27
「ん、」
ぼんやりとした明かりに私は眉を寄せる。
暗がりを恋しがるように額を何かに擦り付ければ、その何かがぴくりと動いた。
「……起きた?」
人の体温。
シャツの感触。
煙草のにおい。
私は目をパチっと開くと、勢いよく顔を上げた。
薄暗い部屋を背景に、アクセスの金の瞳と目が合う。
「体、平気?」
アクセスは目尻を下げて、腕の中の私を覗き込んだ。
私は何度も瞬きを繰り返す。
「……いま、なん、じ?」
「えっ?あー……9時だね」
くじ。
21時。
……レドメイン邸の閉門時間は22時だ。
私はブランケットを跳ね飛ばして起き上がった。
「…………かっ……帰らなきゃ!……っつ!」
「どこに?」
後ろから伸びてきた腕がお腹に絡みつく。
その力強さに内心びっくりしながら、私はその腕をペシペシと叩いた。
「お、お屋敷に!」
「仕事?」
「うんっ!…………あっ。違っ、た、たまたま明日も休みなんだけど……っ!」
口早に話しながら、なんだか変な汗が止まらない。
いつもより低いアクセスの声も、生温かいシーツも、全部がそう……直視できなくて。
何とかお腹に回された腕をこじ開け、少しの隙間を作る。
(やった……!)
と思った瞬間、また体を引き戻された。
「じゃあ。帰さない」
背中に当たる息。
顔が燃えそうなほど熱い。
私は両手で顔を覆った。
「っ……で、でも、泊まるって言ってきてないし。帰らないと、みんなが心配する……から、」
アクセスの腕が私の胸に回される。
そして柔らかい唇が私の耳朶を食んだ。
「――それ、無断じゃなかったらいいの?」
「……はい、そうなんです。雨に濡れてしまって、今晩はこのまま、し、知り合いのところに……っ」
アクセスの携帯を借りてお屋敷に電話をしていると、後ろからアクセスが顔を寄せる。
黒髪が私の耳をくすぐった。
「っ、……はい、明日帰りますから。では失礼します」
ピッと通話ボタンを押して、真っ黒になった端末をアクセスに渡すと、アクセスはそれを受け取ってすぐ、雑にシーツの上に投げる。
「……俺は知り合い?」
アクセスの腕が胸の前で交差する。
「だって……」
私は顔をそらした。
だって、今朝バツイチとか言われていたのに、今度は朝帰りなんて知られたら……もう、裏で何を言われるか分かったものではない。
ただそれだけの事なのに、唇を引き結ぶ私を見て、アクセスは少し声を落とした。
「誰かに知られるとまずい?前の旦那さんかな」
「っ、ち、ちが……っ!」
振り返って、私は息を呑んだ。
私を見つめるアクセスの瞳が悲しげに揺れていたから。
(今、私……彼を傷つけた……?)
「ぁ、アクセス……」
違うの。と、心が叫ぶ。
『前の夫とは顔もろくに見ないまま、気づいたら離婚が成立してて。だからもうその人は全然関係なくて……』
彼に言おうとした言葉が、喉の奥で止まる。
何かが頭の中で問いかけてくるのだ。
(いいの?)
本当に、言ってしまっていいの?と。
「っ……」
口をつぐんだ私の手に、アクセスの手が重ねられる。
ぶ厚くて大きな手。
意外と几帳面で、深爪がちな指先が、一本、私の指の間に潜り込んだ。
そのまま一つ一つ、指が互い違いになるように組み合わされていく。
「……」
無言のまま。
でも、何があっても離さないと言うように。
私は、きつく目をつぶった。
「っ〜〜〜、てっ、手を……出されなかったの……っ!」
え、というアクセスの声が聞こえた気がした。
けれどもう構ってなんかいられない。
零した水が流れるように私は続けた。
「あの日、男の人と納屋に閉じ込められたけど、何もなかったの……!それどころか泣いてる私に服を貸してくれて……。でも次の日には私は家を飛び出したから、その人とはもうずっと、ずーっと、会ってなくて。だいぶ前に、新聞で女性と子どもと写ってる写真を見たけど、今どこで何してるのかも、そもそも名前すら知らない。さっきアクセスの事を誤魔化したのは、同僚に冷やかされたくなかっただけで……」
「……シンシア」
「しっ、信じてくれなくてもいいの。か、家族も、
信じてくれなかったし。メリルも、たぶん信じてない。本当に、ただそれだけ言いた……っ!」
強く、強く、肩を抱き寄せられて、息が止まるかと思った。
「信じるよ」
アクセスの低い声が胸を打つ。
「っ……!」
たった一言。
その一言で、凍えた胸の内から温かい感情が溢れていく。
ほろり、ほろりと皮が剥がれていくように、熱い涙が止まらない。
「ごめん」
