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micelle  作者: Hyro
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13 河本の理由

 13 河本の理由



 河本秀人が小学校三年生の時まで遡る。

 村田亜純という幼馴染がいた。同じマンションに住み、同じ小学校に通い、塾も同じ所に通う、同い年の女の子である。小学校のクラスだけは別だった。

 亜純は背がクラスの女子の中で一番高く、その容姿も目を引くものであるから、目立つ存在であった。それは当然つまり、クラスの男子からちょっかいを受けることになる。男子からすれば、それは可愛い好きな女の子の気を惹くためから起こる行動なのだが、そんなことは亜純にとっては苦痛でしかなかった。軽く小突かれたり、スカートを捲られたり、登下校に被る帽子やリコーダーを隠されたり。それを毎日のようにされれば、うんざりもする。けれど、友達の女の子にはなぜか羨ましがられたりもするから、亜純は黙っているしかなかった。

 そんなことはクラスの違う河本は知らなかった。

 その日、亜純の家で二人で留守番をしていた。

「秀人君のクラスは席替えやった?」

「ううん、まだ。来週かな」

 塾の課題をしながらも、会話をするのはいつものことである。

「ウチのクラス昨日やったんだよ。ミキちゃんと近くだからラッキーだった。でもちょっと前過ぎるんだ」

「そうなんだ」

 すでに、河本が亜純の話を聞くというスタイルは確立されていた。

「ケーキあるんだよ」

「ホント?」

「ママが二人で食べろって。用意するね」

「ありがとう」

 亜純がキッチンに向かい、河本は手を洗おうと洗面台に向かった。

 同じマンションであるから、ほぼ、亜純家も河本の家と構造は同じである。洗面所の隣には浴室がある。手を洗っている河本から浴槽に水が入ってないのが確認できた。

「秀人君?」

 いつまでも河本がリビングに現われないので亜純が洗面所にきた。河本はいなかった。

「トイレ?」

 亜純がトイレのドアを見ると鍵はかかっていなかった。ノックをしても反応がない。思い切って開けても河本はいなかった。急に亜純は不安な気持ちに襲われた。

「帰っちゃったのかな?」

 その時、河本は水のない浴槽に入ってフタをして隠れていたのである。探す亜純の声を聞き、ふふ、と笑みを浮かべていた。亜純が中々見つけてはくれないのでしばらくすると、隠れていることにも飽き、ここに居ると教えたくもなり浴槽をたたいたりした。しかし、亜純が気づいて捜しにくるような反応がないので自分で浴槽をでた。

「秀人君!」

 玄関にいた亜純と目が合った。

「見つけてよ、浴室に隠れてたのに」

 河本にとっては冗談のつもりだった。

「そんな、ひどいよ」

 そういって亜純は急に泣き出した。クラスの男子のように乱暴な振る舞いしない河本秀人は、亜純にとっては特別な存在であった。それだけに、ちょっとした冗談で隠れたという行為を分かっていても、涙が出てしまった。

「ゴメン」

 河本にとって、自分より見上げるほど大きい少女が、まさか、こんな事くらい泣きだすとは思いもしなかったのでどうして良いか分からなかった。

「ゴメンなさい」

 もう一度、謝った。

「やだ、許さない」

 亜純はそういった。それを聞いた河本は、告げ口されて親から怒られると感じ、自分も泣き出したくなった。

「どうしたら許してくれる?」

 懇願の河本である。亜純は、下手に出る河本が可愛く思えた。

「何でも言うこと聞いてくれるの?」

「うん、できることなら」

 もう、亜純は嘘泣きで、俯いているだけである。

「じゃあ、赤いリボン頂戴」

「え?リボン?」

「運動会の競争で一位になると貰うでしょ。あれ頂戴」

 もうすぐ運動会が行われる。学校では最近毎日その練習が行われている。

「ボクが一位になって、そのリボンをあげればいいの?」

「うん」

「あすみちゃんが一位になって自分で貰えばいいんじゃないの?」

「私、足遅いもん。秀人君得意でしょ。去年一位だったじゃない」

 そう言われて河本は、自分が去年ゴールのテープを切り、赤いリボンを貰ったという記憶が蘇ってきた。誰かと競争したというより、ピストルが放つ合図の音の中、緊張で無我夢中に走ってそれが一等という結果になった、という所である。昼のお弁当の時間に母親に転ばないでよく走ったね、と褒められた。幼い河本には誰かと競争して一位を獲ると言うことの意味がまだ理解できていなかったのである。ただ、走ればいいと認識していたのである。

