「やっぱり若い子がいいのねっ……」
ここからサラにとっての異世界が始まります
なんだか随分昔の夢を見た気がする。
私は大きなベッドの上で、ゆっくり目を開けた。
箱に布のカーテンがかけられたような天井――これって天蓋っていうんだっけ。
私はしばらくそれを物珍しくて見つめていた。
けれどしばらくして、周囲が随分と明るくて赤いのに気付く。
夕焼けかな?
私はぼんやりしながら体を起こし、周囲を見回す。
どこだっけ、ここ。
周囲の風景を、私は目をパシパシ開閉しながら観察する。
私から見て右手に見える扉は、両開きで取っ手は凝った金細工のように見える。
その対面の壁には2メートルちょっとの高さはあるガラスの窓があった。
そこからは、赤い光が入ってきていて、部屋の内装が照らされていた。
部屋の広さは私の高校にある武道館の中ぐらいかな? 柔道の畳敷きと剣道の板床がある結構な広さなんだけど、それより狭いとは思えない。
とても綺麗な赤を基調にした絨毯が、余裕をもった大きさで床に敷かれている。
凝った意匠の棚が壁際に二つあり、一つにはいろんな色のグラスが入っていた。
タペストリーが吊るされていて、大樹が太陽に照らされて様々な動植物がその下で敵味方なく寛いでいるようなデザイン。
部屋の真ん中には、6人ほどが話し合えるようなテーブルで、脚の形が蔦のようになっている。
テーブルはあるけれど、私が今いるのはベッドの上なので、一応ここは寝室なのだとわかる。
ゆっくりと見回してみたけれど、私のほかに人影はなかった。
にしても私、いつの間に寝たんだっけ。
働かない頭を刺激するように、赤い光がまぶしい。
ふらふらとベッドから降りると窓へ向かい、閉めるためにカーテンに手をかけた。
「っ」
私は一瞬、目がくらんだのかと思って、目を瞑って顔を伏せる。
カーテンを掴んだままの手に力を込めながら、ゆっくりと息を吸って吐いた。
まぶたの裏でちらちらと黒い影が明滅するのをしばらく見てから、また目を開ける。
窓の外はバルコニーになっていて、マンションで言えば七階か八階ぐらいの高さはあると思うそこからの景色は、見たことのない街並みだった。
屋根がある家は少なく、四角くて屋上がある白い建物が、この建物を囲むように何重もの円を描きながら、かなり遠くまで広がっている。
地平線まではないけれど、町の端まで走っていくことを躊躇するぐらいには広い。
見える範囲にある高い建物は、町の端にある真っ白な塔だけだった。
私はおそるおそる顔をあげる。
そしてさきほど見たのは、見間違いでもなんでもなかったことを理解した。
窓の外の景色で、一番異様なものがそこにあった。
私は窓を開けようと、窓枠を押してみると、少し揺れたけれど開きそうにない。
よくよく窓の枠を見ると、金属の板を掛け金にかけるような単純な鍵がかかっていたので、開けてから再度窓枠を押す。
窓は静かに開いた。
長縄ができそうなぐらい広いバルコニーを横切り、私は手擦りに到達するまで、まぶしい夕日を手で遮りながら、ずっとそれを視界にとらえていた。
地平線に今にも落ちそうな太陽。
何度も見たそれにとてつもない違和感を覚える。夕焼けなんて珍しいものじゃない。
太陽が二つなければ。
ここって……地球じゃない?