「っ、っ……」
「そんな事になってたなら、あの時、無理にでも攫いに行くんだった」
「ひっく……っ、」
「ごめん」
アクセスの指が何度も何度も髪を撫でた。
優しく、壊れ物に触れるように。
つららが朝日に溶けていくように、心に刺さった棘が消えていく。
とうとう溢れた涙が彼のシャツに大きな池をつくった頃、アクセスはそっと口を開いた。
「……あの時」
「っ……?」
「……シンシアが学校を辞めさせられたって知った時には、もう、何もかもが遅かった。でも、俺は到底納得できなくて。手紙を書いたり、君の地方の知り合いに掛け合ったり……その時、誰だったかな、俺の行動は君の立場を悪くすると言われたよ。君の幸せを思うなら、身を引けって」
身を切られるような声だった。
そのあまりの痛々しさに、私は彼の背中を撫でる。
「当然の指摘だと思った。新妻に同い年の侯爵家の男から手紙が頻繁に届いていたら、良く思う夫なんていない。しかも家同士が納得している結婚で、離婚だってまず出来ない。そうでなくとも、幸運にも妻になった君を手放す男なんていないだろう。……なら、俺ができる事はもう、ただ遠くで君の幸せを祈ることだ」
「っ……」
知らなかった。
アクセスも、そんな風に思ってくれていたなんて。
大きな手が私の頭を抱き寄せる。
「ごめん、シンシア。一人にして、ごめん……」
彼らしくない泣きそうな声。
私は濡れた頬を彼の首筋に擦り寄せた。
「ううん。ひとりじゃなかったよ……私、いつも、あなたを、思い出してたから……っ」
何もかもが辛くなった時、意味も分からないほど悲しい時、思い出すのはいつも、貴方のこと。
貴方に愛された日々のこと。
アクセスと過ごした思い出は、いつも私を支えてくれていた。
「もう離さない」
溶けて一つになってしまいそうなくらい、強く抱きしめられる。
強く、強く。
途絶えさせられた14年の月日を埋めるように、私達はずっと抱き合っていた。
「結婚しよう」
どれだけそうしていただろう。
ぽつりと、しかしはっきりと、告げられた言葉に、私は目を見開く。
「え……っ?」
アクセスは体を離すと、私の目を見ながらもう一度繰り返した。
「結婚しよう」
「っ、きゅ……急に?」
「うん。シンシアの気持ちが同じなら、すぐにでも」
「それは、もちろん同じだけど……そんなに、焦らなくても……」
しかしアクセスは短く頭を振る。
「気が気じゃないんだ。またいつ君の実家や、メンテみたいな奴が現れるか分からない。俺はもう、あんな思いはこりごりだから。シンシアは……嫌?」
「ううん!嬉しいよ、嬉しいのよ。でも、私、もう30歳だし、色々変わった所もあるから……そういうところを見てもまだ好きでいてくれるのかなって」
不安は尽きない。
だって14年ぶりの再会なのだ。
会ってすぐ結婚しようだなんて、嬉しいけど、本当は舞い上がりそうなほど嬉しいけど……まだ頭が追いつかない。
ぐるぐると回る考えを纏めるように、アクセスの胸に頭を預ける。
すると、彼は私のつむじにキスをした。
「俺は……どうせ好きだよ」
囁くような声。
考えるよりも先に、胸がきゅんとする。
「っ!……アクセス、」
「そりゃあ、俺だって、大人になったシンシアを全部知ってる訳じゃない。俺も、君も、あの頃とは違う。でも、全くの別人になった訳でもない、そうだろ?」
口角の上がった薄い唇。
悪ガキみたいな、少し意地悪そうな微笑みが、少しだけ、あの頃と重なる。
(でも、今のほうがもっと素敵だわ。)
「っ!」
そう思ってしまったから、きっと私は彼の思うつぼ。
さっと赤くなる頬に気づかれないよう顔を背ける。
すると、アクセスは見透かしたように喉の奥で笑った。
「くくっ。ほら、シンシアは恥ずかしくなると、すぐあっち向く」
「っ!そ、そんなのじゃないわ!」
「ははっ、意地になってる?」
「なってない!」
私は、アクセスの胸に押し付けていた顔を勢いよく上げた。
すると大きな手が私の顔を固定し、待ち構えていたように優しく唇が重なる。
「もう諦めて。俺にしなよ」
黒豹みたいな目だった。
出会った時からずっと、大好きな目。
それは、今も変わらない。
この14年で、アクセスは、私は、どこが変わったんだろう。
どこが変わっていなくて、これから、どんな風に変わっていくんだろう。
それを知る事ができるのが、幸せというものなのだろうか。
もし、そうなのだとしたら――。
「………うん」
アクセスの腕の中で、私は、小さく頷いた。




