67 素足の季節
67 素足の季節
夕方といえる時間帯になっても、夏の陽射しはまだまだ明るい。それでも、走る車内、窓際に座る河本秀人は、外の流れていく景色の中、西に傾いていく太陽の光を浴びて、朱色に染まる雲群に、夏の夕暮れを見つける。
高橋みゆきの父親が運転するワンボックス型の車に乗っている。
「やった、楽しみッ」
隣に座るみゆきが前のシートのご両親に向かって、身を乗り出して喜びを表せば、その際に河本はみゆきの背越しに竹清慶治の穏やかな表情を一目みては、自分も安らぐものを感じて、また雲に視線をやったりした。
本日行われたピアノコンクールで金賞を獲ったみゆきは、竹清に随伴した河本のことも、夕飯に誘ってくれた。
有難いことではあるが、失礼のないようにだけを心掛ける河本は乗った車の中、緊張していた。が、結果を出した娘とその父と母が乗る車の中は、幸せが満ち足りていて、暖かいものであった。話すみゆきの父をみて、卒業の時期や入学式の学校の行事に参加しては時に、生徒の前に立ち、挨拶をしたこともある人だと記憶が浮かんでは、そうだ、みゆきさんのお父様は真倫高校の現在の保護者会の代表だったと、思い返した。するとさっき会場で「初めまして」と挨拶したのは思慮が足りなかったのではないか、と胸の中に沸くものもあったが、面と向かって顔を合わせたのは初めてなのだから、間違いではないはずと、考えをめぐらせては自分を納得させたりもした。
そんな不必要な配慮をする河本をよそに、車内では夏休みの高橋家の家族旅行の話がされ、金賞を獲ったということも強力な後押しとなり、海外旅行という約束を父親が果たすという会話が行われていたのである。その決定に、みゆきはさきほど喜びの声を挙げたのだ。
その声はいささか、芝居がかっている印象を受けないでもないが、さすがに、自分という普段は居ない人間がいるのだから、多少、両親を前にした娘という部分を強調してくれているのだろうとも受け取っては、ならばこの場合の自分の役割を、と探しもするが、竹清の表情をみてはただ安心し、余計なことなどせず、ただ、夕方の夏空に目をやったのである。
「良かったな、みゆき」
「フフ」
そんな両親にも認められているカップルの話を隣で聞けば、この車内は幸せでいっぱいだと思えば良いだけの河本なのである。
走る車が信号を曲がれば、片側一車線となり、そろそろ、みゆきさんの自宅が近いのではと予感させた。
大きな門を備えた邸宅、といった建物の前で、竹清とみゆきと共に河本は車から降りることを促された。門の脇にあるガレージのシャッターが閉まったままなのは、このままご両親は夕飯の買い物に行くからだ。立派な屋根のある門や、黒色に光沢を帯びたゲートから漂う高級感に、みゆきさん、すごい家住んでるな、と思わされる河本であったが、
「ついでにさっき着てたワンピースもクリニーングに出してくるから」
「うん、お願い。あとお肉ね、お肉。期待してる」
「はいはい」
助手席に座る母親とみゆきの会話を、竹清と同じように傾聴することに河本は集中する。
母娘の会話が収まった様子に、運転席の父親がクラクションを一度鳴らし、車を発進させる。竹清が会釈をするから、河本は同じようにするのであった。
「さ、お邪魔しようか、秀人」
車が見えなくなっても、お辞儀したままの河本の肩を抱くようにして、竹清が声をかけてくれるから、気持ちがほぐれもした。
「はい」
そう返事をして、みゆきと竹清の後に続いて門をくぐった。玄関までのスロープからは植栽の手入れの行き届いた広い庭の緑が飛び込んできては、河本の目を楽しませた。
玄関前でその見事な景観に一度足を止めれば、みゆきさんはお嬢様と、生徒会内で何度か聞いていたことを思い返しもし、確かにと実感もした。
「さ」
そういって、もう一度、優しく竹清が肩を抱いてくれるから、周りからは遠慮しているようにしか見えない河本も玄関内へと歩を進める。
