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「そういえばね、今日ギルフリート先生が片方のほっぺたに湿布を貼ってらしたのよ」
制服を脱ぎながら、ふとお嬢様がそう言った。
「まぁ……そうですか」
思わずピクリと眉が動く。
(女の人だ。)
直感的にそう思った。
アクセスが殴られる――というか、甘んじてそれを受け入れるという事は、おそらく女性関係だ。
まず間違いなく。
私はお嬢様のグレーのロープをハンガーに通しながら、小さく息を吐いた。
(別に、アクセスに彼女がいても驚かないわ。)
むしろいて当然だろう。
そう思うのに、胸の中がささくれだったように落ち着かない。
(こんなの、昨日の今日だからよ……。大丈夫、そのうちこの痛みも思い出になるわ)
大丈夫。大丈夫。
そう祈るように、ハンガーをクローゼットにかけて振り返ると、お嬢様が私をじっと見ていたことに気がついた。
ぎくりと背中に緊張が走る。
「……お、お嬢様……?」
「シンシア……やっぱり何か変じゃない?」
「へ、変ですか?えっと……その、何か不手際が……」
「あ、違うの!そうじゃなくって!えぇっと……その……よくやってくれてるわ、シンシアは……いつもと変わらず。……でも、昨日から、何だか表情が暗いような気がするの」
お嬢様は言葉を選びながら、上目遣いに私を見た。
「……なにか、あった?」
「っ……」
その猫のような目が、心配に揺れている。
私は喉元がカッと熱くなるような気持ちがした。
優しい子に育ってくれたという嬉しさと、気を使わせてしまった情けなさ。
そして少しだけ自分が嫌になる。
「……いいえ。何も……ありませんよ」
そう私は眉を下げて微笑む。
全てはあの日から。
母親に服をはぎ取られ、見知らぬ男の人と納屋に閉じこめられたその日から、私は本音を打ち明けるのがとても苦手になってしまった。
誰かを信じるのが、とても怖くて。
「……そう」
お嬢様が掠れるような声でそう呟いた。
静かな部屋に衣擦れの音だけが響く。
ワンピースの左袖に左手が通され、あとは背中のボタンを止めるだけ。
するとお嬢様が私を呼んだ。
「ねぇシンシア」
「はい」
「シンシアは星に導かれる二人って知ってる?」
「星に導かれる二人……ですか?」
何だろう、懐かしい。
その名前の響きを、昔に聞いたことがあるような……。
私は記憶をたどった。
羊皮紙とインクのにおい。クラスメートのざわめき。タペストリーの並んだ壁と、『占星術とは〜』と独特なイントネーションで語られるロマンの話。
「……占星術、でしょうか?」
「そう。今日の占星術のオリエンテーションで、先生が言ってたの。星に導かれる二人。生まれる前から出会うことが決まっていて、生まれ変わってもまた出会う二人。恋人なのか、親友なのか、はたまた宿敵なのかは分からないけれど、そういう運命の人が誰にでも一人はいるんですって」
「まぁ。そういえば、そんなテーマもありましたね」
すっかり忘れていた。
昔はあんなに熱心に聞いていたのに。
思わずくすくす笑うと、お嬢様は指を何度も組み替えながら言った。
「わたくしね、わたくしの星に導かれる二人は、シンシアだと思っているの」
「まぁ……!」
「……嫌?」
こちらを振り向くお嬢様はむくれ顔だ。
私はその可愛らしい顔をなで回したい欲を堪えながら、微笑んだ。
「とんでもありません。嬉しいですわ」
そう言うと、お嬢様も笑ってくれる。
実際、本当にそうなのかもしれない。
もし本当に、この世に星に導かれる二人なんてものがあるとしたら、お嬢様が私の運命の主人だ。
身を引き裂かれるような恋に敗れて、14年。
この長い長い闇の中で、まるで星のように私を導いてくれたのは、間違いなくお嬢様の成長だった。
「ありがとうございます、お嬢様」
思い描いていたものではないけど、私にはこの幸せがある。
私はお嬢様の笑顔を目に焼き付けながら、そう思った。
朝が来て、夜が来て、また朝が来る。
