62 浅い眠り
62 浅い眠り
確かにそこは体育館なのではあるが、照明が点いていないのか中々鮮明ではない。周りに誰がいるのかもはっきりしない。特にそれを疑問に思うことはせず、ただ河本は目の前に飛んでくるバレーボールをバック中までして避けてみせる。
そう、自分はこんなことが出来る。しかも、まったく肉体に負荷を感じることもない。いくらでも思い通りに動ける。
「さすが河本さん」
ボールを投げてきた相手である人物が声を発する。河本にそんなことを言うのは中学からの後輩の荻野である。
「もっと全然平気。本気で投げてきていいよ」
荻野だから、と安心して河本が催促する。頷いた荻野はカゴから取り出し、投げてはまた取って投げてを繰り返す。
それらを前転宙返りやバック転をして河本は颯爽とかわし続けた。
遥が投げてきた時もこうすればよかった。こんな身軽な自分を見せられていたら喜んでくれたのかな、と思えば、ここは体育館なのだから、と辺りを見渡せば、不思議なくらい遠く先で小坂遥がこないだのように練習をしている。バレーの方に集中しているのか、まったくこっちを見てもくれない。
「投げ飽きました。帰ります」
荻野がそういってくるから、振り返ると、荻野のそばには成瀬萌が立っていた。
「あ、メグ、来てたの?」
荻野の腕にしがみ付いている萌の姿に二人はもうそんな仲なのか、とひるんでもいいのだろうが、河本は冷静に努めた。
「はい、オギーと一緒に帰るんです」
「そっか」
二人は、べったりとくっついた後姿を河本に見せつけるようにして体育館の扉から出て行ってしまう。
残された自分は、と壇上に視線を向ければ、張られたネットの先に竹清会長が立っていた。
竹清会長、と認識した河本は獲物を見つけたネコ科に分類される狩猟豹のように猛然と駆け出した。走る自分は無敵なんだと、いつも、どこかでそう思っているから、壇上が目の前に迫れば床を飛ぶ。防球ネットは体をすり抜ける。そうなると分っていたから驚きもしない。
着地して、顔をあげれば、そこに居たはずの竹清の姿が消えている。
「会長なら帰ったよ」
その声は有紗だ。
「有紗さん!」
と舞台袖からすっと現れた有紗に呼びかけるが、スマホを弄っている有紗は、河本の方はまったく見ず立ち去ってしまう。そんな姿を見せられたら、あ、この後、彼氏と会う感じだ、と理解せざるを得ない。
「河本君」
反対の舞台袖から自分を呼ぶ声に、視線を向ければ美咲が立っている。
「美咲さん!」
河本は、嬉しくて、駆け寄る。印象に残るのは、白い肌のふとももに何度か見たスカートの中の下着。
「え、また見たいの? しょうがないなぁ。見せてあげる」
美咲がスカートに手をかけるから、今日はどんな模様なんだろうと思考する。
「美咲!」
と、遠くから会長の声が飛ぶ。
「あ、会長」
「みゆきがいないから、いいことしよう」
「うん。するする!」
見える寸前でスカートから手を離し、嬉しそうに美咲は駆けて行ってしまう。
そして、河本は一人になる。
バレー部もいつの間にかに居なくなり、壇上の前に張られていたネットもなぜかなくなっている。
仕方がないから、壇上の中央で、いつも竹清がそうしているように、姿勢良く胸を張って立ってもみる。視線の先には誰もいない体育館。
風が吹いている。締め切った体育館には吹くはずの風が吹いている。ザー、と音がする。そこで河本はさっき暑さで寝苦しくスイッチを入れた扇風機を思い出す。
ああ、これは夢なのだとはっきりと認識すると、すべて消え、ただの暗闇の世界になる。
夢で良かった、と安堵する自分に気付く河本であったが、同時に、ひとつ何かを掛け違えでもすれば、容易くいつでもこの夢でみた状況になりうるとも思うから、自分の立場の危うさを実感するのである。加え、本当にそうなってしまったらとまで考えると寂しい気持ちを抱きもした。
夢に引きずられたまま、河本は登校しクラスで授業を受けた。
休み時間は、クラスメイトの誰かと話したりすることもなく、自分の机で教科書に目を通したりしていた。
前の席の女子のもとに何人かが集合して会話が繰り広げられていようとも、特に河本が気にすることはなかった。
干渉する気がないから、干渉されるとも思っていない。人は人。自分は自分。自分のエリアは座るこの席のみ。そして他人も同じようにエリアを持っていると考え、互いのテリトリーを侵入することも、されることもなく、教室内で過ごすのである。二年のクラスになってからは顕著にそんな思考が働き、自分からクラスメイトに声をかけることなどなくなってしまっていた。だから、授業中にその前の席に座る女子のブラウスの透けが気になっても、中に何を着ているのかを想像するようなことはない。それは失礼だと思いもするのだ。だいたい名前だって咄嗟にはでてこない。記憶を辿れば、三人くらいに絞れるまではする。それで、そうだ、小林さんだ、とその辺りに落ち着く。