「失礼します」
「そんな堅苦しくなくていいよ」
そう、玄関内で待っていたみゆきに言われても、広すぎる玄関内にも驚きもする。
「あ、あの書、すごいですね」
目に飛び込んできた、壁に飾ってある書について河本は感想を述べた。
「あ、うちのお婆ちゃんが、書道の先生をしてて、これは特別な賞を頂いた記念のなんだ」
「そうなんですか。おばあ様が書かれたもの。……お見事ですね」
なんと書かれたものなのかは達筆が過ぎていて読み取れなかったが、額縁に入って飾ってある、その書の力強さを受けて、河本の背筋は自然と伸び、姿勢を正してしまう。
「みゆきも、そのおばあちゃんから書道を習ってきたから、とっても上手なんだよな。たまにおばあちゃんが用事あるときなんかは、小学生たちを見てあげたりもしてたよな」
竹清が補足する。
「うん」
彼氏である竹清が自分のことを把握しているから、説明できるその状況が嬉しいのか、みゆきは嬉しそうな笑みを浮かべている。
「あの、このお花は」
勢いに任せて、玄関のテーブルに置かれている意味を持って飾り付けられた花についても聞いてみる河本であった。
「あ、それは、ママがそういうの好きで、教室に通って習ってきて。それで飾ってあるの」
「そうなんですか。良いご趣味ですね。こういうお花があると、華やかな気持ちになっていいですよね」
「ホント? 帰ってきたら言ってあげて。喜ぶから」
「はい。あ、もしかしてあの絵はお父様が描かれた?」
河本はそのまま、玄関から廊下の先の正面の壁に飾ってる抽象的な絵画が目に入ったので質問する。
「え? あの絵? うん、そう。あ、違う、パパは描いてない。パパが自分で描いたんじゃなくて、あの絵を気に入って譲ってもらったの。海外の有名な画家の作品とか言ってた」
「ああ、なるほど、お父様がお気に召されたのですね」
お婆様が書道の先生で、お花はお母様が教室で習っていて、あの絵は海外のプロの画家の方の作品で、お父様がご購入された。河本は今聞いた話を一旦整理すれば、このご家族は相当に誉れが高いのだと理解をする。
「ひでと、みたものすべてに反応してたら時間がいくらあっても足りないぞ」
また竹清は河本の肩を抱いた。
「もしあれなら、泊まって行ってよ、河本君も」
「そうだ、ひでと、ゲームしよ、ゲーム」
「え、ゲーム? ゲームとかやるんですか」
「うん、やるよ。やろ。人数多いほうが面白いよ」
みゆきは言いながらスリッパを出してくれる。
それに応じて河本は靴を脱ぎ、スリッパを履けば、さらにみゆきは靴棚を開けて、そこに収納することを教えてくれる、
「ありがとうございます」
「うん。ようこそ、我が家へ。いこ」
「はい」
みゆきと竹清が廊下を歩き出せば、河本もその後ろから着いて行く。壁に飾ってある、先ほど話した絵が目の前に近づけば、足を止めて眺めたくもなる。
「さ、いくよ」
そういってみゆきが振り返れば、竹清の動作をマネて河本の肩を抱いた。
「あ、すいません」
なんとなく気恥ずかしいような気になり、河本は照れ笑いを浮かべてしまう。
左右のいくつかのドアを通り過ぎ、突き当たりの階段を二階へあがるのかと思った所で、竹清が知った感じで部屋のドアを開けて中へと入っていき、続いて河本がみゆきから肩を抱かれた流れで押されるように、中に入った。
その部屋にはピアノがあった。正面の大きな窓ガラスからは、まだ明るい西日の陽光が入り込んできている。
「暑いね」
みゆきが空調のリモコン操作をしては、歩いてサッとカーテンを閉めた。
「ここでみゆきさんはいつもピアノを弾いてるんですね」
「うん」
そばにいる竹清が返答してくれる。普段は二人だけで過す世界にこうしてお邪魔をしてしまい、有難いような申し訳ないようなそんな気持ちが、ないまぜになった。
