第一話
今日も空は高く晴れ渡り、気持ちよく澄んでいた。
人の気持ちとは裏腹に。
「だめだ、ぜんぜんおさまらねぇ! むしろ増してる!」
「決壊するかもしれないな……」
「冗談抜かすな! そんな事になったら……」
焦った男達の続く言葉は飲み下された。
言霊というものがある。だから、はっきりとそれを口にしてはならない。堤防が決壊して村が流されてしまうなどとは。
普段は温厚なはずの人までが険しい顔で口論を始める。その横を小柄な少女が肩をすぼめて走り過ぎた。
少女はたどり着いた小屋に急いで入ると、戸を閉めてハァと息を吐いた。
陰鬱な空気とは裏腹に空は晴れ渡っている。ここ十日ばかり。
「なのにどうして? どうして河が氾濫するの?」
誰もが思っている疑問を口にして、自分ひとりの小屋を見回して涙ぐみ蹲る。
小屋は、一人分の生活用品しかなかった。正しくは二人分あるのだが、使われている形跡があるのは一人分だけだった。
少女はしばらく蹲っていたが、やおら立ち上がり頬を叩いた。
「不安なのは皆なんだから、うじうじしてても仕方ないじゃない。
大丈夫。決壊する危険が出てくれば皆で山手へ逃げればいいのよ。畑とか家とか、流されちゃうけど事前に動かせるものだけでも動かしておけば何とか乗り切れるわ」
うんうんと頷いて自身を納得させる。
「皆怖い顔しているからって私までしなくちゃいけないわけない。むしろこう、和ませるつもりなぐらいで」
にへらっと笑う少女。
「……違うわね。これじゃ怒らせるわ」
ドンドン
「いるかい?」
「! あ、はい!」
少女は慌てて表情を戻し、音を立てる戸を開いた。
「村長さん。どうしたんですか?」
「あぁ、ちょっとね話があって。お邪魔してもいいかい?」
「はい、もちろんです」
少女は戸を大きく開いて招きいれ、いそいそとお湯を沸かしてもてなし茶を出した。
顔にいくつも皺を刻んでいる初老の男はそれをすすり、小屋の中を見回した。
「カタリナのもの、まだあるんだね」
「あ……はい」
少女は申し訳ないという顔をして老人と同じように部屋に置かれた二人分の品を見た。
「私が持っていても仕方がないので、幾つかはお世話になっている方々にお渡ししているんですけど、でも手放しがたくって……ごめんなさい」
「いやいや、いいんだよ。……カタリナが死んでしまって一年か」
「……はい」
「あの時はお前さん、ひどく落ち込んで……皆心配した」
少女は曖昧に微笑んだ。
「無理もない。お前さんの唯一の家族だったんだからな」
「あの時は、私何も出来なくて……村の皆に支えられて、本当に感謝しています」
深々と頭を下げる少女に、しかし老人は年齢が刻む皺の上にさらなる皺を寄せて俯いた。顔を上げた少女は、老人が小さくが震えている事に気づき、空になった茶碗にお茶を注いで出した。
「すまない……すまない……」
何度も謝る老人に、何かを悟った少女は微笑を浮かべて首を横に振った。
「皆不安なんです。だから仕方がないんです。このままじゃ村が危ないのは分かっていますから」
「すまない……本当にすまない」
「謝らないでください。捨て子の私をここまで育ててくださったのは村の皆なんです。役に立てるならうれしいです」
「だが……わしはカタリナに」
「おばさんの口癖は『やるからにはきっちり』です。私が決めた事なら、おばさんはきっと何も言いません。だから、そんな顔をしないでください」
老人はそれ以上言葉を出す事が出来ずに嗚咽を漏らして、それがようやく収まるころにとぼとぼと帰っていった。
翌日。少女は白い装束に身を包み、村の男衆に囲まれて山道を登っていた。
目指すところは祈りの崖。そこは河に災いがあったとき、生贄を神に捧げ、災いを沈める儀式を行う神聖な場所。普段は決して誰も近づかない危険な場所だった。