ただ、実際の所、河本は体育の授業中、跳び箱やマット運動などでも非凡な才能を発揮し、先生から指名され、お手本としてみんなの前でやってみせる機会も多かったのだが、河本は、母親がそういうのに熱心で自分は週に一度の体操教室に通っているからだ、としか認識をしていなかったのである。まだ三年生の河本は自分の運動神経が優れているとは気づいていなかったのである。

それが。亜純とのやり取りで、一位を獲らなくてはならない理由が生まれたのである。一位を獲るということは簡単なことではなく、困難なものなのである。

 それから数日後の運動会。

 河本は徒競走で一等賞を獲った。証の赤いリボンを貰って体操着の左の肩につけた。

「お母さん、一等だよ、すごい?」

「そうだね。すごいすごい。お父さんに似たのかな?」

 子供のがんばりを嬉しいと思わない母親はいない。また、体操教室に通わせ息子の体幹を鍛えることがやっぱり正しかったんだという母親として自負もある。そんな所まで汲取る必要のない息子は母親の嬉しそうな表情をみて、一位に獲ったから喜んでくれていると思い、満足行くまで愛情のこもったお弁当を食べればよいのである。とにかく河本は一位を取る意味を理解したのである。

その日の帰り道では約束通りに亜純にその赤いリボンをあげた。

「ありがとう。秀人君ほんとに一位になるんだもん。驚いちゃった」

 自分の走りで一位を取った事により身近な人が嬉しそうにしてくれる。その事により、河本は競争に勝つ喜びを知ったのである。

亜純はその貰ったリボンをまだ使ってない筆箱に入れ、家の自分の部屋の机の引き出しにしまった。

 四年生のときも五年生のときも河本は運動会の徒競走では一等でゴールした。さらには持ち前の器用さも発揮し、障害物競走でも一位を獲ったりもした。そして、その赤いリボンはすべて亜純の使ってない筆箱にしまわれた。

 六年生になると、河本と亜純は同じクラスになった。揃って勉強が出来、同じマンションで塾に通う二人は時々周りから冷やかされた。

 その年の運動会では、春に測った記録を基に、レースで一緒に競う生徒を決めたのである。クラスでは一番速かった河本であるが、一緒に走る相手には市で行われた陸上競技会で二位になり学校集会で称えられた生徒がいたのである。さすがに今年の一位は無理ではないかと亜純は思っていた。予行演習ではほとんど同時であったが僅差で河本は負けてしまった。

「本番では絶対一等を獲るから」

 普段は控えめな河本が亜純に悔しがる姿を見せたのは、初めてだった。

 その頃の河本は徒競走で一位以外を取る自分など考えることができなかった。

運動会当日、その約束通り河本は一等を獲った。

 クラスの生徒たちの間で河本は一躍ヒーローの存在となった。「すっげぇなぁ」「河本が陸上競技会に出てれば一位だったんじゃない?」「韋駄天ってきっと河本みたいな人に使う言葉なんだよ」亜純も皆からそんな風に称えられる河本が誇らしかった。

 ピストルの合図と同時に飛び出し、地面を蹴り、腕を振り、ゴールを駆け抜けた。終わってみれば、その走りは毎年のことなのだが、その帰り道、河本からリボンを受け取るときはさすがに亜純の中に躊躇いの気持ちが生まれた。

「昨日の夜、家でさ、チーターが狩りをする映像何回も観たんだ」

 河本はそう言って笑った。

「ありがとう」

 亜純はそう言いリボンを受け取った。

 三月。亜純は家庭の事情で引っ越すことになった。整理中、机から出てきた筆箱に詰まった赤いリボンをみたら感傷的な気持ちになった。河本に返そうかとも思ったが、それも持っていくことにした。

 河本に勝つという理由を与えてくれた少女亜純とは、それでお別れとなった。そして、河本も中学生となる。そこで初めて壁にもぶつかる経験もする。それを語るのは、また次の項である。


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