壁には、賞状がいくつか並べて飾ってあり、置かれたガラス扉のキャビネットにはトロフィーやクリスタルの盾が飾ってあった。空調の涼風を首元に受け、もう少し、その場に留まりたい気持ちを抑えて、近くまで行き、その一つを読み取って確認すると、「ジュニアコンクール金賞」との表示がされてあった。キャビネット内には小学生の頃のコンクールでピアノを弾くみゆきの姿や、またご家族で撮った写真も飾ってあった。
おそらく観客席からお父様が撮ったのであろう、その写真の中のみゆきは、今日のコンクールでの演奏中と同じように、凛々しく毅然と写っていた。
「みゆきさん、ですね」
振り向いて、また竹清に確認を取る。
「そうだよ」
竹清が頷く前に、みゆきが答えながら、河本のとなりに来る。
「今のみゆきさんの面影、ありますね」
「そう?」
今のみゆきは目元も頬も唇も、コンクール仕様の濃い化粧をしている。髪は巻かれ大人びた雰囲気を装っている。堂々と、河本が何を言うのか待ち構えている様子だ。
「今日のみゆきさんの様に素敵でいらっしゃいます」
目の前で見据えられていれば、さすがに目を伏せながらの発言になる。
「フフ、ありがとう。なんか久しぶりに褒められた気がする」
語末は二人を見守るようにみていた竹清の方を向いてのものとなる。
「オレがいつも言ってるじゃないか」
「とりあえず言っとけ、って感じるんだよなぁ」
みゆきが視線を戻せば、河本はまたキャビネット内を見ている。
「……みゆきさんって一人っ子ですか?」
二人の雲行きが怪しくなる前に、河本は写真をみて思ったことを口にした。
「うん、そうだよ。一人っ子。河本君は?」
「あ、ボクもです。ボクも一人っ子なんです」
少し弾けるようなリズムに乗って言葉にした。
「そうなんだ。一緒だね」
みゆきが手を挙げるので、察知した河本も手を挙げれば、「いえい」とハイタッチを交わした。みゆきの動作に、高校生ならこんなことするよね、といった感じが漂った。
「けいじはお姉さんがいるんだよね」
「そうなんですか」
二人が揃って竹清の方を見る。
「そうだけど、姉は今、海外に行ってて家にいないから、オレも一人っ子みたいなもんだよ」
「そのこじつけ無理ある」
とみゆきが口ではいいつつも、手をあげては同じように竹清ともハイタッチをするから、河本も後に続いて竹清と手を合わせた。
「ひでと、みゆきのピアノ聴きたい? 聴きたいよな?」
竹清はその場にあるグランドピアノの棒が突き上げる屋根の部分にそっと手を触れるか触れないかというような仕草をした。
「はい。もしよろしければ……ぜひ」
「うん、わかった」
今日、大変な緊張の中で本番をこなしてきた疲れもあるのだろうが、みゆきは二人の申し出に快く返事をしては、慣れた様子でピアノ椅子に腰掛ける。河本は物腰に感謝をしながら、ピアノを弾く準備をするみゆきを眺めていた。
竹清は、そんな、ぼっ立ちに固まった河本の両方の肩に、そっと手を置いて、「ソファーに座ろう」と、声を掛ける。
「曲はなんでもいい?」
鍵盤蓋を開け、スリッパを脱いで足でペダルを踏んだりしながらみゆきが問う。
「うん、今の雰囲気に合う曲をお願い」
竹清が答えれば、みゆきはソファーに座る二人ににっこりと頷いてから、ピアノを前にし、一度姿勢を正した。そのみゆきの姿に先ほどのコンクールを思い出して、なぜか河本が緊張をしてしまう。一弾指の後、みゆきは、息を大きく吸い、そして吐いた。と同時に鍵盤にそっと指が触れればピロリロと音が鳴った。
クラシックの知っている曲だ、と河本が思えば、そこからはみゆきの奏でるピアノで抒情な世界へと包まれていく。
隣に座る竹清は静かに目を閉じて聴いているが、初めて来た部屋でそこまで落ち着けない河本は、ピアノを演奏するみゆきをただ、凝視してしまう。
白のゆったりとした上着は脇が甘く、時々、同色に近いキャミソールが覗いている。ウエストラインに沿って絞られている為、横からもあってか、余計にスリムさが強調された印象を受ける。フィットした黒のショートパンツからは剥き出しの長いおみ足がペダルを踏み込んだりしている。