男衆はちらちらと時折少女を盗み見た。少女はまっすぐに前を見据え、恐怖などどこにも見られなかった。むしろ男衆の方が言いようのない恐れにとらわれ震えているようだった。
祈りの崖にたどり着き、少女は前へと進み出ると後ろへ向き直り、男衆に向かって深く頭を下げた。
声をかけられない彼らをよそに、少女は顔を上げると微笑み躊躇なく崖から身を投じた。
迫りくる水の轟音。身体に受ける風。やがて水面に叩きつけられ、その後は濁流に飲み込まれてゆく。苦しいのは意識を失うまで。そう身体を硬くしきつく目を閉じていた少女は、いくら待てども訪れない衝撃にそろりと目を開けてみた。
ゴォォォォォ
目前に狂ったようにのたうつ濁流があった。
目前にあるという事は、その中にはいないという事だった。
状況が飲み込めず混乱する少女。
「っだるい!」
誰かの声がしたかと思うとふわりと身体が浮き、どさっと硬い地面に投げ飛ばされた。
何事なのかと身体を起こした瞬間、頭を固い何かにぶつけて呻く。
どうやら、狭い窪みのようなところに放り投げられたのだと、痛みが鎮まるころには理解できたものの、いったい何がどうなってそうなっているのか分からなかった。
「お前」
不意に声をかけられ、視線を上げると黒い魔物がいた。
逆光の中、その場だけ闇に塗りつぶされたように何も見えない。ただ、闇の中で目の白い部分だけが浮かび、縦に割けた瞳孔がこちらを見ているのが分かった。
「おい? 変なとこ打ったか」
硬直していた少女は、その声で我に返った。
次第に闇に慣れてきた目の前で手をひらひらとされている事に気づき、戸惑い気味に答える。
「いえ……だいじょうぶ」
「お前生贄か?」
生贄という言葉に、少女は己の立場を思い出した。
そう、濁流に身を投じてこの氾濫を沈めなければならない。それなのに、どうしてこんな事になっている。
「もしそうなら、とんだ勘違いをしてるぞ。お前が死んでもこの河は静まらない」
呆れた口調に、混乱していた少女の頭にカッと血が上った。
「っ! ……そんなことは分かっているわよ。だけど! だけど、それでもそうせずにおれないぐらい……皆不安なの。気休めにしかならないって……分かっていてもそれしか私たちには術がないの!」
祈りの崖から生贄を捧げても、必ず氾濫が沈められるとは限らない。それは、村の誰しものが分かっていながら口にはしない事だった。
もしかしたら、生贄を捧げれば静まるかもしれない。そんな不確かなものに縋ってしまうほど追い込まれている事を知っているから、少女もそれに従った。
「お前は気休めの為に死のうとしてたのか」
少女は高ぶる感情のままキッと黒い魔物を睨みあげた。
「悪い? それしか、私には返せるものがないのよ」
「返す?」
「私は捨て子で、村の皆に育ててもらったようなものだから。だから私は」
「逆らえない?」
「違う! そうじゃなくて、そういうんじゃなくて」
「じゃあ死にたがり?」
「違うわよ! どこをどう聞いたらそうなるのよ!」
少女は声を荒げて、けれど、のどの奥がきゅうとすぼまり続ける事が出来なかった。
死にたいわけじゃない。むしろそんなの嫌だ。怖い。だけど、それしか出来ない。返せない。
怖い気持ちを必死で押し隠して、押さえ込んでここまでやってきた。最後にきちんとお礼もして、皆の罪悪感がなくなるように震えそうになる歯を必死で噛んで固定して。ためらうと出来ないから、振り向くと同時に飛び込んだ。
あんな事、もう一度しろといわれて出来るかどうかわからない。
あの濁流を目前に見てしまったからなおさら。
「……い……おい!」
男の声に少女はハッとした。
「大丈夫か?」
少女は肩にかけられた手を乱暴に払った。
「大丈夫じゃないわよ! どれだけ勇気振り絞ってきたか! あんたのせいで台無しよ!」
「だから飛び込む必要は無いと思うが」
