52 隣のみゆき
52 隣のみゆき
九コースある丁度真ん中で、何本目かの二十五メートルを泳ぎ終えた高橋みゆきが、吹き抜けの二階の観戦席を見上げれば、そのタイミングでプールに視線を落とした河本秀人と目が合った。みゆきが手を振れば、河本も手を挙げては、貴方の姿に気づいています、というような合図を送った。みゆきがそれを受け取り、また自分の世界に戻るかのようにゴーグルの位置を直しては、泳ぎだした。
六月の第二土曜の午後。
みゆきは定期的に通っているスポーツジムに、河本と一緒に来ていた。本来なら一緒に隣のコースで泳いでいても良いはずの彼氏である竹清慶治は、この日、吹奏楽部の定期公演への出席という生徒会長としての校務があるので、代わりに河本に一緒に来てもらった、という所なのである。
土曜の二週に一回はこうして泳ぐとみゆきは決めている。だが、別に絶対今日泳がなくてはという訳ではない。それでもみゆきが竹清に付き添わなかったのは、そして、河本がみゆきの泳ぎを見学しているのは、いくつか理由が重っている。
まず、吹奏楽という音楽にみゆきは興味がないのである。吹奏楽部が友情を育みつつ、練習を重ね、努力した成果である演奏はきっと素晴らしいものなのだろうとは思うが、幼少からピアノを習い、鍵盤を弾いてきたみゆきにとっては、吹いて奏でる音は異音であり、どこか違和感を受けてしまう。機嫌のよろしくない日でもあれば、その演奏が聞こえただけで気持ち悪い、とすら思ってもしまうのである。楽器を変に分類などせずに、受け入れることができる人間もむしろ多いだろうが、みゆきは違うのだ。そんな極端側の個人の生理的な感覚を他人から理解されるとは思っていないから、普段は心に収納している。だが、せめて理解者であってほしい唯一の存在の彼氏である竹清にはそういう人間もいるんだと伝えてあるのに、吹奏楽部の定期演奏会に出席うんぬんの話を持ち出したのである。まぁ、生徒会長としての立場も分かるが、そこはもう少し配慮がほしかった気がするのである。
そんなみゆきであることは知っている竹清は、みゆきが拒否することは当然前提で、河本と参加できたのならそれで満足のようにみゆきには見えた。
自分以外の人間と過ごす。
はじめのうちは、竹清と一緒にいる河本に、変に浮気の心配などしなくて済むので、助かるくらいに思っていた。
しかし、この頃。けいじが河本君に見せる笑顔が、私に見せるものとは違う、とみゆきは感じてきている。心底楽しそうにもみえ、そのけいじの笑顔に改めてキュンと感じては、自分には向けてくれないとも実感して、切なくもなる。
それは、男同士の友情ともいえるのだろうが、自分に用があるから、仕方なく他の人間と、とならまだ納得できるが、自分以外の人間。みゆきといるよりひでとといる方が楽しい、だとしたら見過ごすことはできない。如実にその様子が最近のけいじから見て取れるから、みゆきは内心、苛立ちもする。まさか、同じ生徒会の年下の男子に嫉妬するとは思いもしなかったが、定期演奏会に河本を同伴させなかった理由は実際、それなのだ。
背泳ぎを始めたみゆきにゴーグルを通して天井のライトが目に届く。
河本君とばかり行動したがり、自分には関係保持くらいの接し方をしてくる。優しいともいえるが、どこか物足りない。それに納得できないから、最近、私は反発という行動に現れた。会計監査の立会いも私が出るから、河本君は立ち会わなくても大丈夫といい、生徒総会も会長である竹清の横に私だけが座ると言った。そんなの彼女という身である私からしたら当たり前の話だ。けいじはそんな私に「判った。みゆきのしたいようにしよう」と呟いただけ。それでいつもの甘いだけのけいじで終わるかと思ったらそうではなかった。総会の最終打ち合わせで段取りを変更して河本君も横に座れるようにし、さらには、私が忘れたポーチを河本君に取りに行かせたこと、また急に、生徒みんなの前で河本君に総会前に挨拶をするよう促したムチャ振りを、放課後生徒会室で二人きりになると「あれはよくない」とはっきりとたしなめるように言われてしまった。それでも、戸惑い黙ってしまった私をすぐに抱きしめては「なんでみゆきがひでとに嫉妬してるんだよ」と笑って囁かれれば、わだかまりなどすべて流してしまえるようにも感じてしまう。続けて「みゆきはオレの彼女なんだ。ひでとに敵意とか持たずに明日も仲良く過すんだよ」と諭されれば私は黙って頷くしかなかった。自分から離れていくことがないと信じきった言い方に何も言い返すことなどできない私は網にかかった人魚。自ら望み網にかかったんだから文句などない。