そうやって、ただ席に座り、一日の時間割りを受ける河本は、普段のままであるのだが、今日の河本は少し違った。
今までなら当たり前に受け入れていたこの状況を、見た夢のこともあり、一抹の侘しさを感じもしていたのである。
そんな些細な河本の心境の変化など、当然、クラスメイトは知らないから、いつもどおりに距離を置いて扱っている。
自分の席で昼食を終えた河本は教科書を読んだりしつつも、ちょっとクラスの様子を伺ったりした。
教室の前方の黒板のところで、男女が集まって楽しそうに談笑している。その中の田村塁という男子生徒に目がいく。確かバスケ部である彼に、故郷の古巣チームへ復帰が決まったNBAのスター選手の話でもして、彼がどんな考えを持っているのか聞こうかとも思ったりもしたが、いきなり今自分が立ち上がって彼のもとへ行ってそんな話を振るのは、彼に多大な負担をかけてしまうというのは判るから、河本は結局黙っていた。
クラスメイトと話していた田村がふと、そんな河本の視線に気付いてこっちをみてくるので、河本は慌てて何でもないように教科書に視線を落とした。
内心は色々思うことはあっても、結局いつもと変わらない一日を河本は過ごした。
六限の移動教室での授業を終え、教室へ戻ろうと河本は廊下を歩いていた。
俯いているという訳でもないが、前を向いているという訳でもない、その中間。視界には、通りかかった他のクラスの前で、ちょうど教室を出た女生徒と鉢合わせした。
「あ」
はっきりと一文字のみを耳の近くで述べられれば、河本は相手を確認する。
「あ」
河本も思わず、同じ一文字を返す。目つきの鋭さが印象的なそのコの名前は清水成美である。が、河本は久々に顔を合わせたことで咄嗟にその名前が思い出せなかった。
「選択?」
成美が河本の持っている教科書を覗いて質問してくる。
「うん。……何か用?」
その日、ほとんど声を発していない河本は、相手と距離を取るように、冷たいことを言ってしまう。
「え? なに? 別に用ないけど。……って用がなきゃ話しかけちゃいけないの?」
成美の眼は鋭さを増す。
「……ううん。そんなことない。じゃ、用もないのに話かけてくれたんだ?」
話しながら相手と向き合おうとする。
「は? そうだけど」
他のクラスの女子と会話する河本を、クラスメイトが珍しそうに通りすぎていく。
「いいよね、そういう、用もないのに話すって。……なんか友達みたいで」
それまで硬かった河本の表情が崩れる。
「え? ……まぁ、ね」
成美はそう言いながらも、河本がふざけているのかどうかを見抜こうという目はしている。
「なる……」
河本は、目の前に立つコの名前が成瀬だと思い浮かび、口にしようとしたのだが、その苗字は萌のものだと気付き、途中で止める。
「……なる? もしかして私のこと呼んだ?」
成美は少し驚きの様子をみせている。
「ごめん、違うよね?」
名前を間違えるのはいけないことだから謝る。
「違うっていうか、いきなり君が親近感だしてきたからびっくりしたの。私のこと、なるって呼ぶの、いとこのお兄ちゃんくらいだよ」
なるについて、成美は本当のことを話している。
「え? そうなの? 合ってた?」
このコの名前、なるに関連していたのだと河本は察知する。
「合ってた? なにが?」
成美は怪訝な表情になっている。
「え?」
合ってた? と確認したのはいけなかった。
「……河本君」
そんな噛み合わない会話をする二人の所へ、成美の教室から出てきた平井が河本の姿に気付いて声を掛ける。
「あ、平井先生」
河本はいやな汗をかいている所だったので顧問の平井の姿にホッとする。
「ちょっといい? 授業終わりでしょ?」
「はい」
そういって歩き出した平井の後を河本は付いて行く。
話が途中でしかなかった成美はスッキリしないまま、そんな二人の後ろ姿を睨むことになる。
「清水さん、今河本としゃべってた?」
話しかけてきたのは、クラスメイトの澤井謙輔である。
「あ、うん。なんだろ、あの感じ。あの、河本君と話すと……いっつも、なんか煮え切らない気分になる」
「じっくり話すといいやつだよ? 試験でも終わったらさ、誘うから。一緒に遊ぼうよ」
「……うん」
その機会に、何か探ってやろうと思う成美であった。
一度、職員室まで戻り、教科書などを自分の机に置き、養生テープを持って平井が出てくる。
「行こう」
「はい」
職員室前で待っていた河本に声をかけ、二人は移動し、エレベーターに乗る。
河本はその辺りで、さっきまでの状況からの展開に、狭いエレベーター内に、平井先生と二人であることを意識し出す。
「さっき、清水さんと楽しそうに話してたね」
平井が何か話題を、という感じで呟く。
「え、そう見えました? そう見えたのなら、それでいいんですけど」
話しながら、あ、清水さん。あのコは清水成美さんだと河本は思い出す。
「そうじゃないの?」