「あなたは他人事だから!」
「まぁそりゃそうだ……」
男はつぶやき、すぐそばの濁流に目を落とした。
少女は憮然としたが、幾分冷静になった頭で男を見た。
最初は魔物かと思ったが、よく見ればちゃんと人間だった。一番怖いと思った縦に裂けた瞳孔も、いつのまにか普通の形をしている。目が暗さに慣れていなかったのだろう。着ているものも色は黒だが、ごく普通の旅装だった。
見た目から判断すれば旅の人間なのだが、どうして旅の人間がこんな場所にいるのか少女は疑問がわき出てきた。
「あなた、なんでこんなところにいるの」
男はちらりと少女を見たが、面倒そうにすぐに視線を戻した。
「お前を助けたからだろ」
聞きたかったのは、この岩壁の窪みにどうしているのか。ではなくて、どうしてこんな山奥にという事だったのだが。
「何で助けたの」
「さっき言っただろ」
「さっき? …………『飛び込む必要はない』って事?」
「お前が自殺志願者だっていうんならとんだお節介なわけだが」
「…………もしかして……あなた根拠があって飛び込む必要は無いって言ってたの?」
「もしかしても何も、ここに神なんていないからな。魂捧げても受け取る奴が居なかったら意味がないだろ」
少女はなんとも言えない表情で男を見た。
見たところ、二十代半ば。どこかのすごい力をつけている修験者とかには見えなかった。なので、空想癖があるのか、はたまた思考がぶっ飛んでいる人なのかと思った。神様の存在は誰もが望みつつも本当は居ないものだと諦めて信じていないのに、見た目普通そうな男は本当に信じている風であった。
「お前……今、俺の事馬鹿にしただろ」
「いいえ」
「目が泳いでるぞ」
「……」
「そんなに言うなら見に行くか」
「何を」
「この河を暴れさせている元凶」
「元凶?」
「まずはこの崖をどうやって登るかだな……あぁ面倒くせ。お前重いしなぁ」
少女は額に青筋立てた。
「別にあなたに運んでもらわなくてもいいわよ」
「ほ~それじゃあこの崖をよじ登れるのか。そりゃたいした猿だな」
少女は益々青筋を浮き上がらせ、ぷいっとそっぽを向いて岩壁に向かって呼びかけた。
「ルーちゃん、いる?」
突然壁に向かって語りかける少女に、男はなんともいえない表情になった。それこそ少女が男を見ていた表情そっくりに。
が、生ぬるい表情も次の瞬間に一変した。
少女が語りかけていた岩壁から、するりと半透明の緑色をした女が現れ、少女を抱きしめるようにやさしく包み込んだ。
「うん、大丈夫。ごめんなさい、心配かけて」
女は少女の言葉に反応するように微笑んだ。
「それでね、ルーちゃんにお願いがあるんだけど、私とこの人を崖の上まで運んでくれない?」
女は『そんな事たやすい』というように頷き、片手で大事そうに少女を抱きしめると、もう片手でどうでもよさそうに男の襟首をつかんだ。そして次の瞬間には窪みからた出て空に舞い上がり、あっという間に崖の上まで運んでいた。
地面に足を下ろした少女は女に礼を言ってまたねと手を振った。そうすると女はすうっと消えてしまい、後には目を丸くしている男と少女の二人しか残らなかった。
「お前……魔術師なのか?」
「ま……まじゅ?」
「なわけないか。魔術師ならここで死んでも無意味だと気づくわな。
あぁ~気にするな。なんでもない」
「そんな言い方されると余計に気になるわよ」
青年は面倒くさいと顔に書き、さっさと歩き始めてしまった。
少女も憮然としながらその後を追って歩き始めた。
青年は川沿いに、上流へと歩いた。
さらに増している水かさを横目で見ながら、少女は手を握り締めた。やはり、飛び込むべきではないのか。その思いが頭をよぎる。けれど、それを考えるとすぐに体が震えだして、とても出来そうになかった。
「お前、さっきのアレは昔から使役しているのか?」
「え?」