尾のない人魚は今日の泳ぎをそこで切り上げてはプールサイドに上がった。
携帯を弄る河本が気づくように、手を大きく振って、泳ぎを終え、今から戻るということをアピールした。あまり待たせるのはと思い、出来るだけ急いでみたもののシャワーを浴びて髪を乾したりもすれば、小一時間はかかる。
それでもおそらく河本君は文句のひとつも言わずに迎えてくれるだろう。今日だって、待っているだけでは退屈だろうから「一回無料体験が利用できるし、河本君も泳げば?」という提案をしたみゆきに対して「泳ぐとそれに集中しちゃうんで。今日の自分はみゆきさんをお守りすることが役目ですから」と河本はただ、座って見学していることを選択したのである。
そんな献身的に接してくれる河本君に敵意など。と、今になってけいじが昨日口にした敵意という言葉が、シャワーを全身に浴びる最中のみゆきによぎったりもした。
敵意など、ない。
昨日、私が生徒会室に置いたままのポーチを河本君が取りに行ったもの、私はただ、「あ、ポーチ忘れた」と発した後にたまたま河本君と目が合って、彼が「自分が取りに行きます」とそういってくれたのだ。
嘘。それは嘘だ。
確かに催促はしなかったが、私は忘れたことに気づいてすぐに河本君を目で探した。
でも。
でも、それを責めないで。ひたむきで真面目な河本君に私が敵意なんて。そんな言葉で私を悪者にしないで。
水泳用具一式の入ったトートバックを肩にかけてみゆきはロッカー室を後にする。
「お待たせ」
ロビーに移動してソファーに座って待っていた河本にみゆきは声をかける。
「お疲れ様です」
河本は立ち上がる。
「結構待たせちゃったよね、ごめん」
「いえ、そんなことないです」
「ううん。お礼にスイーツ奢る。食べいこ」
さすがにそれくらいはしないと申し訳がない、とみゆきは思う。
二人はスポーツジムから少し歩いて大型のショッピングセンターに行き、そこの六階にあるカフェへと入った。
向かい合ってテーブル席に座る。
「ずっと二階で座ってるだけなの、退屈じゃなかった?」
「いいえ。泳いでる姿見てるだけで、充分、楽しかったですよ。みゆきさん、フォームキレイですね」
「ありがと。でも私の泳いでる姿そんな見てないでしょう? 河本君の方見る度、スマホ弄ってばっかだったよ。一回くらいじゃない、目、合ったの」
「みゆきさんをあんまり凝視するのもいけないかな、っていう。それでスマホずっと弄ってました。昨日、充電忘れたんでもう電池無いです」
「フフ。別に見るの問題ないよ。少し頂戴」
「あ、どうぞ」
それぞれ違うフルーツソースのクレープを注文した。みゆきは河本の食べているマンゴーも気になって食べたくなったのだ。
「うん、美味しい。こうやってスイーツをおいしく食べる為に泳いでるような気がする」
「え、そうだったんですか?」
「うん。体重キープするにはさ、大変なんだよ。あ、河本君の私服っていつも、そういう感じなの?」
「え、変ですか?」
「ううん、似合ってる。そういう格好、私好き、だよ」
みゆきは河本のシャツを眺めながらスプーンを口から離して、皿の上に置いた。
ジャストサイズの黒のポロシャツに白に近いベージュのカーゴパンツは小奇麗な印象で清潔感もあった。
「実はですね」
「うん?」
「竹清さんから、みゆきさんはモノトーン系の格好が多いって聞いてたんです」
「そうなんだ」
「ピアノカラーの黒や白が多いって聞きました。だからそれに合うように、この格好をしてきました」
今日のみゆきの格好は確かに、黒のノースリーブのシャツに白のショートパンツであった。
「なにそれ。可笑しいね。けいじ、そんなこと言ってるの?」
けいじが河本君に自分のことを話している。そんなこと、想像したことがなかった分、驚きと嬉しい気持ちが沸いてきた。考えてみたらそうだよな、彼女のことを話したりするよな、とみゆきは思う。
「はい。……会長から聞いてた通り、みゆきさんの格好、シックで素敵です。そのメガネ姿も新鮮です」
「水泳の日は伊達メガネが楽でいいんだな」
言いながら、みゆきはメガネをクイッとあげ直してみたりする。
そのタイミングで、みゆきのスマフォにメッセージが届く。確認すれば竹清からであり、「吹奏楽部の打ち上げも参加することになった。さすがに断れないよ」という内容であった。みゆきは、「了解、終わったらまた連絡して」と返信した。