河本は、常にみゆきを、「竹清会長の恋人」というレンズを通して見ている。無防備気味に肌見せされていようとも、やましい、もしくは、やらしいなどといった気持ちが喚起することはなく、努めて冷静に眺めているだけだった。無理に我慢をして、沸きあがる情欲を押しとどめている訳でもなく、ごく自然に、そうしているのである。
今日、金賞を獲ったこともあいまってか、やけに深い情緒を漂わせたみゆきが一曲を弾き終えれば、河本はおおげさなくらい拍手をした。
「素敵です。今、この場に自分が居ることに感動しています」
「フフ。よし、気分良いから、もう一曲弾いちゃう」
再び、みゆきはピアノを奏で始める。
河本は横の竹清の表情を確認すると、笑って頷いてくれるので、自分のリアクションは間違っているわけではないのだな、と安心するのである。
それから何曲かみゆきはピアノを弾いた。みゆきがその手を止めたのは、出かけていたお婆ちゃんが帰ってきて、この三人のいる部屋をノックした時であった。ドアを開け現れたみゆきのお婆ちゃんは犬を抱いていた。
竹清がまず立ち上がって普段の挨拶をした後に、河本が初めましての挨拶をした。金賞を獲ったことは、みゆきか家族の誰かが送ったメッセージですでに知っていたらしく、「おめでとう。あとでお父さんの撮ったビデオで見せて貰うよ」と孫の金賞獲得に喜びを表していた。今日も書道教室があった為にコンクールを見に行くことはできず、一度、家に帰ってきた後は、飼い犬をトリミングに連れて行ったのだという。お婆ちゃんとみゆき、そして、竹清の三人の会話からそういうことが理解できた。細身でピンと姿勢良く立たれたお婆ちゃんは若々しい印象で、さすが書道の先生されている方だな、と内心思っていた。全身茶色の賢そうな犬に目を合わせるとキャンと一度吼えられた。
「あら、みゆき、お客様にお茶もお出ししてないの?」
「あ、違うの、帰ってきて、ちょっと弾いてただけのなの」
「外出して、帰ってきて、喉も渇いたでしょ」
「だから、もう少ししたら二階に行こうと思ってたの」
「そうやって。私が用意してくるよ」
と、お婆ちゃんが犬を置いて、部屋を後にすれば、もう少し言い訳をしたいのか「私がやるから」と、みゆきも続いて出て行った。
竹清は、足元までやってきた犬の頭を撫でてあげた。
「お、ケン、散髪してきたのかぁ、カッコよくなったな」
「ケンっていう名前なんですね」
河本も犬の背中辺りに触ってみたくなったのだが、ギロリとその犬が牽制してくるので、おもわず手を引っ込めた。
「手の甲の匂いでも嗅がせると良いらしい。みゆきが言ってた」
「あ、はい」
竹清に言われるまま従い、手の甲を犬にみせれば、竹清の手から離れて、警戒しながらも、クンクンと匂いを嗅いできた。
「それが挨拶になるらしい」
「そうなんですか」
手の甲を嗅いだあとはそのまま、河本の腕やまたは足などをクンクンしてきた。そんな風にケンが隙を作ってくれたので、優しく頭を撫でてあげることができた。
「ひでと、色々気を使って、みゆきのご機嫌とってくれてありがとう」
「いえ、全然、そんな、大丈夫です。……ただ、あの、みゆきさんの家、すごく大きくて驚いてます」
されるがまま、ケンは無抵抗に河本に撫でさせてあげている。
「みゆきのおじいちゃんが一代で建設会社を築き上げて大きくしたらしい。で、みゆきのお父さんが二代目の現社長。となりにある建物が事務所。マンションとか建物も管理していると聞いてる」
立ち上がった竹清は、カーテンを一度開けて、今言った建物が河本の視界に入るようにした。
「お父様は社長であられるのですね」
