26
退院してから、1か月が経とうとしていた。
私は左手にバインダーを抱えながら、いつもの廊下を歩いていく。
半地下の廊下は使用人専用という事もあり、薄暗い。
私は奥の休憩室の扉を開けようと、四角い引き手に手をかけた。
するとその時――
「バツイチ?!」
「っ!」
中から聞こえた大声に、手が止まる。
私はそっと扉の前で聞き耳を立てた。
「そう。聞いちゃったの!ほら、侍女長、この前大怪我したでしょ?その時に奥様がね、『怪我のこと、侍女長のご家族や元御主人に伝えなくていいかしら』ってペレス家令に聞いてらして。私もう『うそー!』ってなっちゃって」
「も、元……?!本当に元って言ったの?!」
「そうなの!間違いないの!ペレス家令も、『侍女長は連絡を望まないでしょう』なんて返事してて!」
「えぇー!侍女長、もしかして理由アリなのかなって思ってたけど、バツイチなんだー?!」
「みたいよ?私、侍女長って何であんなにお誘いを断ってばっかりなんだろうって思ってたけど……。たぶん、絶対、その元旦那と何かあったよね」
「浮気とか?」
「暴力かも」
「「こわぁー」」
(そのどれでも無いんだけどね……。)
はぁ。と、私はため息を吐いて目を伏せた。
これまで、噂好きな人達に詮索されることは何度もあった。
その度に笑顔でやり過ごしてきたというのに……まさか、こんな形でバレるなんて。
私はおでこをドアに押しつける。
後輩の大きな声が聞こえた。
「だって離婚できるなんて余っ程でしょ?」
「ね。侍女長もそんな男なんて忘れて次にいけばいいのに」
(次、かぁ……)
私は下唇を噛む。
本当に、そう出来たら良かったんだけどね。
私は右手を振り上げ、正面の扉を少し強くノックする。
コンコンコン……ガチャ。
「――お疲れ様です。あら、ジョアンナとユーリ。2人だけですか?」
「じっ、侍女長!」
「お疲れさまです……」
慌てて背筋を伸ばす2人。
休憩室には他に誰もいない。
お昼休憩には少し早い時間だからだろうか。
私はお昼中の2人に近寄ると、手にしたバインダーをジョアンナに渡した。
「早番お疲れさまです。申し訳ありませんが、私午後から明日いっぱいお休みを頂いていますので、今日はこれで失礼しますね。申し送り事項はこちらに書いてありますから」
にっこりと笑顔を向けると、ジョアンナは慌てたように視線をそらす。
「あっ。は、はい!おっ、お疲れさまでした!」
ぎこちない手の動き。
合わない視線。
そのバレバレの挙動が、初々しくて、少し可愛いとさえ思ってしまう。
やっぱり、若さは無敵だ。
「お疲れさまでした」
私は2人に礼をして、使用人達の休憩室を後にした。
足音のならない床板を選んで長い廊下を歩き、自分の部屋へ。
静かに扉を閉め、歩きながらヘアピンを抜く。
音もなく髪が解けると、自然と心がホッとした。
「……着替えよ」
私はクローゼットを開け、脱いだ侍女服をハンガーに吊るしていく。
今日は月に一度のお休み。
しかも先月の、途中でお嬢様の衣装合わせに同行した分を合わせて、明日もお休みというスペシャルデーなのだ。
指が、今季買ったばかりのワンピースへと伸びる。
袖がシースルーになったワンピースは一目惚れして買ったものだった。
(骨折も治ったことだし、これ着てイーストサイドの大きな本屋さんにでも行こうかな……)
うん、そうしよう。
そうと決まれば、歩きやすさを考えて、靴は先が丸まっているローヒールに。
髪は簡単に編み込みをして一つに纏める。
「……よし」
鏡で全身を振り返ったその時、ふと棚に置かれた透明な袋が目に入った。
ビニールが光に反射して見にくいけれど、確認するまでもない。
それは、折り畳まれた黒いローブ。
アクセスのものだ。
『お前は、自分のことばかりだな』
ふと、ザハロフ先輩の言葉が脳裏によみがえった。
袋越しにそっとローブを撫でる。
ビニール越しのシルクの滑らかな感触が指に触れた。
(アクセスは何を思って、これを貸してくれたんだろう。)
知りたい。
アクセスの胸の内が。
私は柔らかいローブをもう一度、胸に抱えてみた。
鼻を近づければ、まだ微かに香る煙草の匂い。
アクセスの匂い。
