輪の外側
第一部 現在
子どもたちは、自然に輪を作る。
誰かが合図を出すわけでもないのに、気がつくと円になって遊んでいる。それは水が低いところへ流れるのと同じで、あるいは鳥の群れが向きを変えるのと同じで、何の意図もなく起きていることだった。
三月の午後だった。まだ風が少し冷たい。
私は公園のベンチに座って、子どもたちを眺めていた。買い物の行きがけに寄っただけで、特に理由があったわけではない。ただ、足が止まった。
鬼ごっこをしているらしかった。一人の子どもが追いかけられて、ほかの子どもたちが四方八方へ散らばる。
「まてー」
声が上がった。歓声と悲鳴の混じったような笑い声が続く。輪はすぐに崩れて、またできる。子どもたちの動きはどこか有機的で、まるでひとつの生き物が呼吸しているように見えた。
その外側に、一人の子どもが立っていた。
遊んではいない。ただ、子どもたちの動きを目で追っている。輪が動くたびに視線が動く。輪が笑うたびに、口元が少し動く。呼ばれれば走っていけそうな距離だった。
けれど、誰もその子を呼ばなかった。その子も声を出さなかった。
私はその子から目が離せなかった。理由は、すぐには分からなかった。でも、しばらくじっと見ていたら、分かった気がした。どこかで見たことのある景色だったのだ。正確に言えば、どこかで感じたことのある空気だった。
子どもたちはまた輪になって走る。追いかけて、逃げて、笑う。
その外側に立っている子どもがいる。
私も昔、あの場所に立っていた。
幼稚園の頃、私はほとんど声を出さない子どもだった。先生に話しかけられても、言葉が出てこなかった。喉の奥に何かが詰まっていて、それが言葉の通り道を塞いでいるような感じがした。だから私は、代わりに首を縦に振った。あるいは横に振った。それが私の返事だった。
子どもたちは笑っていた。私は、その輪の外に立っていた。
第二部 幼稚園の記憶
子どものころ、私はよく教室を抜け出していた。
理由は、今でもうまく説明できない。ただ、教室の中にいると、体がざわざわした。それは不快というより、むしろ落ち着かないという感覚に近かった。窓の外から風の音が聞こえるのに、自分だけ分厚いガラスの内側に閉じ込められているような気持ちだった。
幼稚園の教室は、いつも魚の群れのように騒がしかった。
子どもたちは床に広げられたおもちゃの周りに集まり、誰かが何かをすると別の誰かも何かをした。誰かが笑うと、別の誰かも笑った。笑い声は次々に増えていき、やがて教室全体が揺れているように感じられた。騒がしさが、壁を伝って私のところまで来る。私はそのたびに、少しだけ体を縮めた。
私はその輪に入ることができなかった。
入りたくなかったわけではない。むしろ、入りたいと思っていた。子どもたちの笑い声は楽しそうで、輪の中は温かそうで、私はいつもその端っこを、少し遠いところから眺めていた。
けれど、声が出なかった。
何か言おうとして口を開くと、喉の奥で言葉が引っかかって、そのまま消えてしまう。何も言えないまま時間が過ぎ、また口を開く。また消える。何度か繰り返すうちに、最初から何も言わないほうが楽だということを覚えた。沈黙は、少なくとも失敗ではなかった。
だから私は、教室の入り口の近くに座っていた。廊下にすぐ出られる場所だった。それが一種の、私なりの安全策だったのだと思う。
ある日、先生が教室に入ってきた。
先生は若い女の人で、いつも明るい声で話していた。大きな声で、よく笑う人だった。子どもたちは先生のことが大好きで、先生が来るたびに集まっていった。どうしてだったのか、今でも分からないが、私はその先生のことが嫌いだった。嫌いというより、苦手だったのかもしれない。あの明るさが、眩しすぎたのかもしれない。
先生が話し始めたとき、私は立ち上がった。