ケンが河本の手を離れては、カーテンを再び締める竹清の足元に寄り添っていった。その動きを目で捉えながらも、コンクール会場、車内と、今日見たみゆきの父親の姿に、確かに社長という風格を放っていらしたと思い返すのであった。さらには、そんなご家族の寵愛を一身に受け、健やかに美しくお育ちになったみゆきお嬢様とお付き合いできるような竹清会長という人物に、改めて河本は感服するのである。
竹清が屈んでケンを撫でてあげていれば、そのケンの耳がピクリと反応する。みゆきの足音が聞こえたのである。ケンは元気にドアの方に向かって走っていくので、河本も立ち上がってドアを上げる。
「あ、ありがと」
麦茶やコップの乗ったお盆を持つみゆきが立っていた。ケンはそんなみゆきにまとわり着くようにはしゃいでいる。
その部屋で麦茶を飲みながら、三人はかわるがわるケンを愛でた。
程なくして、買い物からみゆきのご両親が帰宅し、みゆきの夕飯の調理の手伝いということで、また部屋を離れた。
「よそのご家庭で夕飯を頂く機会なんて、そうそうないことなのでドキドキしてます」
「楽しもう」
竹清がまた肩を揉んでくれるから、河本は安心しては、立ち上がってカーテンを少し開け、外を確認する。見上げれば、夕闇が広がる完全な夜空となっていた。
「だって、旅行以外にも、二学期の行事の準備で夏休みも生徒会活動あるし、他にも色々あるから、練習ばかりに時間割けないし、本選会場も今年は遠いし、色々重なって、今回は辞退するの」
間仕切りのない広いリビングダイニングは、照明は明るく開放的で、みゆき家のご家族と夕飯をご一緒するという緊張すら和らげてくれる。料理が並ぶ、格調高い装いの茶色のテーブルは八人掛けで、会話できる距離にはソファーも並べてあり、お父様のご友人や親戚の方が良くいらしてるのでは、と想像させた。今日の自分のように、こんな風に人を受け入れる用意が、このご家庭では普通にされているんだと、河本はそんなことを思いながら、提供された魚料理や取り分けて頂いた火の通った野菜料理などを食していた。
皆で夕飯の食卓を囲めば、当然今日のコンクールが話題になり、その流れで話しを聞いていたお婆ちゃんが折角金賞を獲得したのに本選は辞退をするというのを知り、孫娘をたしなめた。それに対して、ややムキになってみゆきが言い訳をしたのだ。
「旅行、私は行きませんよ。大体いつ行くの? 盆前じゃないか? それじゃ書道教室だってあるし、大体、ケンの面倒だって誰かが見ないといけないでしょ」
お婆ちゃんも行こうと誘っても、頑として拒否をする。
あの玄関の書も相まって、手厳しい方でいらっしゃると河本はやや気配を消すように伏し目がちになって料理を口に運んでいた。
このリビングで席についてから河本はお招きいただいたお礼の挨拶と「いただきます」以外では「おいしいです」と「好き嫌いは特にありません」と聞かれたときに発したのみで、後は普段居ない人間なのだから、もう少し何か話してもいいのだろうが、家族の会話が普段のように繰り広げられている様子に、不甲斐無くも、ただ黙っていることしか出来なかった。向かいに座る竹清は「旅行を楽しみに、目標をもって毎日練習を頑張っていたもんな」と家族の前でみゆきをフォローしたり、「お盆前にお休みを取れるんですか?」と父親に質問を投げかけたりと自然と会話に入り込んでいるので、さすがな一面をまた見せられるのであった。
「そういえば河本君は……自分も見に行ったんだけど、三年生を送る会の劇の時に、舞台上でけいじ君の相手を堀君と一緒にやったよね?」
「あ、はい、やりました」
みゆきの父が記憶を搾り出したかのように話題を思いついてくれた様子に、申し訳ない気持ちで精一杯良い返事をした。
「けいじ君のキックに合わせてバック転やバック宙を連発して、盛り上げてたね。自分もみてて昔のヒーローモノの敵みたいな動きだなって思ったんだよ」
「パパ、河本君は洋介君と一緒のヒーロー側だよ。敵側がけいじ。ちなみに最後、けいじをやっつけるのに洋介君が投げたボールは主に私が作ったんだよ」
