1話
主城エステルキャッスル二階最奥にある謁見の間に、本来あり得ない物が鎮座している。
成人男性の身の丈ほどの、縦長の楕円形をした古めかしい鏡である。
鏡面は薄汚れており、部屋の様子がぼやけて映る。
普段はエステルキャッスル宝物庫に眠る神器、隔世の鏡である。
歴代の王の肖像画が並ぶ下に立てかけられた鏡に、徐々に人の姿が浮かび上がる。
鏡の前に人がやって来たわけではない。
隔世の鏡は、かつて魔神デイフォが人神フーマと交信するために贈ったとされる、遠く離れた場所を映し出す二つで一対の神器なのだ。
そこに映し出されたのは、他ならぬ、勇者だった。
固唾を飲んで見守るのは、国王フォンノワールエーステと三人の宰相。
そして、かつて勇者と共に旅をした四人の落ちこぼれ冒険者。
合わせて八対の瞳のみだ。
彼らが見つめる先の勇者は、俯きがちだった面を上げる。
勇者の背後は闇が支配しており、周りの様子は何も見出せない。
だが、口の動きより微妙に遅れて届けられたのは、紛れもなく八人が知る勇者の声音だった。
「やあ、久しぶり」
こわばった笑みと共に、勇者は力なく片手を上げた。
勇者は勇者で、隔世の鏡越しに八人の表情を一望してから言葉を続ける。
「ごめん。訳あってみんなの声は、僕には届かない。でも、どうしても伝えないといけないことがあるんだ」
皆表情は違えど、その心の中は、八人が八人、不安を募らせる。
そして事実、勇者が続けた言葉は、誰もが受け入れ難いものだった。
「僕は、魔王討伐を断念する。だから、ごめん。僕の帰りは、待たないで」
冒険者の一人が、口を開きかける。
だが、開きかけた口は、力なく閉ざされる。
勇者に言葉は、届かない。
「無責任なのは分かっている。本当は、僕は今すぐ死ぬべきだと言うことも。だから」
一度俯いてから、勇者は改めて顔を上げた。
その目は、深い深い闇色をしていた。
「だから、ごめん」
その一言だけを残して、隔世の鏡から勇者の姿は消えた。
交信の途切れた鏡には、呆然とする八人の姿が、ぼんやりと映るばかりだった。
鏡は厳重に梱包されて、屈強な男たちに担がれて謁見の間から退場した。
玉座に腰掛け直した国王フォンノワールエーステは、眼前で頭を垂れる四人のうち、一番右の、甲冑に身を包んだ女戦士に言葉をかける。
「戦士ルイよ、そなたは先ほどの勇者の様子、どう思う?」
問われたルイは、消え入りそうな声で一声返事すると、より一層頭を下げて沈思する。
沈思する。
沈思すること一分を超えて。
「ええい、早く何か言わんか!」
「ご、ごめんなさいぃっ!」
顔を上げたルイは、両目に半べそをかいていた。
その表情は緊張と混乱でしっちゃかめっちゃかではあれど可憐。
たいそう美しかった。
「勇者様があんなこと言い出すなんて、わたしには、わけがわからないんですぅぅっ!」
美少女に涙を溜めた目で上目遣いに見つめられれば、王とて狼狽えざるを得ない。
逃れるようにルイの左側に視線を移すと、そこに座すは、羽織袴の細身の男。
「では侍セキ、そなたはどう思う?」
問われて、侍セキは畏まった様子で準備していた台詞を口にする。
「はっ、恐れながら。拙者が共に旅をした勇者殿は真の勇者。何があろうと魔族に屈するようなことは御座らん。かといって先ほどのあれは紛れもなく勇者殿。偽物なのでは御座らん。となれば、魔界にて、やむにやまれぬ事情が出来たと考えるのが筋」
王は一つ頷くと、少し迷ってから、侍セキの隣に座る少年に言葉をかける。
「ならば魔物使いヌランよ。そなたはどうしたい?」
あどけない顔立ちの魔物使いヌランだが、戦士ルイとは真逆で、緊張の欠片も見せず口を開く。
「うーん、やっぱり、勇者に会って確かめないといけないよね。だってまだ、何があったのか、なんにも分かってないし」
王は一つ頷くと、一番左端の清楚なローブに身を包む女賢者に目を向ける。
「賢者イオナよ。向かう先は魔界となる。厳しい旅になるだろう。だが、余がこの勇者奪還の任を命じられるのは、最早そなたら四人以外にはおらん。できるか?」
その問いに、賢者イオナは自信たっぷりな笑みと共に頷きを返す。
「はい。我々とて勇者一行の端くれ。人界を魔王の手から救うためならば、どんな困難な道も突き進む所存です」
王は重々しく頷いて、こう切り出す。
「よし、それでこそ勇者一行だ。では、そなた達が魔界へ向かうにあたって、勇者代行を選出する必要があるのだが……」
言って、王は四人を品定めするように一望する。
戦士ルイ。
勇猛果敢で容姿端麗、旗印としては申し分ない逸材だが、いかんせん賢さが足りない。
一行を率いるなどとても無理だ。
侍セキ。
冷静沈着で人望も厚い。
だが、あまりにも装備が貧弱だ。腰に差した刀は、錆び付いていて紙も切れない有様だし、鎧甲は着込めない。
東方の衰退した部族の哀愁が漂っている。
魔物使いヌランはその道のエキスパートで、人界のありとあらゆる魔物を手懐けてきた剛の者だ。
さりとて彼はまだまだ子供。大人達に指示を飛ばすのは難しい。
それに、魔界には人界の魔物を連れて行くことはできない。戦力としても、先頭に立てるわけではない。
となると、残るは賢者イオナしかいないわけだが、彼女も実は、問題を抱えており——
「いや……もはや一刻の猶予もない。賢者イオナよ。そなたに勇者代行の地位を与える!」
半ば自棄になりながらも、王は宣言した。
「はっ」
賢者イオナは自信に満ちた笑みと共に低頭する。
王の隣に控えていた司祭が一歩前に出て、速やかに叙勲の儀が執り行われる。
こうして急遽結成された勇者の二軍から成る一行は、魔界へと旅立つことと相成った。