当にどうすればいいのか分らず、考えることを諦めて、今度は生き残るための青年に従うことにした。
入った虛の中は真っ暗で何も見えない。青年に手を引かれていなければ、歩くことさえままならなかった。だが、彼が何処かへ手を翳すと、まるで魔法のように部屋が明るくなった。
「うわぁすごい」
うっかり楽しげな声を出して、吹き出されてしまった。少し恥ずかしい。彼の部屋に、明かりが灯る。それは一つ灯ると連鎖的に部屋を照らしていった。蝋燭とは異なる不思議な緑の明かりに照らしだされる、それで、全ての明かりが灯ると、広い部屋の全貌がみてとれた。奥には整頓された生活用品がそろっている。
青年は木を丸く切り抜いてできたテーブルセットのイスにユナを座らせると、奥にある囲炉裏のような所に火を点した。
その行為にユナはギョッとした。
ここは大樹の中なわけで、こんな小さな火とはいえ、中から大樹が燃えてしまうのではないかと内心ユナが心配をしてひやひやしていた。
でも、その暖められている何かは、とても甘く優しい香りをしていて、この広い部屋を満たしていく。今度は一体何なのかが気になって、手の震えはいつの間にか収まっていた。頭では不安でいっぱいなのに、反面本来の好奇心がうずいて、青年が一体何を作っているのかユナは気になって仕方がなくなっていた。
「まぁ、座りな。顔色もわるい。ミルクを温めている間に怪我をみよう。
んー、それにしても、下で見たときは解らなかったが、思いの外‥‥‥紅いな」
「あっ‥‥‥」
ユナの肩が跳ねる。不思議な明かりや景色に心が踊ったのに、一瞬で冷や水をかけられた気分だった。
村で最も忌み嫌われた原因の真っ赤な髪。
それを青年はしげしげと眺めてきて、ユナはとてもとても恥ずかしく苦痛を感じていた。
それと、一つ頭によぎった。
もしかしたら、この木から今度こそ突き落とされてしまうのだろうか??はたまた村人のように暴力を振るわれるのか?
友人や母以外は皆、不思議と変わってしまった。
ぼろ雑巾のように扱ってこられたから、ユナはきっとまた殴られるのだろうと、いつでもどうぞとばかりに、目を固く閉じた。
「まぁ、難しいことは後ででいいか‥‥‥
痛むかもしれんが、頬の傷洗うぞ」
ぎゅっと目を瞑っていたユナはその言葉に恐る恐る目を開くと真っ直ぐに此方を見ている澄んだ青みの強い碧色の瞳が此方を見ている。その目には、侮蔑も暴力的な色もなく、あまりにも村の人間達とは違うので、どう対応していいのか知らないため腕を下げればいいのか、そのまま構えていた方がいいのかさえ、ユナにはわからなかった。困惑してばかりのユナに、焦れるどころか青年は苦笑を浮かべる。
「別に俺はお前を取っ手食おうとか暴力振るおうとかなんて、俺は思っちゃいないぞ。
だから安心しろよ、それより目を閉じとけ。水が目にはいる」
そういってユナの赤い頭に、ポンと優しく手を置いてくれた。母以外の大人、それも男性に、こんなに優しい手つきで撫でられたのは、久方ぶりで、ユナは本当にどうしていいのかわからずに、ただただ涙がボロボロこぼれていた。
彼は、ただ微笑んで柔らかな布で涙を拭ってくれる。それでもっと涙が出て来て、止まらなくなっていた。
いつの間にかワンワン泣いて泣いて泣いていた。
本当は堪らなく辛くて苦しくって、どうして自分ばかりこわい思い、痛い思いをしつづけなければならないのだろう?と、そんな疑問さえ抱けず、心を何度も殺されていた。
友に心配をかけたくなくて、それを悲しむことも嘆くことも出来ず、ただただ飲み込んで今度は吐き出せなくて、なのに、ただ、自身の頭上も何も知らないこの人が、頭を撫でて優しくしてくれただけで、堰を切ったように溢れて止まらなかったのだ。
ひとしきり泣き続けると、落ち着いたか?と微笑まれて、それに、静かに頷いた。
「あぁ、そういえば、お前の名前を聞いてなかったな?なんて名前なんだ?」
「………」
ユナの口ははくはくと動いて、泣きすぎて喉が枯れて、言葉にならないでいた。
「やっぱりまだ、俺が怖いよな。悪かったよ」
申し訳無さそうに、青年はユナを見ていた。ひどく泣いて赤い瞳は、目の下まで真っ赤になっていた。
「‥‥‥え、とあの‥‥」
掠れた声でユナは言葉を紡ごうとするも、殆ど音になっていなかった。
「あんなに泣いたんだ。無理をしなくてもいい。それに、名を訊ねるならば、先に名乗るのが、礼儀というものだよな。
俺の名は、リィーンゼィル=ヴァン=モルヴァダイン。
この大樹の森の番人の一人だ」
そう名乗ってまた、ユナの赤い髪をなでてくれて、嬉しいが、それよりも初めて聞く単語にユナは首を傾げた。
「森の‥‥ばんにん?」
聞きなれない言葉であった。