「うん。ちなみにあの宙返りとかは、何か習ってたの?」
父親は、娘の主張を軽い頷きで処理をして河本に質問を投げかけた。
「あ、はい。小学生の頃まで、体操教室に通ってました」
「ああ、教室。体操教室ね。なるほど。あの、ああいうのはいつでもすぐ出来るの?」
みゆきの父親は、社長という肩書きからなのだろうか、逆に年齢や立場など関係なく人と人で会話をしているという空気を醸し出してくる気がする。
「はい、出来ます。あ、今、やりますか」
そんなみゆきの父親からの期待に、喜んでもらえるのなら、いくらでもと、天井の高さを確認してはイケると判断をする河本である。同時に向かいに座る竹清を見れば目で頷いてくれるので、安心して椅子をひき立ち上がろうとする。
「ごめん、河本君待って。危ないからよして。ケガでもしたら大変だから。パパもけしかけるのやめてよ。河本君は大事な同じ生徒会のメンバーなんだから。河本君、お肉食べて、お肉」
と、みゆきはすき焼きのお肉をよそっては河本に差し出した。
「そうね、いきなりは危ないよね」
みゆきの母が娘の意見を聞き、冷静に同意する。父親は目の前で宙返りが見れるというちょっとした期待が叶わなった為か、残念そうにお酒を飲んだ。
「すいませんなんか。あ、お肉、ありがとうございます」
そこはみゆきに従い、お椀を受け取っては食べることを選択した河本であった。ふと隣の席のお婆ちゃんの視線を感じるので、様子を窺う。
「おこわはどう? 私が作ったんだよ」
「オコワ? あ、おこわもおいしいです」
鶏肉や山菜などの入ったおこわ飯のことだと気づいてすぐに返答した。が即答がお世辞っぽすぎたか、お婆ちゃんは鼻をふっと鳴らしただけであった。
食後のコーヒーをみゆきの父親が飲みだした頃、自分が録画した本日の娘のコンクールの演奏をテレビに流そうとなった。
映像のスタートは、まさかの浅村恵里奈からと意表をつくものであった。
「ほら、操作確認でみゆきの出番が近くなったから録画始めたんだよ」
父がその理由を話す。
「……このコも金賞獲ったよ」
娘のみゆきはテレビへの接続のために席を立って画面近くにいた。映し出され、テレビの中で始まった演奏にポツリと客観的事実を述べた。「上手だったね」と返した母がカメラの操作を行っていた。お婆ちゃんは、見ていない娘の演奏が始まるかと思っていたのだから、身を乗り出し気味であった。だから、浅村恵里奈が映し出されたことに竹清がピクリと反応したのは河本しか気づいていない。
家族が順番に入浴を始めた頃、河本は竹清と近くのコンビニに出かけた。河本は急遽泊まることになったのだから、用意していないハブラシや下着なんかを買うためだ。コンビニには種類が豊富に置いてある訳でもないから、黒無地のVネックのTシャツと同じく黒のボクサーパンツをチョイスして、携帯出来る用のケースに入ったハミガキセットを買い物カゴに入れればそれでもう買い物は終了だった。が、それでも雑誌コーナーで時間を潰すのは、竹清が外で電話をしているからである。
慣れない他所様の家庭という高橋家の雰囲気に飲み込まれて、気後れしていたような気分が、コンビニで雑誌をパラパラとめくって飛び込んでくる写真や文字を目で取り入れることによって多少普段の自分に戻されるような感覚を味わった。すると、余計に、外出したらすぐに用事を思い出したように電話なんかができる竹清さんをすごいな、とも思ってしまう河本なのでもあった。
「お待たせ」
電話を終えた竹清が笑顔で雑誌コーナーにいる河本の所へやってきた。
「竹清さん、何か買われますか?」
外で会長などと呼ぶわけにはいかない。
「んー、飲み物でも買おうかな。あ、これ、オレ載ってるんだ」
雑誌を棚から取っては河本にページを見せてくれる。「夏のデートコーデはこれで決まり」のキャッチコピーと一緒に竹清がみゆきと腕を組んでいた。載っているのは、見開きの2ページだけであったが一人だけで写っている写真もあった。
