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『――花?……えー?うーん……そうだなぁ……あっ、エリソニウム!』
誕生花なの。
はにかむように言った君の顔を、まだ覚えている。
『エリソニウム……』
まだ霧の濃い春先。
うつむき加減にその淡い紫色の花弁を覗かせる花の名前を、その時、俺は初めて知ったんだ。
「……アクセス?ねぇ、アクセス。聞いてるの?」
転移魔法でも使ったみたいに、意識が現実へと引き戻された。
俺はパチパチとまばたきを繰り返す。
店内の豪奢なシャンデリア。
ウェイターの後ろにある鏡張りの壁と、そこに映った客達の顔。
(いや、それよりも……。)
俺はテーブルを挟んで座る彼女の顔を見た。
形の良い眉が静かな怒りを表すようにつり上がっている。
「っ……あぁ、うん」
「ハァ……どうだか。何だか貴方、今日は一段と上の空ね」
そうため息を吐いて、彼女はカールした金髪を長い爪で背中の後ろへ押しやった。
流れるような動きで、現れる白い胸元。
俺はそっと視線をそらして眉間を押さえた。
「ごめん。ちょっと、疲れてるみたいだ」
「あらそう。今日入学式だったんでしょう?ニュースでやってたわ」
「あぁうん、きっとそのせいかな」
「ふぅん。本当に?」
「えっ?」
聞き返すと、彼女はますます眉間に皺を寄せた。
「フン。見くびらないでよ。そんな事言って、他の女のことでも思い出してたんでしょう?」
「そんなんじゃないよ。なんで急にそんな事……」
「"エリソニウム"の女」
「っ!」
エリソニウム。
その花の名前に、思わず顔を上げた。
それは彼女の花だ。
2年生最後のダンスパーティー。
そのパートナーを申し込む時に渡すつもりでいた……シンシアに。
「やっぱり」
「…………」
微動だにしない俺に、彼女は自嘲するように口角を上げた。
「……どうしてって顔ね。いいわ、教えてあげる。昔、一度だけデートにコヴァーチの新作スカーフをつけてきた事があったの。貴方、そのスカーフのモチーフを見て『エリソニウムだ』って言ったのよ。薔薇とポピーの違いも分からないような貴方が」
「…………」
「……元カノ?」
彼女はそう言って、バッグの中からタバコを取り出した。
それから唇の先で小さく呪文を唱え、火をつけると、タバコをくわえた。
ふうと宙に浮かぶ煙。
彼女はタバコを指に挟んだまま少し身を乗り出し、テーブルに肘をついた。
青い瞳が俺を覗く。
「……ねぇ、私のこと、ちょっとでもその子より好きだった?」
探るような視線。
思わず目をそらした俺の頬を彼女の平手が襲った。
ばしん!!
じんと熱を持つ頬。
一瞬、レストランに静寂が訪れた。
みんなの視線が俺達に注がれる中、彼女はナプキンを皿に叩きつけて立ち上がる。
「死ね、このクズ野郎」
「…………」
背後で小さく息を呑む音が聞こえた。
でも本当にその通りだ。
何の言い訳もできない。
黙ってうつむく俺に、彼女は大きな舌打ちを投げつけて去っていった。
カツカツと響くヒールの音。
その背中が店の外に消えて、ようやくざわめきが戻ってきた。
「……ハァ」
「お水をお持ちしましょうか、旦那様」
「いや、結構」
気を利かせてくれたウェイターにチップを渡して、俺もゆっくりと立ち上がる。
流石にこの空気の中にいる気にはなれない。
視線を感じながらいくつかのテーブルを過ぎたところで、ふと目の前に女の手が伸びてきた。
「あら、いい男じゃない。私達と一杯どう?」
「ありがとうレディ。また会えたらその時に」
挨拶のキスをする振りをして、さっとウェイターの開けてくれたドアから店を出る。
途端に春の生ぬるい風が吹き付けた。
レンガの土臭いにおいが鼻につく。
すぐ側を車と馬車が並ぶように走っていった。
全く、王都は人が多くて嫌になる。
俺は車通りを避けるように8番街を西へ回った。
車進入禁止の標識がある通りをさらに西へ、どんどん細くなる道を横断して、突き当りまで行けば、そこは大きな川の流れる堤防だ。
俺は等間隔に並んだガス灯の下を歩いていく。
指がポケットのタバコへと伸びた。
いつもの癖だ。
でも、止める理由もない。
「ふぅ……」
息を吐けば、紫煙の中にシンシアの顔が浮かんでくる。
かつて"妖精"と言われていた雰囲気は、驚くほどそのままだった
澄んだ翡翠の瞳も、つんと上を向いた上唇もまるで変わらない。
ただ、あの頃着ることはなかった黒い服と一つにまとめた髪型が、この14年の歳月を感じさせた。
「……ハァ」
それでも、どうしようもなく、綺麗な女だった。
目が離せないほど。
「……駄目だろ俺、相手はもう人妻だぞ」
しかも恐らく今年の新入生の保護者。
新入生の年齢的にシンシアが生んだ子どもという線はありえないから、夫の連れ子か、養子か、他には……どんな選択肢があるだろう。
シンシアが今どこで、誰と、どんな生活をしているのか、考えただけで、胸が掻きむしられるように苦しくなる。
「……もう昔のことなのになァ」
俺は遠くに見える街の明かりを見つめた。
あのどれかの下にシンシアがいるのかもしれない。
そう思うと、その光がとても遠く感じた。
14年だ。
長過ぎる年月が経った。
それなのに俺は、あの日奪われたという感覚がまだ忘れられない。
シンシアもきっと、最初は騙されたのだろう。
それでも彼女が結婚させられたと聞いて、彼女の友人の名前を借りて出した手紙にはなんの返信もなかった。
それがシンシアの答えなのだと言われた。
『もう止めろ、アクセス』
『そうだな。こんなもの、見る人が見ればお前だって分かるだろう』
『ええ。ギルフリートくんは侯爵家の嫡男。貴方にこんな手紙をいつまでも送られたら、きっと嫁いだシンシアの立場は悪くなるわ……』
『祈ることしかできないのよ……』
分かっている。
友人たちの言葉は正しい。
どれだけ勝手でも、家同士が決めた結婚で、俺がそれを知った時にはもう全て終わっていたんだから。
そう、何もかもが遅かった。
でもそれがシンシアの幸せなら、と歯ぎしりしながら引き下がった。
もう14年前のことだ。
「……幸せなら、それでいい」
何度も噛みしめた言葉を、あの時と同じように呟く。
今夜は寝られるだろうか。
恐らく腫れているはずの左頬よりも、胸が痛かった。