「けいじさ、吹奏楽部の打ち上げも参加するんだって」
「流れでそんな雰囲気になりますよね」
まぁ、そうだよな、と思いながら、みゆきはテーブルにスマフォを置いた。そのスマフォの待ち受け画面の竹清とみゆきが寄り添う画像に河本は目が行ってしまう。
「……河本君は彼女とか……作らないの?」
待ち受け画面を見られたことでみゆきはその質問を思いついた。
「いや、彼女とか全然ないですよ」
「好きなコは? ……クラスとかに居ないの?」
「クラスの女子とか、ホント、会話した記憶がないです」
「へー、そんな感じなんだ」
「はい。何話せばいいんだろう、みたいな、そんななんですよ」
彼女という存在を受け入れるスペースを高校生の男子はまだまだ自分の中に作り出せず、中々うまくいかない事も多い。河本もまだ対女子との許容範囲のようなものを掴めていないのだろうな、とみゆきは分析した。
「でも、有紗とかと結構話してるよね」
「はい、有紗さんとか、美咲さんも、綾さんも、生徒会の人、みんな優しく話しかけてくれて、いつも助けて頂いてます」
「私以外、とだよね」
みゆきは笑う。
「いや、それは、みゆきさんとは機会が……」
「フフ、でもホント河本君とこんな向かい合って話す事なかったもんね」
「竹清さんの彼女さんなので、距離が近すぎてもいけないかな、っていうのが」
「そんなこと気にしないで。……今度、三人でもいいし、あ、みんな誘ってバーベキューでもしよっか」
「あ、バーベキューとか楽しそうでいいですね」
「うん、これから夏だし。夏っぽいことしよう」
「はい」
みゆきは、自分の皿に残っている最後の一口のクレープを口に運んだ。その際、少しのクリームが口の横についしまったので、舌出して舐め取った。何の気なしに、河本の目を見つめながら行ったので、河本が恥ずかしそうに目を逸らした。
「フフ。打ち上げって二時間くらいかな」
指でまだクリームが残っていないかみゆきは確認しながら河本と同じ方へ視線を送る。
「それくらいですかね」
河本はテーブルに置いてあるメニューの『当店ご利用の方、映画10%割引』と記載された部分に目をやっている。
「じゃ、映画観ようよ。実はちょっと観たいのがあって。アニメなんだけど平気?」
「はい。大丈夫です」
竹清はほとんど洋画しか観ないタイプの人間で、みゆきも普段はそういうタイプなのだが、ちょっとテレビの宣伝で見かけて気になっていた作品を思い出して、河本を誘ってみたのだった。
二人はそのショッピングセンター内にある映画館まで行き、ちょうど目的の映画の上映時間がすぐであったので高校生料金から更に割り引かれた料金を支払った。チケットをもぎって貰い、先にあるトイレに双方が寄ってから該当のスクリーンへと入場する。
「あの辺にしよっか」
先を歩くみゆきが座る席の目星を付ける。
「はい」
みゆきが着席すれば、隣に河本も着席する。土曜日の夕方ということでまばらから、そこそこというくらいの他の客の人数であった。
「けいじはさ、こういう映画苦手とかいってさ」
「基本外国作品でしたっけ?」
「うん、そう」
上映が始まるところで館内は薄暗くなる。
「あ、電源切っておかないと」
「ですね」
スクリーンに流れたマナーを知らせる映像にみゆきが従う。スマフォの電源を切ってはまた足元のトートバックに戻した。
「こういう映画観る時って、竹清さんと手を繋いだりするんですか?」
「え? そんなことしないよ」
唐突に聞かれて笑いつつもみゆきは答える。
「そういうもんなんですね。カップルって手とか繋いで鑑賞するのかと思ってました」
河本も笑う。
スクリーンでは今後上映予定作品の予告編が流れている。
「……じゃ、逆に試しで繋いでみよ。手、出して」
そっか、もしかして河本君は今まで異性と映画観る機会なかったのかな、とも思ったみゆきはそんな提案をする。
「は、はい」
戸惑うように河本が差し出した手にみゆきは指を絡ませて繋いだ。
「やっぱり恋人繋ぎでしょ」
みゆきは冗談めかしつつも、河本の手の暖かさを感じた。
「あ、なんかドキっとします」
「え?」
河本の言葉に反応してみゆきは暗い中、その表情を見ようとする。弟くらいに思っていた河本から少し、異性を感じた。その瞬間、バサっと音がする。
「あ、すいません」