「おお、最高にカッコいいです」
その雑誌を震わせて食い入るように見た河本がそんな感想を言えば、竹清はフフ、と笑うしかない。
会計を済ませ、店を出る時にちょうど入ろうとした若い女性の二人組が、すれ違い様に竹清を申し合わせたように一瞥していった。すぐ後ろにいた河本は、竹清にご一緒させてもらう度、幾度と無く見てきたその光景に、自然の摂理を実感してはなぜか嬉しくなるのであった。
「有紗がさ、天文学部の薮田君とクラスメイトのおかげで連絡がついた。九日に星を見るお泊り会で決定だ。今週中に返事するって言っちゃったからさ、約束守れて良かったよ」
夜道を歩きだしてすぐに、さっきの電話について竹清が説明してくれた。
「はい」
先ほども言ったように、みゆき家に圧倒されていた河本は、そんな取り決めを忘れずに済ませていた竹清に驚きもした。
「さっきの夕食時の話だと、九日って、みゆきはちょうど海外旅行の日程と重なるみたいだな。うん。……偶然、偶然だ」
「はい」
そこはお互い余計な感情を出すことはなかった。
「あ、有紗にも行こうって言っといたから」
今日、何度目かの肩の抱擁を竹清がおこなった。
「え、有紗さんも一緒にですか? ありがとうございます」
そこは何も隠さず露骨に嬉しがってしまう。
「みゆきは家族で旅行なんだ。仕方ない、いるメンバーで楽しもう」
「はいッ」
有紗の名前を聞いたものあって、その返事は力強いものであった。
使ったことのないシャワーだから、温度調節にやや時間はかかったが、それでも浴びてしまえば気分をさっぱりとさせてくれる。
先に入ってもらった竹清が入浴から出てくるまではリビングでケンと遊んでいたのもあって、その愛くるしい姿が脳裏に残っていた。そうやって、あえて、ケンのことを意識したが、ピアノを弾くみゆきの姿だって浮かび上がってくる。雑誌の中でも、お似合いのカップルとして笑っていた。竹清さんは、あんなにも素敵なみゆきさんを、とそこまで考えるが、それ以上は自分の範疇ではないと思考を停止させる。
脱衣所で、買ったばかりのTシャツとパンツに身を包む。よく泊まるから、何着か着替えを置いていっている竹清さんからハーフパンツは借りた。
洗面台にあるドライヤーで髪を乾かしていれば、ノック音がする。
「あ、はい。どうぞ」
ドライヤーを止める。
「お風呂、湯加減大丈夫だった?」
ドアを少し開け、ちょっと顔見せながらみゆきが聞いてくる。
「はい。ありがとうございます」
「入っていい?」
「え、あ、はい」
その返事を聞いたみゆきがドア開けて入ってくる。甘い香りが漂った。
「肌のお手入れしてあげる。動かないで」
そう言ってみゆきは河本にヘアバントをすると、慣れた手つきでコットンに化粧水を付け、すべて晒されている河本の顔に丁寧に拭きつけてくれる。
「洗顔後にすぐつけないとね」
ほとんど目を瞑っている河本に対して、独り言のようにみゆきが呟く。
「はい、次は乳液」
みゆきは一度手を洗ってから、乳液を手のひらに出しては、もう片方の手の指でそれをすくっては河本のおでこや頬に塗りだした。柔らかいみゆきの指先の感触を河本は顔で味わうことになる。
「うん、眉もちょっと整えよっか。動かないで」
そういうと、洗面台からハサミとピンセットを取り出しては、河本の眉をいじりだした。一度、軽く目を開けば、みゆきの顔がすぐそばにあった。
洗いざらしの髪に、濃い目の化粧を落とし、すっぴんとなったみゆきは、年相応というよりも、幼さすら感じさせた。襟周りの広く開いたTシャツは片方のブラ紐が見えており、近い距離がゆえ、覗き込まなくても、胸の膨らみが見て取れた。下に履いたショートパンツも先ほどまで履いていたものと違いリラックス感が伝わる緩やかなもので、みゆきがしゃがみでもしたら隙間から何かが見えてしまいそうだ。
