50 漂遊する平井
50 漂遊する平井
お昼休みの職員室内、平井紀子は自分の席でおにぎり食べながら、机に置いたタブレットを操作しては情報収集を行っていた。夏の休暇にどこか旅行に行きたいとぼんやりと思っているので旅行サイトを眺めたりしている。
おにぎりを食べ終え、一度顔をあげると、向かいの席の南淵明日香と目があった。南淵の方が合わせてきたという所である。
「平井先生、ワッフル食べませんか?」
南淵はニコっと微笑みを向けてくる。
「あ、うん。食べる」
好意を無碍にして南淵のあの表情を曇らせたくはないとは思うから、平井はそう答える。
「どうぞ、おいしいって評判のです」
南淵はイスごと平井の机の方にやってきた。
「ありがとう」
平井が受け取ると、横で南淵は自分の分を開けて食べだすので、平井も同じようにする。
二人はサクッとした食感をそれぞれに味わうことになる。
「……シナモン、効いてて美味しいね」
頂いたのだから、何か感想を言わなければいけないという軽い使命感に駆られ、平井は感じたことを伝える。
「はい」
南淵はただ肯定したという印象の返事をした。
わざわざ隣にまで来たのだから、一緒にワッフルを食べる以外の目的はあるのだろうと思う平井は、「はい」だけで済ませた南淵の方を向いてみせた。
ワッフルを味わい食している南淵の表情は幸せそうであった。それならそれでいいか、と思った所で、そのサマーカーディガンを羽織っていても分かる胸の膨らみに目がいってしまった。四六時中そんな大きさのものが付いていたら邪魔だろう、絶対。肩も凝って大変なんだろうなと、平井は自分が経験することのない悩みを想像した。
「……平井先生はおにぎり、自分で作られるんですか?」
「え、うん。そう。お弁当を作るまでは時間がなくって」
「おにぎり作るだけでも凄いですよ。……実は私、おにぎり作ったことないです……」
「おにぎりくらい余裕でしょ。自分で作るとおにぎりでも美味しく感じるよ」
「そうなんですか、じゃ今度私もチャレンジしてみます!」
「うん」
そんな意気込むこともないだろうと思った平井は、無意識に、暗くなっているタブレットの画面に指で触れた。
「あ、トリ子。どこか、旅行行くんですか?」
アクティブになったディスプレイに目がいった南淵が呟いた。
「うん、夏の休暇にどっかいこうかな、って」
「彼氏さんとですか?」
「うん、その予定。向こうと休み合えばだけど」
「あら、いいですねぇ」
その気になれば、その胸ならいくらでも男捕まえられるだろうと、また南淵の胸の大きさを前にして僻みたくもなる。
「さっき言ったトリ子って何?」
相手の胸の話をしても、自分の胸が今さら大きくなる訳でもないのは分かっているので、平井はしない。
「あ、その旅行サイトのトランク持ってるゆるキャラに勝手に名前付けて呼んでるだけです」
「……あ、そうなんだ」
そう言っては呆れた笑い方にならないように最善の注意をして平井は愛想笑いも加えた。。
「そのサイト、旅行の値段なんか調べる時の定番ですもんね。学生の時、良く見てました」
「うん」
そこでふと、平井が南淵の方を見れば、彼女の視線が動くのを確認した。
南淵は向かいの自分の席の隣の初芝という男性教師が席に着くのをみていたのであった。
「あ、初芝先生もワッフル食べませんか?」
南淵はまた来た時のようにイスごと自分の席に戻っては、その男性教師に声を掛けた。
「あ、どうも、ありがとう」
初芝はやや畏まったお礼を言い、受け取った。その丁寧な言い方が逆に自分が居なかったらもっとくだけた言い方をしたのだろうな、と平井は勘ぐった。