そう思ったとき、眠る前までのことを私はようやく思い出した。
「すみませんでした」
応接間で私は頭を深々と下げた。
結構長い間、私は皆の前で泣き続けた。
一回泣いてしまうと止まらなかった。何度もしゃくりあげながら涙があふれた。
私はチョロちゃんが死んでしまったことを認められなくて、それでも認めなくてはいけないのだと葛藤していた。
認めて涙を流すことがどうしてもできなくて、それでも家に帰ればチョロちゃんはいなくて。
そんな時にここへやってきてしまった。
ここは全てを夢だと思うに都合が良すぎた。
初めて見る部屋、来たことがない地下、トカゲの姿をした人、チョロちゃんを誰もしらない状況。
ただ、私は夢だと思っていれば良かった。
そうすればチョロちゃんの死を認めずにいれたから。
でもそれは――――ただの逃げだったのだ。
それに気づけた今、猛烈に自分が恥ずかしい。
誰にも合わせる顔がないのだけれど、顔をあげると変わらず私を見つめているエンセルさんの目があった。
涙が落ち着いてきたころ、私はようやく気付いた。
部屋には私とエンセルさん。それから居心地悪そうにしているリーゼしかいなかった。
「もう大丈夫かのぅ?」
「はい、すっきりしました。ご迷惑をおかけしてすみません」
鏡がこの部屋にはないのでわからないけど、たぶん目は真っ赤。
鼻の下も鼻をかみ過ぎてなんだかひりひりしている。
泣くのは体力がいるというけど、全身だるい。
それでもとても頭の底が、はっきりしたような気がした。
「そこまで思ってもらえたなら、チョロちゃんという者も、嬉しかったじゃろうなぁ」
「……もしかして、まだ泣かせようとしてます?」
「泣き足りないのであれば、お付き合いしますぞ?」
ポンポンと私の背中を軽くエンセルさんは叩いた。シュルシュル舌を鳴らしながら。
なんだかお母さんみたい。
私は思わず微笑んだ。
私のお母さんも、私が泣くと背中を叩いてくれた。
「もう今は、これ以上泣けないです」
私の返答にエンセルさんは「ほっほっほっほ」と笑った。
正直、かなり喉が渇いた。たぶん体の中の水分が、大量に出て行ったせいだとは思う。
「すこし、元気がもどられたようじゃな」
エンセルさんにそういわれ、私は恥ずかしかったけれどうなずく。
ここまで泣いたのはいつぶりだろう。
そう思いながら、私は深呼吸する。
渇いた喉に空気が沁みて咳き込みそうになった。
けれどエンセルさんに、どうしても聞いておかなくちゃいけないことがある。
「あの、お聞きしたいことがあるんです」
「なんじゃな?」
私は声がかすれないように、何度も唾を飲み込んでから言った。
「どうやったら、私は家に帰れますか?」
この世界が異世界だというのは、納得はできなくても理解はできた。
これまで見てきたものが、特撮の現場でない限り、私の世界ではありえない。
まっすぐエンセルさんを見つめて、答えを待っていた。
「申し訳ない」
なのに返ってきたのは答えではなかった。
「すぐに、というわけにはいかんのですじゃ」
「え、でも……あんまり遅くなるとお母さんが心配するし」
携帯も持っていないので、今が何時かわからなかったけれど、結構長い間泣き続けていた気がする。
連絡もいれられないのでは、きっと心配させてしまう。
けれどエンセルさんは申し訳なさげに肩を落とした。
「今日、明日にもと言いたいところですが、そういうわけにも参りませんのじゃ。
しばらくサラ様には、こちらで生活していただくことになりますのぅ」
「っ、困りますっ!」
「勝手を言っているのは十分承知。けれど無理なものは無理なのですじゃ」
それからエンセルさんは私を元の世界に返す方法はあるとは言ってくれた。
けれどその方法を準備するのに時間がかかり、とても今日中には無理なのだと言う。
「そんな……どうしても無理なんですか?」
「こればかりは―――申し訳ない」
そう言って謝るエンセルさんの後ろから、リーゼも口を出した。
「できる限りご不自由のないように取り計らいます。どうか御聞き分けください」
私がリーゼを見上げると、彼も肩が下がっている。
表情がわからないけれど、申し訳なさそうにしているのは伝わってきた。
私は不満の言葉を飲み込む。
不満を言うよりも、聞くべきことを言わなきゃいけない。
「じゃあどれくらいで。どれくらいで帰れるようになりますか?」
私の次の質問にも答えはなかった。
「わしではお答えできませんのじゃ。
陛下を交えた状態ならお答えできたのじゃが、わしの独断では」
どうも私は間違えてここに呼ばれたらしいことは、エンセルさんたちの会話で理解できていた。
それも国レベルの大切な誰かと。
だからこそこの国の王様であるクラウスさんが、その場にはいたのだ。
政治的判断、というのが必要なのかな。
私はそんなことを思いつつ、部屋にいないクラウスさんたちがどうしたのかを聞いた。