疼くような胸の痛みも、日を追うごとに薄れていって、学校帰りのお嬢様がまとう空気に昔を思い出すことも少なくなっていった。
それに現実問題、泣いているだけではご飯は食べられないのだ。
たとえ薄情だと言われようと、働かなければ生きていけない。
「ふぅ、もうそろそろ出なくちゃね」
屋敷のダイニングルームにかかった柱時計を見て、私は塵を捨て、箒を片付けた。
お嬢様が学校に行かれた後もやることはたくさんある。
リネン類の回収、屋敷の掃除、奥様の主治医対応、リハビリ付き添い、明日の夕食の相談、郵便出し、せっけんとインクの注文、郵便物の仕分けetc……。
屋敷中のありとあらゆる雑事を他の同僚達と協力しつつ対応しているうち、気がつけばお嬢様が帰ってくる時間だ。
(今日、お嬢様はどんな一日を過ごされたのかしら……)
私が首を長くして待っていると、見慣れた車が屋敷の門を通り抜け、玄関前までやって来た。
一目で分かる黒塗りの丸いフォルム。
なんでも、旦那様が愛娘に似合うからと他国から取り寄せたものらしい。
ガチャ
「おかえりなさいませ、お嬢様」
「ただいまシンシア!」
「学校はいかがでしたか」
「とっても楽しかったわ」
お嬢様が車を下りるお手伝いをして、運転手から荷物を受け取る。
と、その中に見慣れない物があって、私は首を傾げた。
「これは……?」
「あ!シンシアは知ってる?妖精の眠る花よ」
「まぁ、これが本物の……」
私は手のひらに乗る程の小さな鉢に目を落とした。
薄茶色い陶器の鉢。
その真ん中に支柱が一本立っていて、緑色の葉が4つと薄黄色のつぼみが1つ、頼りなさげに支柱にもたれかかっている。
「これは……まだ、苗なのでしょうか?」
「ううん、それでもう成長しきっているのですって。明日の朝には妖精が生まれかもしれないそうよ」
「まぁ」
私は手のひらに鉢を乗せて、その可愛らしいつぼみをじっと見た。
妖精の眠る花。
妖精が子どもを産みつけた花の事で、最初にその花が開く時、花びらの中から妖精が生まれるのだ。
自分がまいた種に妖精が宿るかの実験は魔性植物の授業の定番。
でも、人が種をまいた花に妖精が子を産みつけることはとても珍しく、私の時は全滅だった。
だからこそ、自分のまいた種から生まれた妖精は幸運を運んでくれるなんて迷信もある。
「この子はどんな幸運を運んできてくれるのかしら」
「ふふっ、楽しみですね」
屋敷の中に入りながら、私はお嬢様に微笑みかけた。
「花が咲いたら、奥様もお呼びしましょうか」
そう言った時、手に持った鉢がかすかに震えたような気がして、下を見る。
そして私は思わず足を止めた。
「えっ……?」
さっきまで薄黄色だったつぼみが赤く膨らんでいたのだ。
まるで花が開く寸前のように。
(でも、さっきまでは固く閉じていたのに……!)
「お、お嬢様……!」
「なに、どうしたのシンシ……ッ?!」
お嬢様が振り返る。
その途端、シュッと目の前で何かが天井へ飛び上がった。
「きゃあっ!」
「お嬢様!」
お嬢様が悲鳴を上げる。
たまらず私は鉢を捨てて駆け寄ると、お嬢様を庇うように前に立ち塞がった。
「シ、シンシア……!」
「お嬢様!頭を低く!しゃがんでっ!」
ガチャン、バシン、ガシャシャン
何かが滅茶苦茶に飛び回って、窓やライトや壁に激突している。
まるで空気砲だ。
速すぎて目で追いきれない。
「ピィィイィイィー」
廊下にホイッスルのような音が鳴り響く。
(これは、悲鳴……?だとしたら、やっぱり暴れているのは妖精……?!)
と、突然それが軌道を変えた。
絵の額縁から弾かれるようにまっすぐ私達の方へ。
(来るっ……!)
私は恐怖に腰が引けながら、足を踏ん張った。
目を見開いて、対象をよく狙う。
「っ、吹いて巻きとれ……!」
私が唱えたのは勢いを打ち消す風魔法。
でも、それはあっさりと上にそれてしまった。
(やっぱり当たらない……!)
ああ、速すぎる。
身体に力が入って、上手く息が吸えない。
次の呪文を唱える前にぶつかってしまう。
(もう体当たりで受け止めるしか……っ!)
