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「それでねそれでね!赤い箒寮の談話室も見せてもらったの!まだ入寮はしていなくても、わたくしたち通学組も使っていいんですって!ほら、シンシアの話に出てきたあの真っ赤な廊下!わたくし、初めて見たときはもうビックリしてしまって!」
「えぇ……」
「講義棟もすごく古いけれど、とても専門的ね!見たこともない魔性植物の標本が並んでたわ!図書室なんて感動ものよ!それに先生方もとっても親切!中でもやっぱり、ギルフリート先生ね!」
「っ!」
「とても親しみやすい先生だったわ!聞き取りやすいし、丁寧だし、面白いし、おまけにあの素敵なお顔立ち!どうしてまだ独身なのかしら?本当に不思議だけど、まあとにかく、ギルフリート先生が担任の先生だなんて、わたくし達とてもラッキーねってクラスの子とお話してたの!」
「……まぁ、そうでしたか」
致死量のきらめきを放つお嬢様の隣で、私はフッと息を吐いた。
できるだけ肩の力を抜いて、できるだけ何の感情もないように、運転手から荷物を受け取る。
分厚い紙袋の中には、配られた教科書や参考書がいっばい入っていて、10分もすれば底が抜けてしまいそうだった。
「お嬢様。それでは私、こちらの教科書類をお部屋に置いてまいります」
「え!あらそう?分かったわ、じゃあまた夕食の後にね!」
「はい」
はずむような足取りで食堂へ消えていくお嬢様の背中を見送って、私も屋敷の中へ入る。
お嬢様を出迎えに来た同僚達が、「お疲れ」と私に目配せをした。
それに微笑みを返して、廊下を曲がる。
(あ、やっと、誰もいない)
それを確認して、私は許される最大速度で階段を駆け上がると、お嬢様の部屋のドアをガチャリと開けた。
そして間者のようにドアの隙間に身を滑り込ませ、スカートでドアを閉める。
ガチャリ
「はぁ……」
堪えきれなかった深いため息が漏れた。
14年。
会わなかった間に、彼は大人の男になっていた。
すてきな、大人の男に。
「っ〜〜」
私は紙袋の横に座り込んだ。
思い出すだけで、胸が苦しくなる。
記憶と変わらない金の瞳はほんの少し影があって。
私より少し広かっただけの肩幅は、きっともう追いつけないくらい。
背も、遠かったから分かりづらいけど、きっと見上げるように高くなったのだろう。
その大人らしい余裕と頼もしさに、つい心が動いてしまう自分がいる。
「……ばか、ばか、ばか、ばか……」
何を考えているの。
もう、昔のことなのに。
胸の中から何かが溢れそうになって、自分で自分を抱きしめた。
誰にも奪われたくない。
そう固く心に決めてここまでやって来たのに。
こんな簡単に揺らぐなんて。
「っ……」
自分を睨みつけるように眉を寄せる。
するとふいに、コンコンと扉がノックされた。
「……ブラット侍女長、いますか」
「……っ!はい、ペレス家令!」
その声に私は床から飛び起きる。
私達使用人のトップであるペレス家令は、御年75歳。
私が新米の頃からこの家をとりまとめているすこい人で、その目は厨房の隅にある食器棚の裏の埃にまで行き届くほどだ。
大焦りでドアを開けようとした途端、静かな声がそれを止めた。
「いえ。そのままで結構。……ブラット侍女長、お嬢様がお呼びですぞ。そちらの整理がつき次第、ダイニングに来るように」
「は、はい、承知いたしました。すぐ向かいます」
「えぇ。では……」
それだけ話して、あっという間に去っていく磨き上げられた靴の音。
私は目を丸くしながら呟いた。
「何だったんだろう……」
様子を見に来られただけ……?
でも、なんで今……?
首をひねって、それからハッとする。
いや、それどころじゃない。
今はとりあえずこれを片付けないと!
それから私は自分史上最高の手際で教科書や参考書を整理して、お嬢様の待つダイニングへと向かった。
仕事をしている間は、それでよかった。
お嬢様の楽しげな様子に微笑み、奥様や旦那様に聞かれた事に答えながら、あれこれとお世話をしていると、アクセスの事なんて考えなくてすんだ。
でも、一足早くお嬢様がお休みになって、今日の片付けや明日の確認も全部終わって、あげくペレス家令に「ブラット侍女長は早くお休みなさい」なんて言われてしまえば、もう自分の部屋に下がるしかない。
(今だけは、仕事してたいのに……)
「はぁー……」
私は紅茶の入ったマグカップを持ち上げ、息を吐いた。
鼻の下にあたる湯気がゆらりと揺れる。
(そういえば、彼の体温もこんな風に熱かった。)
そう思うと、唇が、頬が、耳が、私の体が、勝手にアクセスを思い出し始める。
あの優しいまなざしを、シンシアと呼ぶ声を、深爪がちな指先のざらついた感触さえ。
「っ……」
がつんと、大きな音を立てて、マグカップがテーブルに置かれた。
幸い、カップは割れなかった。
(アクセスは……まだ結婚してないらしい。)
そうお嬢様は言っていた。
でも、それはもしかしたら、来月結婚するという事なのかもしれないし、結婚式の予定はなくても、婚約者はいるという事なのかもしれない。
そのどれでもおかしくない。
だって、もう30歳だ――私たち。
私はぐっとマグカップの持ち手を握りしめ、熱い紅茶を一口飲んだ。
「っ!あつ……っ」
すると、喉と食道がヒリヒリするような熱さに襲われた。
ゆっくり飲めばいいのに。
自分の、こういう所が嫌になる。
「もう……っ」
浮かんだ涙を全部熱さのせいにして、私は代わりにフォークを握りしめた。
お皿に乗っているのはシェフの試作品、春苺のホワイトクリームケーキだ。
舌は痺れているけれど、兎にも角にも冷たいクリームをフォークの先ですくう。
もったりとしたクリームはあっという間に口の中に溶けていった。
「……おいしいなぁ」
もう一口フォークですくう。
今度はスポンジごと。
また口の中に広がるクリームの甘さと、仄かな苺の香り。
でも目に浮かぶのは、涙だ。
「ぐすっ……あ゛ー。おいしいなぁ゛ー」
涙がぽたぽたと、ケーキの隣に落ちる。
息をすれば、鼻のつまっている音がした。
(最悪だ。最悪。)
大人になったら、当たり前にコーヒーが飲めると思っていた。
ケーキの上に乗ったバジルも、クリーム・ブリュレの苦いところも、大人になったら全部平気になると、理由もなく思っていた。
でも、そんなことはないのだ。
私は今も、中身の大事なところはまだ、あの頃のまま。
「うぅぅ…………」
でも、抑えなきゃいけない。
アクセスはもう、私の手の届かない所にいる人だ。
お嬢様の担任教師。
そして南部の広大な領地を治めるギルフリート侯爵家の嫡男。
そもそも、元貧乏子爵家の私とは釣り合わない人だ。
あんな別れ方じゃなかったとしても、私達はいずれ……。
「ぐずっ……ひっく、……ぐすっ……」
小さな嗚咽が一人の部屋に静かに響く。
音もなく動くフォークと、涙まじりの紅茶が、そっと寄り添ってくれているようだった。