「陛下やクリスには公務が山積みでしてのぅ。
夕食時には、また顔を合わせることもできるじゃろうから、その時にお話しできるとは思うのですがな」
さっきはこれからのことを話し合う場だったのだ。
なのにそれを大泣きして潰してしまったのは、間違いなく私だった。
私が話をできるような状態ではなくなってしまったせいでクラウスさんたちの時間がなくなり、一旦私はエンセルさんに預けられた形になったらしい。
私の帰宅という問題より、王様のお仕事の方が大事なのは、理解したくないけど理解できてしまった。
エンセルさんとリーゼに何度も謝罪されながらも、私は結局核心の部分は答えてもらえなかった。
不満はあっても今は、どうしようもない。
頭が重くてふらつく私は、廊下に出ていたアルが引きずる様に連れていこうとするのに黙って従った。
ひとまず用意してあるという客室へと案内されたのだ。
ベッドに入ると何も考える暇もなく、意識がなくなった。
大泣きしたし、いろんな話を聞いた後だから、思ったよりも疲れていたんだと思う。
それにしても……建物の形はずいぶん日本とは違うんだなぁ。
私はそんなことを思いながら、バルコニーの手すりにつかまったまま周囲を見回していた。
眠る前はしっかりと部屋の様子を観察する余裕もないほど疲れていたけれど、広くて家具が豪華なこと以外は、別段変わったものはなかった。
これまでこの建物内で通された部屋も、床が光っていたり中庭が南国っぽいこと以外は、廊下もあり個室もありトイレもあり、と特に違和感も持たなかった。
けれどバルコニーから今いる建物を見上げると、このバルコニーに屋根はなく、ここから見える建物の縁を見る限りでは、最上階は屋上なのだろう。
全体を見渡すことはできないけれど、大きな四角い建物みたいだ。
おそらくはここから遠目にたくさん見える四角い建物を大きくしたような形に違いない。
壁はもちろん白く、大理石のようにツルツルしていて、夕日が反射し鈍く光っていた。
視線を建物から離し、もっと遠くを見てみる。
この辺りは広く平野が広がっているようで、目立った起伏は見当たらなかった。
町の外は、大きな木はないけれど荒地というわけではない。
草原が広がっていて、木々が密集した小さな森がいくつか見える。
町からあまり離れていない場所に、結構な幅の広い川が流れているのも見つけた。
ゆっくり観察している間に、バルコニーから見える風景にだいぶ慣れてきて、私は手すりを掴んだまま視線を下に落とす。
高い建物がほとんどないので、町の中の様子がよく見える。
遠くを見るだけでは見えなかったものが、眼下には広がっていた。
四角い建物の間に貼られた紐に、洗濯物がたなびいていて、それを取り込んでいるルザリドがいる。
夕焼けの中、大きな荷物を持って歩いているルザリド。
お店の呼び込みをしているルザリド。
あ、馬だ。
立派な馬に乗った二人のルザリドを見て、私はなんとなくおかしく感じた。
彼らは警官のようなものだろうか。街中をゆっくりと進む。
たまに誰かから話しかけられて馬を下りては話をして、また馬に乗っては進み、と繰り返していた。
暮らしているのが人間か、ルザリドかの違いはあっても、それは誰しもが、それぞれの生活を営んでいる風景だった。
この世界も私の世界と何も変わらないんだなぁ。
私は改めてそう思い、クラウスさんの言葉が正しかったことを思い知る。
だけど思い知ったことで生まれた感情は悲しい、じゃない。
ほっとした、というほうが正しかった。
この世界からすぐには帰れない。
そう知って、まず初めに困惑し、そして次に寂しさを感じた。
トカゲだらけのこの国には、この世界の人間であるヒューモスはほとんどいないと言う。
立っていた場所が細い糸の上だったと知らされたような心細さがあった。
けれど目の前の風景は、私が知っている雰囲気とまったく異質のものだとは思えない。
一日の終わりを告げる夕日に照らされた、柔らかなこの雰囲気。
家も学校も店も、肌に馴染んだものが何一つなくても、皆が平等に一日を終えようとしている優しい空気。
そのことが私に不思議な安定感を与えていた。
あとで、クラウスさんに謝ろう。
私はそう思った。
こんな国を夢だと言われたなら、王様であるクラウスさんは怒って当然だと思う。
そんなことを考えながら、ぼんやりその二人のルザリドの姿を目で追っていると、
「……っ!」
私は落ちんばかりの勢いで、バルコニーの手すりから身を乗り出した。
馬の前に何かが飛び出したらしい。
馬上から降りたルザリドは、目の前に現れたそれに何か叫んでいる。
あ、あれって……っ
私はドクドクと心臓が高鳴っているのを感じた。
馬の影からでてきた小柄なルザリド。
遠めなのが惜しまれるが、あれはもしかしなくても……
「幼生っ? うわぁ、カ・ワ・イ・イ~~!!!」
周囲と比べ、明らかに子供サイズだった。