初芝という三十台前半の独身の男性教師は、新卒の南淵に対して、分からない事があったら何でも教えるよというスタンスを取っていた。当然下心ありき、である。そして、それに媚を交えて応じている南淵という巨乳の女教師なのである。声のトーンの変化や相手に話しかける時に向ける姿勢。傍からだからこそ見えてしまう二人のあからさまで露骨な欲望に、妙に恥ずかしいような気落ちにさせられるから、平井は立ち去りたくなる。
「この後の生徒総会の準備、ちゃんと出来ているか最終確認があるので、先に行ってます」
平井は、顧問をしている生徒会が主となって行う本日の五、六限を使っての生徒総会を理由にして、その空間を後にした。
他人事。そうは思っても、決して自分には関係ないことではない。
良い顔したい。でも見栄を張りたい。でも自慢話をしたい。でも良い顔をしていたい。それらの感情が蠢き苛まれる世界から私はいつか脱げ出すことができるのだろうか。
そんなことを思いながら平井は辿りついた生徒会室へと入る。
すでに役員たちは皆、体育館へ行ってしまっているのか、室内には誰も居ない。
平井はホワイトボードに書かれたままになっている総会についての内容を目にして、もう不必要だろうと思いイレーザーを手にして消そうという意識が働くが、わざと残してあるものかも知れないとも思うから手を止めた。もっとも消してしまったところで、誰も私を責めることなく、むしろ「わざわざお手を煩わせてスイマセン」なんて河本君辺りは言うんだろうな、と想像して平井は一人、笑った。
私が大層に指図などしなくても、皆、ちゃんとやるべきことを考え、行動している。それでいて顧問を務める私にはしっかり配慮を忘れない。そんな生徒会の役員を務める生徒たちを嬉しくは思うのだが、一抹の面白味のなさも感じる平井である。
せめて目くらいは通しておこうと、平井は長机に置かれた完成版の生徒総会の冊子を手に取ろうとすれば、置かれているラップトップのマウスにも触れてしまい、画面が明るくなってスリープモードから復帰してしまう。
そうなると、任せておいて充分な生徒総会より、自分の旅行のことを平井は思い浮かべてしまうから、イスに着席までしては、タブレットでみていたトリ子のサイトをまた見ようと検索を始める、
そこで。
ガチャと扉が開いて河本が入ってくる。
「あ、平井先生。居らしてたんですか?」
「うん」
河本は置いてある自分のバックからスマフォを取り出した。
「忘れ物?」
「はい。総会中はどうせ使わないんですけど、持ってないと落ち着かなくて」
「……そう。……みんなはもう体育館に行ってるの?」
「壇上で打ち合わせしてます」
咄嗟に自分のスマフォを言い訳にして、本来の目的であるみゆきのポーチも手に取った。みゆきが忘れたというので、河本が取りに来たのである。
「後で行く」
平井は努めて冷静に振舞っているが、河本のバックやみゆきのポーチが座る平井の向かいにあったお陰で河本がこちら側に来ない分、画面を見られなくて済み、内心ホッとしていたりする。これから総会を前にネットサーフィンは、顧問としてさすがにどうだろうと自分でも判っているのだ。
「始まる直前に緊張感を与えるような事、言ってください。役員みんな、聴く体勢を仕上げてありますんで」
むしろ、河本が役割を与えてくれた。
「うん、わかった」
出ようとした河本が立ち止まる。
「……そんな風にPCの前に足組んで座る先生って……キャリアウーマンオーラが出てますよ。なんか、仕事できる敏腕なオトナの女性って感じです」
「え? そう?」
「はい、ここから見る平井先生、すごく、さまになっててカッコいいです」
「……ただ、旅行サイト見てるだけだよ」
平井はネタバラしを自ら行った。
「あ、そうなんですか。どこか行くんですか?」
「うん、夏の休暇に海外旅行でも」
「あ、いいですね」
「二年生も今月修学旅行で海外行くでしょ」
「そうですけど。プライベートで行くのと、学校の行事で行くのじゃ……あ、戻ります」
今は体育館の方への意識が働く河本である。