『大丈夫』
奥歯を噛み締めたその時、懐かしい声が聞こえた。
『シンシアは出来るさ』
その声に導かれるように私は手の平を向けた。
「だ、大丈夫……!」
バシンッ!と私の手のひらの先で、何かがぶつかる。
衝撃はない。
とっさに出せたのは、盾の魔法だ。
魔法で作った透明な壁越しに、もぞりと動く生き物の気配。
ああ、それさえも懐かしい。
『大丈夫、大丈夫。シンシアなら、できるよ。あれだけ特訓しただろ?』
「大丈夫……できる、大丈、夫……」
標的を定めたのか、私に向かって二度、三度と襲い来る妖精。
私は目で追いきれないそれを感覚だけで防いでいく。
防げている。
「シ、シンシア……」
「大丈夫、できる、できる……」
バシン、パシン、と突進してくる音はまだ続いている。
右、正面、左上、真横。
それでも位置もタイミングも違えずに、正確に盾の魔法を繰り出せている。
アクセスのおかげだ。
昔、あまりの自分のセンスのなさに、アクセスに特訓に付き合ってもらったことがある。
放課後、学校の奥にある森の中で、アクセスはよく言っていた。
難しい顔をして、火球をボールみたいに指先で回しながら……。
『シンシアって、本ッ当にノーコンなんだな……』
ノーコン。
ノー・コントロール。
つまり、めちゃくちゃ魔法を当てるのが下手という意味である。
「っ、鈍くさくて、悪かったわねっ……!」
バシン!
「あ」
いらない事まで思い出したせいで、つい力が入ってしまった。
壁と盾魔法の間に挟まれて、妖精が儚い声を出す。
「ピキュゥー……」
「……あっ!やだ、ごめんなさい!」
まさか、押し潰してしまっていないだろうか。
お嬢様のまいた種に初めて宿った妖精を。
ドキドキしながら走り寄ると、妖精はただ目を回しているだけのようだった。
床に落ちているそれを見て、私は頭を捻る。
丸い耳に尖った鼻、手足には鋭い鉤爪を持ち、背中には鳥のような羽……。
(たぶんネズミ……いや、モグラ……ううん、モルモット?)
まぁ何にせよ、これで大人しくなるだろう。
私はその妖精を持ち上げて、暴れないように体をハンカチで包むと、お嬢様を振り返った。
「お嬢様、お怪我は……?!」
「な、ないわ。平気よ、シンシア」
座り込んだまま首をふるお嬢様。
私はほっと胸をなでおろした。
その間にも、同僚達が騒ぎを聞いて次々に集まってくる。
私は起こったことの説明をしつつ、後片付けをお願いした。
それと、頑丈そうな虫かごも。
「さぁ、お嬢様。お部屋へ。妖精は取りあえずうちで一夜預かって、明日先生に見ていただきましょう」
「えぇ……分かった。そうするわ」
妖精を同僚に預けて、私はお嬢様の背に手を添えて立ち上がる。
すると、お嬢様が秘密の話でもするみたいに目配せをした。
「すごいのね、シンシア……さっきのって、無詠唱魔法でしょう?誰にでもできることじゃないわ……」
「あらまぁ、えへへ……ありがとうございます」
呪文を唱えずに盾魔法を出した所をしっかり見られていたらしい。
私は頬を掻きながら、はにかんだ。
「でも、あの、本当……私が実戦で使えるのなんて、この魔法くらいなんですけどね」
「いいえ、でも十分すごいわ。どうやって身につけたの?」
「それは……」
言いかけて、私は目線を宙に向ける。
あれは2学科の中間考査だったか。
あまりに攻撃系の魔法が使えなくて、あわや落第かと泣きそうになりながら居残りしていた私に、アクセスが言ったんだ。
『大丈夫。とりあえず感覚で盾魔法を発動できるようになるまで、俺がちゃんと付き合うから――だから、もう泣くなって』
優しく、戸惑いながら私の頬に触れた彼の指を思い出して、思わず笑ってしまう。
「ふふっ。……とても、面倒見のいい先生がいたんですよ」
「えぇ~?だれ?」
「さぁ、秘密です」
不満げなお嬢様を笑いながら宥めていく。
きっとこの先も、こんな日々が続くのだと、私は疑いもしなかった。