体全体に対して尾っぽが長めに見える。
抱きしめられるものなら、抱きしめてしまいたい。
私は思わず絶叫し、両手を伸ばした。
すると不思議なことに、とても遠距離にいるにも関わらず、その小さなルザリドと馬の傍にいたルザリドが、驚いたようにこちらを見た。
「へっ……ってうわっ」
「黙れ」
視界がくるりと回ると同時に、アルの低い声がした。
私は手すりから引きはがされ、お腹をアルの肩に乗せて、俵のように担がれているのがしばらくしてわかった。
「っていうか、高い高い! 怖いから下ろしてっ」
アルは背が高い。
お父さんに同じことをやられても、ここまで怖くはないと思う。
私は存分に暴れたのに、アルは物ともせず早足で手すりから離れる。
そのままの体勢でバルコニーの扉をくぐった。
あぁ……子供のルザリドがぁ~。
部屋の中に入っても、私は名残惜しげに窓の外へ手を伸ばしていると、また視界が回った。
今度は悲鳴を上げる暇もなく、地面に下ろされ、私はへたり込んだ。
「何するのよっ」
「こちらのセリフだ。少しは振る舞いに気をつけろ」
口を大きく開け、威嚇するようにアルがこちらを睨む。
「眠っているのならずっと眠っていろ。むしろ起きるな」
「何それっ。私は断固として起きる権利を主張するっ。
起きて反省しないといけないことがたくさんあったんだから」
へたり込んだまま、拳を振り上げ私は反論した。
この世界を夢だと思い込んでいた自分が馬鹿だったのだと、本当の意味で理解できたのが、バルコニーからの風景だった。
あの私の決意を禁じる権利なんか、アルにはないに決まっている。
私はアルにも「ごめんなさい」と言ってから、振り上げた拳をぐるぐると回しながらもう一度主張を繰り返す。
「だから私は起きて、反省して、鱗を愛でるっ」
「最後はかなり余計だっ」
そこへカチャリと控えめな音とともに、一人ルザリドが部屋に入ってきた。
「サラ様。お目覚めになられたのですね」
灰色の鱗をもつルザリドだった。
その鱗には美しい光沢があり、光の加減によっては輝いても見えた。
薄く目の粗い網目のような模様が頭部から服で隠れる背中まで見える。
服はゆったりとしたシャツとパンツに、ベストの丈がとても長いようなものを上に来ていた。
私は眠る前の記憶をなんとか引きずり出す。
「えっと……トゥーキアさん?」
「どうかトア、と。お着替えをお持ちしますね」
座り込んだまま、確かそう自己紹介されたような気がする名前を私は呼びかけてみる。
するとそう言って灰色のルザリド――トアは出てきた扉に戻っていった。
ベッドの隣にある扉で、控えの間に通じてるらしい。
アルは無言だったけど、何かに気づいたようなそぶりを見せてから、廊下への扉に向かって早足で近づいて行った。
どうしたんだろう?
そのまま廊下に出ていく後ろ姿を見送っていると、また戻って来たトアに布地を手渡されたので広げてみる。
それはとても良い香りがした。
丈は前が七分ぐらいなんだけど、後ろは踝ぐらいまである半袖ワンピ。
衿元は丸首で、喉下に小さなスリットが入っているシンプルなものだった。
それから私は着ている制服を確認する。
スカートやシャツに一部に皺がついていた。
眠るとき気にはなったけれど、寝るときはこれ以外服を持っていなかったので仕方がない。
「これ、借りていいの?」
「はい。どうぞお使いください。
急ぎで手配したものですから、お好みにあえば良いのですが」
「ありがとう。とっても良い感じ」
私がワンピースを抱きしめて答えると、トアが舌をだした。シュルシュルという音にエンセルさんを思い出す。
これってもしかしてルザリドの笑いの表情なのかな?
私はトアの顔をまじまじと見た。
ルザリドは顔の形がもちろん人間と違っている。
広い額に横についた両目。
大きく開くことのできる口が開けば、中からは先が二つに分かれた舌が覗く。
やってみて欲しいんだけど、笑顔が想像できるかな?
私はできない。
人間的な笑顔の表情の特徴である口角が上がるとか、目じりが下がるとか、全然その顔付きで表現できるとは思えない。
実際、エンセルさんが笑い声をあげているときも、表情は読めなかった。
でもなんとなくなんだけど、微笑むときにルザリドの人って舌を出したり、鳴らしたりしてる気がするんだよね。
「サラ様?」
小首をかしげるトアに聞いてみると、やっぱり笑いたいときは勝手に舌がでるとのこと。
むしろトアに言わせると、人間が笑う表情(これは私がやって見せた)はルザリドが怒っているときの表情に近いらしい。
そう言われれば、アルの尾っぽを触った時に、アルが威嚇するように口を開いていた。
あれが口角が上がっていると言われれば、そう見えるかもしれない。
異文化って奥が深いんだなぁ。
私は思わずそんなことを思ったのだった。
新ルザリドのトア。
彼女について詳しい描写は次回に。