誰にも何も言わず、教室の外に出た。廊下は静かだった。教室の中の騒がしさが、扉一枚で急に遠くなる。廊下の空気は少しひんやりしていて、それが気持ちよかった。
私はそのまま廊下を歩いた。上靴の音が反響する。どこへ行くかも決めていなかった。ただ歩いていると、隣の教室のドアが少し開いていた。中を覗くと、知らない子どもたちが、何かの活動をしていた。先生が前に立ち、子どもたちはその周りに集まっていた。
私は何の躊躇もなく、その教室に入って行き、隅に座った。今から思えば、ずいぶん図太い行動だったと思うが、そのときは何も考えていなかった。ただ、静かな場所を探していた。
しばらくすると、棚の上に小さな袋が置いてあるのが目に入った。近づいて見ると、お菓子だった。私はそれを手に取り、一粒口に入れた。
そのとき、背後から声がした。
振り返ると、私の担任の先生が立っていた。少し息を切らしていた。走ってきたらしかった。先生の目が私を見て、それから棚の上の袋を見た。
「すみません、うちの生徒が……」
先生は、隣のクラスの先生に頭を下げていた。少し困ったような、でもどこか諦めたような顔をしていた。
隣の先生は、笑って言った。
「全然、構いませんよ」
私は、その横で、お菓子を食べていた。
怒られると思っていなかった。実際、怒られなかった。先生は私の手を取り、しゃがんで、私の目を見て言った。「次は、先生に言ってね」。私は首を縦に振った。
でも、次の日も私は教室を出た。先生には言わなかった。言い方が分からなかった。
そういうことが、何度かあった。
ある日、外に出たとき、廊下の窓から中庭が見えた。中庭には木が一本あって、その下に子どもたちが集まっていた。何かを拾っているようだった。ドングリか、あるいは虫か。子どもたちが輪になって、真ん中に何かがある。みんな笑っていた。
私は廊下から、ガラス越しにそれを見ていた。
近づこうとは思わなかった。思わなかったというより、思いつかなかった。近づくという選択肢が、私の中になかった。輪の内側は、遠い国のような気がしていた。言葉が通じない場所のような、そんな気がしていた。
ガラスの冷たさが、頬に触れた。気がつくと、額をガラスにつけていた。
中庭の子どもたちは、まだ笑っていた。
第三部 高校時代
人と話すことが苦手だ。
でも、人が怖いわけではない。それは昔も今も変わらない。むしろ反対で、私は人に近づきすぎてしまうことがある。距離の測り方を、どこかで学び損ねたような気がする。
高校に入った春のことを思い出す。
幼稚園の頃とは違った。私は黙ってはいなかった。あのころ喉の奥に詰まっていたものが、いつの間にかなくなっていて、言葉は出るようになっていた。だから今度こそ、と思った。今度こそ、輪の中に入れると思った。
入学初日、私は隣の席の子に話しかけた。
どんな中学出身か聞いた。部活は何をするつもりか聞いた。好きな音楽は何か聞いた。相手ははじめのうち答えてくれていたが、そのうち返事が短くなった。私はそれに気づかなかった。あるいは、気づきたくなかったのかもしれない。
クラスの男子を、初日から呼び捨てにした。
なぜそうしたのか、今でも分からない。仲良くなりたかったのだと思う。仲がいい人たちは呼び捨てにするものだという、どこかで仕入れた知識を、そのまま使ってしまった。相手の顔が少し強張った。私はそれでも気づかなかった。
一週間もしないうちに、私は浮いていた。
誰かが意地悪をするわけではなかった。ただ、自然に距離ができていた。休み時間、私の周りだけ空気がほんの少し違う。話しかけると、返事はくれる。でも、それだけだった。話が続かない。笑いが起きない。その感覚は、幼稚園の頃と少し似ていて、でも全然違った。
幼稚園の頃は、声が出なかった。だから輪の外に立っていた。
高校では、声は出た。でも、それでも輪の外にいた。
