第10話:届く声、揺れる王都
戦場に吹く風は冷たく、血と鉄の匂いを運んできた。
林道の死闘を経て、アールディア軍は辛うじて体勢を立て直していた。
補給を断たれた祖国エルディナ軍は徐々に動きを鈍らせ、戦は膠着状態に入ろうとしている。
私は天幕の中で文をしたためていた。
戦況報告に加え、農民たちの被害状況、難民の流入数。
戦は兵士だけのものではない。民をどう守るかが、国の命運を分ける。
「セレスティア様、また徹夜で……」
侍女が心配そうに声をかけてきた。
「平気よ。書かなければ伝わらないものがある」
震える指を止めずに、私は羽ペンを走らせた。
――この声が、届くと信じて。
◇
数日後。
私の書いた報告書と演説の内容は、使者によって各地へと運ばれた。
「追放された王妃が隣国で人々を導いている」という噂は瞬く間に広まり、やがて祖国の王都にまで届いた。
「ご存じですか? あのセレスティア様が、アールディアで民を救っておられるとか」
「まさか。追放された身だろう?」
「だが、戦況は彼女の策によって逆転したと……」
酒場でも市場でも、囁きは広がっていった。
宮廷の壁の中にも、それは静かに浸透していく。
◇
王宮の一室。
「……姉様の噂が、ここまで」
リリエッタは窓辺で囁いた。
噂は単なる民衆の憧れに留まらず、王侯貴族たちの間にも波及していた。
「追放は間違いだったのではないか」
「宰相が仕組んだという話もある」
さまざまな憶測が飛び交い、権力者たちの間に亀裂が走る。
宰相は苛立ちを隠さず、机を叩いた。
「くだらん! 追放された女など亡霊にすぎぬ! 殿下が新たな王妃を娶れば、この国は安定するのだ!」
だが、アランは違った。
彼は静かに噂を受け止め、誰よりも深く胸を痛めていた。
◇
「殿下、耳を貸してはなりません。あの女は裏切り者なのです!」
宰相の声が玉座の間に響く。
「国を捨て、敵国に走った者を弁護するなど、王家の威信に関わります!」
アランは沈黙したまま、ゆっくりと立ち上がった。
「……裏切り者、か」
その声には冷えた鋼の響きがあった。
「ならば、我が心もまた裏切りに沈んでいるのだろうな」
宰相の顔が引きつる。
「な、何を――」
だがアランはそれ以上言わず、玉座を後にした。
その背に宿る影は、誰にも測れなかった。
◇
一方、アールディアの陣営。
私は町に避難してきた人々に手を差し伸べていた。
疲弊した母に食糧を渡し、傷を負った少年の手を包帯で覆う。
「ありがとう、王妃様」
小さな声に胸が熱くなる。
――王妃。
皮肉なものだ。祖国では奪われたその称号が、今ここで民の口から自然と呼ばれている。
「セレスティア様、噂は祖国にまで届いています」
ジルヴァートが報告をもたらした。
「王都では、あなたの名が囁かれ、民の心を揺さぶっていると」
私は息を呑んだ。
――届いたのだ。
私の声が、祖国に。アランに。
その瞬間、胸に去来したのは憎しみではなく、かすかな祈りだった。
どうか。どうか、あの人もまた耳を傾けてくれますように――。
◇
夜。
祖国の王宮にて、アランは一人机に向かっていた。
蝋燭の炎に照らされたその手元には、一通の文。
それは密かに届いた報告書の写し。
“セレスティア様の策により、敵軍は補給を断たれた”
彼は目を閉じ、深く息を吐く。
「やはり……君は生きていたか」
だが同時に、宰相の影が彼の周囲に濃く落ちる。
謀略の網は王都を覆い、リリエッタすらその中で翻弄されている。
「……真実を暴くには、この戦を制するしかない」
アランの瞳に宿った光は、決意とも絶望ともつかないものだった。