(……もし、ほんの少しでも、アクセスの気持ちが私に残っているなら……)
そんな夢みたいなことあるのだろうかと思いながら、私は目を閉じる。
――雪の日。
返せなかった灰色のローブ。
額を地面に擦り付けた爺やの後頭部と、『若奥様』と呼ぶ声。
一晩中動かなかった赤毛の背中。
「っ……」
私はハッと目を開けた。
やっぱり駄目。
言えない。
言いたくない。
そして震える手でもう一度、袋を棚に戻した。
(今日、速達の封筒を買ってこよう。)
そしてお礼のカードと、お菓子を添えてすぐに送ってしまおう。
そうしたら、きっとまた平穏がやって来る。
アクセスのいない、退屈で、何に脅かされることもない日常が。
私は鞄を掴むと、足早に部屋を出た。
学校や政府機関が多く集まるイーストサイドは、なんと言っても本屋が多い。
その中で最も歴史があって大きな本屋を訪れると、そこでたまたまお嬢様が欲しがっていた本を見つけた。
(ちょうどいいわ。これも買って帰ろう)
私はそれを一冊手に取り、ちょうどいい大きさの封筒と、小さなメッセージカードをしたまとめてレジに出す。
「えーっと、全部で4.52ベアーズ銅貨です」
「……これで」
「はい。少々お待ちくださいね」
「えぇ」
新人さんなのだろう。
金額を確認するその手つきはたどたどしい。
(気になるけど、じっと見られたら嫌よね……)
そう思って、私はそっと視線をカウンターの中へとそらした。
レジをぐるりと囲む、樫の木のカウンター。
その奥には作業台が置かれ、壁にはエプロンや、何に使うのか分からない紐がかかっている。
あ、今、店員さんが隣の棚から紙袋をだして――。
「っ……!」
と、思わず私は息を呑んだ。
棚の上に置かれた、鮮やかな硝子を張り合わせたようなランプ。
それと同じものが、ベッドサイドにあったのだ。
ギルフリート家の、町家敷の一室に。
優しい硝子の光が、昔の記憶を呼び寄せる。
高い天井。
十字に区切られた窓。
雨に濡れた針葉樹と白い桟。
分厚い黒のカーテン。
朝、ベッドに肘をついて、そこから見た景色を。
「あの……、お客様?」
「っつ……!あ、ありがとう」
私は紙袋を奪い取るように受け取って、店を飛び出した。
腕を振り、ヒールを鳴らし、はやく、はやく。
あの懐かしいランプの光に追いつかれる前に。
(綺麗な思い出だけ、覚えていたかったの。)
走りながら、私は唇を噛んだ。
嫉妬や独占欲。
そんな綺麗なだけじゃない感情は、全部、忘れてしまいたかった。
じゃないと、諦めきれなくなるから。
「っ、は、」
息苦しさに私は顔を歪める。
本の入った紙袋が、腕の中でガシャガシャと耳障りな音を立てた。
周りの人が振り返る。
情けなくて、恥ずかしくて、泣きたくてたまらない。
するとその時――。
ポツッ
「っ!」
なにか冷たいものが頬に当たったような気がして、私は空を見あげた。
出る時は晴天だったのに、今はなんとも重そうな一面の雲空。
「え、」
いつの間に。
そう思っている間にも、また雨が頬を、頭を、肩を打っていく。
「っ……本が!」
私は紙袋を庇うように抱えると、急いでドレスショップの前まで走った。
この立派な雨除けの下なら、まず濡れることはないだろう。
けれど傘を買おうにも、このあたりの土地勘が全然ないから困ってしまう。
(走れば商店くらいはあるんだろうけど、どのくらいで着くのかしら……。)
雨脚を甘く見て、もしもお嬢様の本が濡れたら最悪だ。
……もうここで雨宿りさせてもらおうか。
私はドレスショップのショーウィンドウに体を寄せた。
雨が雨避けの布に当たり、バラ、バラと音を立てている。
いつの間にか、通りを行き交う人の数はまばらになっていた。
ある人は駆け足で通り過ぎ またある人は雨宿りの場所を見つけ、またある人は、道で辻馬車を止めようとしている……。
「……」
私はひとり、紙袋を抱え直す。
すると、ふいに向かいのアパートの一室に明かりがともった。
明るい光が漏れるレースのカーテン。
そこに、まず男の人の影が映り、次に女の人の影が映る。
2人で雨が降ってきたねなんて話しているのだろうか。
(いいなぁ……)
その光景に、私は抱えた紙袋をぎゅっと抱きしめた。