ふわっと甘い香り。長い髪。胸の膨らみ。スラっとした素足。指先の感触。どこをとっても、目の前にいるみゆきさんは女のコらしさに溢れていた。が、目の前で、無自覚に魅力を晒し振り撒いても、それは、自分が受け取ってよいものではない。竹清さんの恋人。一人っ子だから、弟みたいに扱ってくれているのだ。だから、自分も姉のように想い、何かしら反応することはないのだ。
「竹清さんは?」
目を瞑ったまま、みゆきの全魅力を受け止める相手の居所を尋ねる。
「なんか、夜風を浴びるって二階のテラスにいるよ」
「テラス、ですか」
「うん、バーベキューも出来るよ。夏休みにさ、生徒会の皆で集まってやろ」
「あ、楽しそう。いいですね」
みゆきのお誘いに、逡巡なく反応できた。
「よし、出来た。うん、良い感じ。鏡みてみて」
目を開けた河本は洗面台の鏡の中の自分と目を合わせる。
「眉尻、良い感じになったでしょ」
「あ、スッキリしてる。やって貰っちゃって、ありがとうございます」
「やってて思ったんだけど、こうやって、ちゃんと見ると、河本君もイイ男だよね」
鏡越しにみゆきと目が合う。
「あ、そうですかね。なんか、ありがとうございます」
姉と想おうという人にそう言われても、照れてしまう。
「その気になれば、彼女のひとりやふたり、すぐできるよ」
「え、そうですか」
「あ、ふたりはダメ。ひとり。ひとりを、目一杯愛してあげて」
真顔のみゆきが鏡に映っている。
「はい。分かりました」
だから、真顔で河本も返事をした。
二階の、普段は主に映画なんかを見ているという部屋で、三人でゲームを楽しんだ。途中、和室に布団を用意するというご両親の手厚い応対は丁重に遠慮し、眠くなったら、この部屋のソファーやクッションで眠らせていただこう、ということになった。
「右だ、左だ。いや、右だ」
「え? けいじの言葉じゃないみたい」
みゆきはゲームに熱い竹清が可笑しかった。
「ここですか?」
「そうそう、そこのボタン、あと、下下、あ、今あれ使って」
河本が初めてやるゲームのアドバイスを竹清は熱心にし続けた。
そんな二人のやり取りを微笑ましく眺めていたみゆきであったが、コンクールの疲れが出て、うつらうつらし出した時点で自分の部屋に戻った。その後に、「自分たちも寝よう」と、竹清とそれぞれ、テーブルを挟んで向かい合って置かれたソファーでクッションを枕にして横になった。
眠りに付くまで、余計な話はしなかった。
暁のころ。
ふと、目を覚ました河本は静かにトイレに立った。部屋を出てすぐのところにあるトイレを出ると、窓から差し込む明るみに、夏の夜明けの早さを思った。
唐突に一宿一飯の恩義に苛まれ、何か出来ないかと、階段をそっと降りた。階段下にレンタル用のモップがあるのを上手い具合に見つけたので、ただ自分を納得させたいが為に、再び階段を上がっては、上から下までモップ掛けをした。
「アン」
最下段に取り掛かり始めた河本は、高い鳴き声を背中で聴きドキリとする。
振り返ると、ケンが尻尾を振っていた。お、ケンか、と思う間に、さっきは閉まっていたひとつの部屋のドアが開いていることに気付く。
次の瞬間、そこからお婆ちゃんが、ケン用のリードを持って出てくる。
「あ、おはようございます」
河本は思わず挨拶をする。が、モップを持っている説明も必要なはずだとわかっているが、自分のやっていることをうまく説明できる気はしない。
「……うん。おはよう。……ケンの散歩に行ってきます」
「あ、いってらっしゃいませ。どうぞ、お気をつけて」
河本はお婆ちゃんの背中に深いお辞儀をする。
「アン」
もう一度、ケンが鳴いてはお婆ちゃんを追って玄関へと駆けていった。そのケンの愛らしい鳴き声に、自分はご容赦頂いたのだと、甘えさせてもらう河本なのであった。
お読みくださり、ありがとうございます。
更新の遅れ、誠に申し訳ございません。
必ず完成はさせるというお約束はさせてください。