どちらが辛いかと聞かれたら、私は答えられない。声が出なかった頃は、少なくとも理由が分かった。声が出ないから、入れない。シンプルだった。でも高校では、声は出る。言葉も出る。それでも入れない。理由が分からなかった。
ある昼休み、私は屋上に続く階段の踊り場に座っていた。教室に戻るのが億劫で、かといって行く場所もなくて、中途半端な場所で時間を潰していた。
そこへ、同じクラスの女子が来た。一人だった。
彼女も、どこか居場所を探しているような顔をしていた。私たちは少し話した。当たり障りのない話だった。でも、それだけでよかった。
彼女は「ここ、静かでいいね」と言った。
私は「うん」と答えた。
それだけだったけれど、その日の帰り道、私は少し軽かった。
でも、そういうことは続かなかった。彼女にはすぐに友達ができて、踊り場には来なくなった。私はまた一人で座るようになった。
幼稚園の頃、私は教室を出た。高校でも、私は教室から遠ざかった。場所は違っても、やっていることは同じだった。輪の中に入れないとき、私は外に出る。それが私の、唯一の対処法だった。
輪に入る方法を、私はまだ知らなかった。いや、正確に言えば、輪の入り口がどこにあるのかが分からなかった。みんなが当たり前のように出入りしているドアが、私にだけ見えない。そういう気持ちだった。
第四部 エピローグ
帰り道、私はまた公園の前を通った。
子どもたちがまだ遊んでいた。日が少し傾いて、影が長くなっていた。風は、来たときよりも冷たくなった気がした。
私は立ち止まった。
あの子は、まだいた。
輪の外側に、一人で立っている。さっきと同じ場所で、さっきと同じように、ただ子どもたちの動きを目で追っている。輪が動くたびに視線が動く。輪が笑うたびに、口元が少し動く。
私は声をかけようと思った。
一歩、近づきかけた。でも、やめた。
何を言えばいいのか分からなかった。こんにちは、でも違う気がした。一緒に遊ぶ? それも違う気がした。何を言っても、的外れになりそうな気がした。私は大人で、相手は子どもで、それ以上に、私はまだうまく話せない。言葉は出る。でも、その言葉が正しい場所へ届く自信がなかった。
だから、ただ見ていた。
子どもたちが笑う。輪ができる。崩れる。また、できる。
あの子は動かない。
でも、気がついた。あの子は、逃げていないのだ。
幼稚園の頃の私なら、とっくに教室を出ていた。廊下へ出て、隣の教室へ入って、棚の上のお菓子を食べていた。高校の頃の私なら、踊り場へ行っていた。輪の見えない場所へ、一人で消えていた。
でも、あの子はそこにいる。
輪の外側に立ったまま、ただそこにいる。逃げもせず、でも輪に入ろうともせず、ただ、そこにいる。それだけのことが、私には少しうらやましかった。あの子が持っていて、私が持っていないものが、そこにある気がした。
それが何かは、うまく言えない。
勇気、とは少し違うような気がする。諦め、でもない。ただ、そこにいること。それだけのことなのに、私には長い時間がかかった。輪の外に立ちながら、逃げずにいること。そのことの意味が、今日初めて少し分かったような気がした。
風が吹いた。
子どもたちの声が、風に乗って遠くなった。
私は歩き始めた。
途中、また振り返った。
あの子は、まだそこにいた。
私は、ずっとあの場所に立っているのだと思う。歳を取っても、言葉が出るようになっても、私は輪の外側にいる。輪の入り方を、私はまだ知らない。多分、これからも分からないかもしれない。
でも、あの子を見て、少し思った。
逃げなければ、それでいいのかもしれない。
外側に立ち続けること。それが、今の私にできる、精一杯のことなのかもしれない。
夕方の光が、公園の木々を橙色に染めていた。
子どもたちの声が、遠くに聞こえていた。
──完──