「普通に何気なく人と話すこと、難しく感じる時があって。今日、ちょっとその意識が強くて。結構必死で会話してました」
「そういうところ、高校生だね」
「……そうですかね」
高校生にとっては、通う高校がまるで世界のすべてのようにもなってしまう。決してそうではないが、そうやって人付き合いを覚え、向き合い方を考えていくことも必要なのかとも思う平井はただ、穏やかに河本を見つめる。
「こないだ張ってもらった幕、ちょっとズレちゃってるから、誰かに言われる前に直そう」
「あ、そうなんですか、すいません」
「ううん。昨日とかも、風強かったし、しょうがないよ」
平井が優しい表情を向けてくれる。
エレベーターが三階に止まり、二人は降りる。
「視聴覚室開けられるよね?」
「はい」
「幕の、真ん中の部分が寄れてるから」
「あ、そうなんですね」
ややピンクのブラウスに膝丈のネイビーのペンシルスカート姿の平井のシルエットは、たとえ同じ格好をしたとしても、男性には作り出せない輪郭の線を描いている。
その平井が珍しく履くスカートの名称などは知らない河本であっても、その着こなしに女性らしさ、を感じとっては、いつもより緊張もしてしまう。
視聴覚室のドアの前でカードキーをかざし、河本がセキュリティを解除する。
平井が先に入っては、ベランダまで出る。河本は、誰も他の生徒が周りにいないことで余計に平井の後ろ姿に釘付けになってしまう。
「ここがね」
平井がそういって、寄れた幕を直す。
「すいません。この間、もっとしっかりやっておけば良かったですね」
河本は、ズレない様にしっかりと紐の部分に養生テープを張る。
「ここやったの、柳田さんでしょ。あのコ、幕張ることより、屋上に行くことしか眼中にない感じだったし」
作業をする河本を見つめる平井である。
「いえ、自分です」
「ホント? 河本君が柳田さんのせいにしてたなんて後で本人に言わないよ?」
「はい」
「ホントだよ? ……信用して」
「はい。……してます」
紐にテープを貼り終え、顔をあげた河本は平井を見る。ほんの数秒見つめ合えば、平井から目を逸らす。
河本は、平井という美人の先生が自分に対して優しく接してくれるのは、嬉しいことで、とても心強いが、その応え方がいまいちわからないのだ。
もう一度、二人で幕を確認してから、視聴覚室へと戻る。
「先生」
また、室内に二人きりになったことで、河本が後姿の平井に声を掛ける。
「なに?」
平井が振り返ってくれる。
「ピンクとか、珍しくないですか?」
本当はスカートを履いていることにも触れたいが、意識していることが伝わってしまいそうで、いえなかった。
「あ、これね。なんでか知りたい?」
「はい」
河本は、笑みを浮かべた平井に、室内の空気が軽くなるのを感じる。
「ほら、胸の大きな先生いるでしょ。南淵先生っていう」
「あ、南淵先生。はい。でも、自分、その先生の授業とか受けてないんで。そこまでそんなその大きさについて、その」
「いいから。話続けるよ?」
「はい」
「職員室でもさ、男の先生とかさ、みんな、南淵先生を意識しちゃってさ。特に、今夏だし。なんでもない風を装い、南淵先生が入ってきたりすると一回姿を確認するんだよ。いやらしい。そんなに男って胸、好きなのかよっって思うよホント」
本来、教師が生徒に話すことではない。
「……はい」
自分も男であるが故、反応が難しい。
「別にいいんだけど。なんかいつもそうだと、ちょっとなんかさ、面白くないって言うか。そう、それで、あの南淵先生、ピンクとかそういうの好きだから、逆に私が着てやろうと思って。普段選ばない色のブラウス買ったの」
「あの、はい。……すごくお似合いです」
「うん、ありがと」
「なんかボクが言ってもあれかもしれませんが、平井先生は魅力的です。そんなこと気にしなくてもいいと思います」
長身でスタイルの良い平井の、別に肌を露出している訳でもない、ブラウスにスカートという格好は、清らかに色香に満ちている。その魅力を、平井が喜んでくれるように伝えたいが、河本はうまく表現できないからもどかしい。
「うん。判ってる。でも、ありがと」
「いえ」
平井先生も、職員室内で色々あるんだとも実感する河本である。
「今の話、誰にも言っちゃダメだよ。私がピンクのブラウスを着ている理由」
「言いません」
大体、胸の大きさに対抗してピンクのブラウスを着るという女心が分らない。
「うん、信用してる」
そういって、平井が小指を差し出す。指きりをするのだと河本は理解して、小指を絡ませる。
「指きりげんまん」
笑って平井が小指で引っ掛けあう手を振るようにする。
見た夢で多少落ち込んでいた今日の河本にとっては、平井に触れた小指から感じる温もりは優しいもので、欺瞞に満ちた世界の中でも、自分に笑顔を向けるこの人を信じていたいとすがるのであった。
お読みくださり、ありがとうございます。