「え、行っちゃうの?」
少しの甘えを感じる平井の言葉に、出ようとした河本は振り返ることになる。
「議長団との確認事項が残ってて……」
河本は平井に目を合わせて説明しようとする。
「……行かないで」
平井は、河本から瞳を逸らしPCに目を落としては、ささやくように呟いた。
「……え?」
河本ははっきりと聞こえない部分もあり、戸惑う。
「まだ、行かないで」
今度は顔をあげて、平井ははっきりと言った。
「……えっと……」
明確に聞き取れた事で、河本は余計に困惑する。
「……うそうそ、冗談。早く戻りなよ」
そこで、平井は笑顔をみせる。
「はい」
河本は返事をしては一礼を加えて生徒会室を出ていった。
ただの思いつき。深く考えずに思い浮かんだことを口にしただけ。このコには言っても平気だと、どこかで安心している。平井はそんなことを思いながらも、ブラウザを閉じては生徒会室を後にする。
トイレに寄り、個室にゆっくり入って時間調整しようかと考えながら体育館の方へ歩きながらも、教員用のトイレではなく、その付近にある原則、生徒は使用禁止の教員、来賓用のエレベーターがちょうど平井のいる一階に停まっていたのを確認すると、思い立って乗ってみる事にした。
三階まで上がって、平井はそこで降りた。
少し歩けば、視聴覚室などはあるが別に用はない。ただ、窓の外の景色を眺めた。
視線の先に海が見える。こうして目にすれば、改めて、いまさら、この学校が海に近いことを思い知らされる。普段、車で通勤して授業を終えてまた帰る生活では、時々、忘れることもある。
窓ガラスに手を触れ、平井は視線の先にある景色を見つめる。
どんよりとした厚い雲は濃い灰色で、梅雨の空模様でしかない。海へ近づくと白くなっていて、どこまでが空と呼ぶのか分からなくなる。海は。この日のここから見る海は淡く青色で。水平線がはっきりしている。
少しセンチメンタルになろうとも、海外旅行はやっぱり海がキレイなところだ、と決断するだけの平井である。
体育館。生徒たちの入場がもうそろそろ完了しそうな頃、平井は壇上へやってきた。
生徒会役員だけが壇上へ短い階段を上りきった平井の元へ集合する。回廊付近にいた河本であっても竹清たちの動きを敏感に察知して遅れを取ることはなかった。
それまでゆったりとした空気が流れていた壇上であったが、平井の登場に役員たちが急に姿勢を正しているから、議長や会計監査の生徒たちは、あの顧問の先生はお飾りでなく、結構、厳しい人なんだ、と緊張を強いられることになる。
河本から「自分の後、十秒後に降りてきて」と言われた小坂遥も、舞台袖に来て、そんな役員たちをみれば、あの顧問を務める先生は、ただの美人教師ではないと思わされるのである。
生徒総会が始まれば、平井は舞台袖でイスに座り、様子を伺っていた。
平井が来てからのピリピリ感を生徒会の役員はそのままにして総会に臨んだ。そして、それが議長団にも伝わり、生徒総会の厳かさはフロアにいる生徒たちへも感化した。
会の順調な進行の中、平井は、竹清と河本を眺めていた。
平井の位置からは、座り順で、河本、竹清という風に見え、そこから見える二人の横顔が頼もしく、カッコよく見えた。瞳に焼き付けるという思いで、誰にも邪魔されずに存分に眺めていられるその贅沢さを平井は顧問の役得に感じた。目の保養、というそんな言葉も思い浮かんでは、笑いそうにもなった。
そんな平井の考えていることなど知らない舞台上の生徒は、役員たちが普段とは違う空気をあえて作っていることも当然分からないこともあり、毅然と座り、見据える平井からは、畏怖の念すら感じるのであった。
瞭然、生徒総会は無事、問題もなく終わった。
お読みくださり、ありがとうございます。ご意見・ご感想をお聞かせください。今後の参考にさせていただきます。