「だから、さっきの半透明の女」
「ルーちゃんの事?」
「……アレの真名がルーちゃんとは思えないが」
「マナ?」
「本質を表す音……まぁあれだ、本当の名前の事。それはともかく、いつから使っているんだ?」
問われて、少女はむっとした。
「使ってるって言い方しないで。ルーちゃんは家族。他の皆も、みんな私の家族。子供のころから私を助けてくれているの。いつからなんて覚えてない。どっちかというとお姉ちゃんみたいな感じで、私にとっては家族なの」
「その家族、お前以外の人間にも見えるのか?」
「それは……」
少女は口ごもった。
彼らは少女以外の人には見えず、その事が分からなかった幼い時分は随分と奇異の視線を向けられた。その都度、養母のカタリナに他人が自分と同じ世界を見ているとは限らないと諭された。
「……あれ?」
少女は青年の背を見上げた。
「あなた、見えたの?」
「ん。まぁ」
軽い返答に、少女は目を見開いた。
「うそ! 本当に見えたの!?」
「だから聞いたんだろうが。いつから使役してんのかって。だけど、まさか物心つく頃からとは……恐れ入る」
「何なの? あなた何か知っているの?」
「このあたりでは何て呼称されるんだろうな。
人ならざるもの。自然の魂。はたまた精霊? 天狗? 鬼? 天使? んーどれも厨二くさい」
「なにそれ」
「ありゃ。ヒット無しか。じゃあ、人とは異なる法則の中で生きる存在で」
「異なる法則……?」
「分からないって顔だな」
ちらりと少女を振り返る青年の顔は笑っていた。
「怒るなって。俺だって完全に把握しているわけじゃない。
何となくでいいんだよ。完全理解は土台無理なんだから感覚で。
お前は奴らを家族と言ったが、人間だとは思ってないだろ?」
「それは……まぁ」
半透明だし、ふわふわと浮いている人も多いし、不思議な力を持っている。
「さっきの『人とは異なる法則の中で生きる存在』っていう表現は注意喚起の為の表現なんだよ。どんなに従順にしていようとも人とは異なる考え方をする存在だから気をつけろってね。お前の場合は物心ついた頃から一緒に居たんだから、今さら危険を心配する必要はないと思うけどな」
「……やっぱりよく分からない」
「だろうな。まぁ気にするな。お前が奴らが人間全員に見えるわけじゃないって事を理解してればそれでいいんだよ」
青年はそういうと、足を止めた。
随分と山の中に入っていた事に少女は気づき、青年がそっと伺う茂みの向こうをのぞいた。
「アレもお前の『家族』と同類の存在だ。でもって、河が氾濫している元凶」
茂みの向こうには小さな滝があった。その滝つぼに、伏して震えている女が居た。
身体は透き通っており、頭から足先にかけて青いグラデーション。人目で人間でないと分かった。
青年は何を思ったのか茂みをかきわけ女に近づいた。
青の女は音に気づいて顔を上げた。上げた顔には、深い闇のような眼窩がぽっかりとあいており、異様な様相を呈してた。嫌悪を抱くようなその顔に、けれど少女は胸を締め付けられた。怖いとか、気持ち悪いとか、そんなものではない。
分からないが、とにかく胸が苦しくて気づいたら青年を追って茂みをかきわけていた。
青の女は青年の姿に気づくと、ビクリと震えて滝つぼに飛びこんだ。
水面に波紋を残すことなく消えた女に、青年は頭をかいた。
その横をすり抜け、少女は水辺に手をつき水面を覗き込んだ。
「ねえ、どうしたの? どうしてそんなに悲しそうなの?」
「話しかけても無駄だぞ。アレは聞ける状態じゃない」
青年の言葉は少女の耳に入っていなかった。
何度も何度も、少女は水面に向かって尋ねた。
すると、滝で生まれる波紋とは別の波紋が現れ、そこから先ほどの青の女が現れた。
「うそだろ……まじかよ」
呆然とした顔で天を仰ぐ青年を尻目に、少女はさらに身を乗り出した。