そしてそっと息を吐く。
いつか、私にもそんな日が来るのだろうか。
過去に折り合いをつけて、新しい恋に目覚められる日が……私にも。
「はぁ……」
雨はまだ降り止みそうにない。
煉瓦の歩道がどんどん濡れていく。
するとその時、近くで革靴の音がして、私は顔を上げた。
「……え」
――時が止まったかと思った。
流れる雨粒さえ止まって見えた。
人通りの少ない歩道の真ん中。
中途半端に足を止めた、彼がいた。
「……アクセス、っ……」
思わずその名を口にしてしまって、私は慌てて口を覆う。
けれどアクセスには聞こえなかったのだろう。
彼は傘もささずに目を見開いていた。
あの豹みたいな目で。
ドクンと鼓動が跳ねる。
「っ……」
信じられない。
こんな所で会うなんて。
(……どうしよう)
こんな時、何をどう、どこまで言えばいいのか分からなくて、私はただ立ち尽くす。
一方でアクセスは私の全身を見て、冷静に状況を把握したようだった。
白い喉仏が静かに動く。
その瞬間、緊張で震えた肩に気付いたのだろうか、アクセスはそっと視線を逸らした。
「――ここで待ってて。傘、買ってくる」
それは狂おしいほど愛した彼そのもの。
14年経っても変わらない。
「行かないで……っ」
胸を突き動かしたのは、衝動。
彼の袖を掴んだのは、未練。
振り返ったアクセスと、目と目が合う。
「っ!」
次の瞬間、強い力で抱きすくめられた。
全身を覆う熱。
煙草のにおい。
男の人の身体。
……信じられなかった。
この熱が、アクセスであることが。
背の高さも、胸の厚さも、あの頃と全然違う。
でも、アクセスだ。
「アクセス……っ」
私は息を吸い込んで片腕をアクセスの背に回した。
ぐっと私を抱き寄せる力が強くなる。
鼻の奥がつんとして、目を開けていられない。
すると耳元で声がした。
「移動せよ」
(あっ、それは……。)
と思ったと同時に、体で感じる浮遊感。
「きゃっ――」
小さく上げた悲鳴はアクセスの胸板に吸い込まれ、やがて足が床についた感触で私は目を見開いた。
「えっ……ここは、」
雨音がしない。
生暖かい空気。
煙草と壁の匂い。
ハッと顔を上げると、アクセスは腕の力を弱めた。
そして申し訳なさそうに眉を下げる。
「ごめん。……俺の部屋」
「っ!」
びくりと肩が震えた。
私が目を見開いている間に、アクセスの手が私の顔の横に置かれる。
後ろには壁。
でも、逃げられないわけじゃない。
身をよじるだけの距離を開けて、金の瞳が静かに問う。
「シンシア」
吐息まじりの声が、私の髪に当たる。
「俺の勘違いなら、今逃げて」
(あぁ、やっぱりアクセスだ。)
勘違いなわけが無いのに。
私はふるふると首を振った。
アクセスの手が私の後頭部に回る。
「シンシア……」
優しく上を向かされて、重ねるだけのキスをする。
唇が重なった瞬間、私は理由もわからず泣きたくなった。
「っ、」
(言わなきゃ。あの日のことを)
私は強く、手のひらを握りしめた。
アクセスは絶対知りたいはず。
聞く権利も当然ある。
(私はまだ貴方しか知らないって。夫になった人とはあの日から顔も見てなくて、結局3年後に気づいたら離婚してたんだって、伝えなきゃ……でも、もし、もしも、アクセスも信じてくれなかったら――?)
全部話した後、彼はもう私のことを好きじゃないかもしれない。
そう思うと、言うのが怖い。
「っ、ん」
角度を変えて唇を受け止めながら、私は自分が嫌で嫌でたまらなくなった。
まだアクセスを心の底から信じきれないのだ。
そのくせ、自分の都合の良いように応じたりして。
あぁ――こんな自分が嫌になる。
膝の裏にファブリックの感触がして、今初めて気づきましたというように、私はソファへ座り込む。
ギシッと鳴るスプリング。
乗ってくる膝。
私は頬を撫でる大きな手に顔をすり寄せた。
「……軽蔑する?」
すると、アクセスは薄く微笑む。
「愛してる」
唇が重なる。
熱く、深く、足りない分を埋めるように。
溢れた涙をアクセスの指が拭ってくれた。
白っぽい天井。黒いライトとゆったり回る細長い羽根。
小さな窓。
そして、そのまま私たちは――