スクリーンから、みゆきの方を見ようとした河本がみゆきのバックを蹴って倒してしまう。
「ううん」
河本は素早くみゆきのバックを元に戻した。当然、手は離してしまう。もう少しその温もりから何かを感じ取ろうとしていたみゆきは、残念にも思った。
その後、映画本編の上映が始まり、結局繋ぎ直すことはなく鑑賞を終えた。
「結構、良かったね。ちょっと泣きそうになった」
「はい、自分も感動、しました」
なかなか内容のあったその物語に浸ったみゆきは、余韻を楽しみながら河本と駅へ向かった。
「あれ、スマフォがない」
「え」
そろそろ現実に戻ったみゆきは竹清からの連絡が来てないかと、バックの中を確認したのである。
「あれ、お店かな。クレープ食べた時忘れたのかな」
「戻りましょう」
「うん。ごめんね、なんかドジで」
「いえ、多分映画の時、自分、バック倒しちゃった時ですよ」
「あ」
「本当すいません」
「いいよ」
私と手繋いでドギマギしてたもんね、河本君。とみゆきは思い出す。
もう一度映画館まで戻っては、従業員の方に確認すると、次の上映が始まってしまっており、それが終わるまで待つ事になった。
「眠い」
「どうぞ、眠っててください」
「うん」
自分のせいで、と思っているのか河本は恐縮している。そんなに気にしなくていいのにと思いながらも、河本の肩を借りてみゆきは眠った。
「……みゆきさん、みゆきさん、そろそろ起きませんか? ……みゆきさん」
しばらく眠っていたみゆきが河本に起こされる。
「……あ、おはよ」
「ありましたよ、携帯」
河本が手に持っているのはみゆきのスマフォだ。
「あ、ホントだ」
「今、持ってきてくれました。イスの下にあったとかで、従業員さんが合間の清掃で見つけられなかったこと侘びてたんですけど、すごく申し訳なかったです」
「だよね、落とすこっちが悪いよね。こっちがね」
「ホントすいません」
そんなに責めるつもりはないが、ふざけて言ってみたくもなる。
「もう九時回ってるんだ」
電源を入れれば、竹清から二時間ほど前にあった着信通知メールが届く。
「竹清さんからですか?」
「うん」
「自分のせいで出れなくてすいません」
「あとで、河本君の腕枕で寝てたって言っとくね」
「その説明、誤解されそうじゃないですか、やめてくださいよ」
「大丈夫、ちゃんと言っとく」
「はい、すいません」
また河本が詫びる。
「帰ろっか」
「はい」
みゆきは、一度大きく伸びをしてはソファーから立ち上がる。
河本も立ち上がって、二人は再びへ駅をと向かう。
「今日、楽しかったよ」
「はい、それは良かったです」
みゆきは本当に楽しかったと思っている。
こんな河本君に対して敵意など、まったくない。そんなのけいじの検討違いだ。まぁ、確かに今までは、私を置き去りにするかのように、けいじと河本君が仲良くしているから、私はいつか苛立つようになった。加えて、河本君とほとんど接する機会がなかったのもあり、彼がどんな人間かも知らなかった私は冷たい態度を取っていたのかもしれない。今は違う。真摯であろうとする人柄と温もりを感じる手のひら。この半日一緒に過して感じたことは好印象だけである。
隣を歩く河本を確かめるように見ては、今日受けた印象をみゆきは確信する。
「ありがとう。今日、付き添ってくれて」
「いいえ、そんなお礼なんて。こっちこそクレープご馳走様でした」
みゆきは横を歩く河本の手を取った。
「けいじはね、どっちかというとひんやりしてるんだけど、河本君の手はあったかいね」
「そうなんですか」
河本は照れた表情を浮かべる。
「けいじがまた予定ある時はお願いしても平気かな?」
「それはもう、自分でよければ、全然大丈夫です」
二人は駅に着き、電車に乗った。少し混雑していたので、黙ったまま立っていた。
先に河本が降りる駅に着き、みゆきに手を振って別れた。
再び走りだした電車内から、後姿の河本を見たみゆきは彼の着ていたポロシャツに模様があったことにその時に気づいた。背中にはラインストーンでドクロのマークがあったのである。駅構内のライトに反射してキラキラしていた。
「……ああいうの着てたんだ」
周りに乗客がいなかったこともあり、みゆきは呟いた。
今日、一緒に居て彼から受けた印象が果たして正しかったのかという思いがみゆきの中に一閃した。
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