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季節のささやき。3

作者: 千桐久遠

 僕が彼女と出逢ったのは雨の降る金曜日だった……。


 ……小説の書き出しとしては平凡すぎるな。過ぎ去った日々の回想を始めるにも、文才がないことには調子が悪いようだ。でも、たしかに僕は覚えている。いまでは日常となった光景も、あの薄暗い雨の日にこんな場所に来なかったら、いまここに在ることはなかったのだから。一目見て、分かった。その人は間違いなく、自分と同じ人種なのだと。

 そんな彼女は目の前で古ぼけた椅子に座って物憂げに本に目を落としている、ように見えた。

「ねえそこのコーハイ」

「なんですかセンパイ」

 厚かましいほどに容姿も声もレベルが高い彼女は顔を上げ、眉を落とした表情で唐突に声をかける。

「だるい。かったるい。やる気でない。面倒くさい」

 あ、いつもの台詞だ。

「じゃあ帰ったら?」

「家行ってもやることがなくて退屈でしょ」

「それもそうですね。だからお互いこんなところに居るんですけど」

 はあ……、とため息が重なる。その中には、その立地にも居合わせる人間の立場にも見合わない、退廃と無気力が滲んでいた。この場所こと旧図書委員会室は、放課後の喧騒もさらにこの部屋がある学校そのものの存在も、何一つ感じさせない。古い書類や埃を被った本が積みあがり、停滞した空気がたゆとう。その空間に、僕と彼女だけが居る。

「なんかもう一年経つんですよね……」

 まったくもって暇なので声をかける。そう、彼女と出逢ってからだ。

 学生とは、読んで字のごとく「学ぶ生活を送る者」。でも世の中にはそれに大変向いていない人間、というのは数多く存在する。僕と彼女はその中でも珍しい部類に入るといえた。すなわち、勉強しようがしまいが結果として成績に変動がない。それゆえの向上心と向学心、勉強の重要性の認識の欠如。仮にも身分は「学生」であるのだ、「学びてこれを習う」が日常生活に必要でなくなれば、後に残るのは本質を失った空っぽの生なのだろう。執着のない、やることのない、熱意なんてものもない学生生活。

 いつだったか二人で仲良く分析した、自分たちの共通点にして一緒にいる理由である。

「それもそうね。ほんと、いつのまにか、だけれど」

 そう返す彼女の表情は、出会ったときから変わらない。似たもの同士寄り添って、相手の存在にひとかけらの安心を抱くための、ゆるくて単調な関係の下に一年が過ぎた。

「きっと、気がついたら私も卒業してるのでしょうね」

 天井を見上げて、さらりとこの空間の終焉を予告する。常の会話にはない言葉だったので、彼女の真意を探る。

「そんなに遠い話じゃないですもんね……」

 彼女との別れ。あらためて本人が口に出すと、それはぐっと胸に来るものがあった。愚かではないのだから、先のことは見えすぎるくらい見えている。……彼女のいない生活は、おそらく今まで以上に灰色で、かつての支えのない孤独に立ち返ることになるのだろう。彼女の存在の大きさは、それほどのもの。

「どうするんです?」

「うん……。大学にいくのはいいとして、どうしようかしら……。さすがに本腰入れないといけないんだけど」

 まあ具体的な目標などない、というのが彼女であり僕でもある。

「本気だそう、って言ってもなかなか難しいのはお互い同じですよね」

「そう、その通りよ」

 窓からの風によって、彼女が開いたまま机に置いた本のページがぺらりとめくれる。

うむ、と不敵にうなずき、こちらの目をしっかりと見つめて彼女はおもむろに一つの頼みを口にする。その一瞬、彼女の周囲の淀んだ空気がきりりと変調する。前から頭にあった事なのか、その口調にはたしかに決意が込められていた。

「だから、コーハイ。私は仮初でもいいから昔みたいに学問に熱をあげないといけないの。たぶん、この状態を抜け出すのは一人じゃ無理。……手伝って、くれる?」

 それは、この倦怠の泥濘を脱出しひたと前を見据えるための言葉。僕には理由は分からないが、二人ならできると。しかし、それはこの居心地のよい関係を壊して、上を向くためだけにあがくということ。とはいえ、答えなんて決まっているのだ。自分でもその必要は知っているし、完全に腐りきる前にこういう提案が出たことに安堵している。二人とも少なくとも高校生活の終わりに一度は、自分さえだませるような優等生の演技をしなければならないのだから。

「もちろん。センパイがしょぼい大学なんて嫌ですからね」

 あえて軽く承諾を返す。そう簡単にいくとは思えないし、二人ならできるだろう根拠もわからないけれど。彼女が努力なんて似合わないことをするなら、いくらでも付き合おう。でもそのことを躊躇しないほどに、自分にとって彼女は特別なのだから。

「そう……。ありがとう」

 彼女は何かが吹っ切れたようにしゃんと立ち上がる。長い黒髪が宙に跳ねる。

「こっちだって、頼れるのはセンパイしかいないんですからね」

 僕の前まで歩み寄ると、彼女はこちらの手を取り、優雅に笑う。

「それじゃあ、よろしくね」

 めったに見ることのない、彼女の笑顔。やっぱり彼女にはかなわない。

 窓の外から響く生徒たちが生み出す音が、いつもより近くに感じた。


 結論から言うと、その日以降彼女の卒業まで二人揃って、やらなくてもできるやつが、もしやったらどうなるかをまわりに示す結果となった。


「本当に、あっという間でしたね……」

「ええ……」

 彼女のためなら、という理由がこれほど強いものだと、あの始まりの日は少しも気づかなかった。自分の本気、彼女の本気。どこまでも上へといけるような気がした、数ヶ月とまた少しの期間。もしも、彼女の本気の理由も僕が望むものであったなら……。

「なにはともあれ卒業おめでとうございます」

「ええ。この部屋ともお別れ、か……」

 彼女は晴れ着姿で、埃が舞う古びた部屋を見回す。卒業生の感傷、というのは実際なってみないと分からないが、彼女や僕のような人間にも感じられるものなのだろう。

 似たもの同士お互いがお互いを、自分を映す鏡として求め、一緒にいたころとはなぜ求めるのかが違う。ただの同じ穴の狢であること以上に、彼女は自分にとって特別であったが、さらにその感情は強く積みあがっていった。今はもう、そのキモチに形を与えることができる。

「センパイ、僕は……」

 そう、この人なら。この人こそが。

 その先に続く決定的な一言を、彼女は口に手をやって止め、さえぎるように早口に話し出す。

「ねえコーハイ、もういってもいいわよね?私とあなたは同類、そう知ってたから、近づいていったの。でも違った。同類っていってもあなたも私も一人の個人なんだから。ただでさえ距離は零なのに」

彼女は、一度息を切り、続ける。なんだ、彼女もまた、そう。相手が自分の鏡映しであるゆえにその距離はとても近い。後は相手を見る視点を少し変えるだけでよかったのだ。

「自分の中に乙女な部分があったことに驚いたわ。だからあらためて言う。私は、あなたが、好き、です」

 気づくと彼女の整った顔が予想以上に近くにある。人生の大きなイベントで着飾った彼女は本当に綺麗で、体が金縛りにとらわれたかのように動けなくなる。しなやかな指が顔の輪郭に添えられ、そのまま顔と顔の距離が縮まっていく。

唇と唇の、ささやかなふれあい。数秒でその感覚は消え、後には赤い顔の生徒が二人。

「これで、いつでもデートで会えるわね。でも、できれば……私のいるところまで追いかけてきてほしいかな」

「ええ、もちろん」頭のどこかがふわふわとした状態のまま、しかし自信をこめて答える。

 彼女は滅多に見せないまぶしく輝く笑顔で、澄んだ空を見上げた。



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