25
当然のようにあった家族への信頼。
アクセスとの未来。
あの日、それまで私を支えてくれていた物が崩れ去って、残ったのは美しい思い出だけ。
故郷を飛び出し、メリルの実家を頼って、縁もゆかりも無いレドメイン家を就職先に選んだのは、ひっそりとその思い出を守って生きていきたかったからだ。
誰にも汚されないように。
あの頃は、アクセスに愛された思い出だけが私の支えだった。
夜、ベッドの中で何度も彼を思い返した。
あの優しいまなざしを。
低い笑い声を。
肩に落ちた木漏れ日と、揺れるローブの陰影まで、全部。
(……あれ?)
そこで、私は気づく。
――そういえば。あの日、アクセスに借りていたローブは、どこへいったんだろう。
「来るのが遅くてすまないね。退院おめでとう、駒鳥」
白い壁、小さな丸椅子、白い扉の前に、色とりどりの花束を抱えた銀髪の麗人。
何かの宗教画になりそうな光景だけれど、これは現実。
間違いなく、王都サンラエル病院の私の一室だ。
私はベッドの上で身体を起こしたまま、頭を下げた。
「……恐れ入ります、ザハロフ先ぱ、先生」
「ふふん。堅苦しいのは良いさ。今の僕は学生時代の後輩を見舞う優しい先輩だからね。はい、これお見舞い」
「あ、ありがとうございます……」
気さくに渡された花束を見て、私は静かに目をむいた。
(た、高い花ばっかり……!)
蘭にピンクのバラに、季節外れのカーネーション、カスミ草、その他諸々がひと抱え。
とても使用人の私室に置ける花の量じゃない。
(レドメイン邸に帰ったら、相談して廊下のあたりにでも飾らせてもらおう。)
そう思いながら左手を庇いつつ、花束を膝の上に置く。
すると突然、ザハロフ先輩が眉を下げた。
「……悪かったね、僕で」
「え?」
「ギルフリートは来れない」
「っ……!」
ギルフリート。
先輩が当たり前のように発したその単語に、心臓がドキリと跳ねる。
(ああ、いやだ。)
「そう、なんですね……」
貼り付けたはずの口角がぴくぴくと震えた。
胸が苦しい。
きつく、花束の持ち手を握りしめる。
一度死にかけたせいだろうか。
ずっと、ずっと前に飲み下したはずの感情が、内側から私を飲み込もうとしていた。
今さら何にもならないというのに。
「っ……」
私は浅く息を吐く。
「……それが、私に何の関係が?」
「お前……」
ザハロフ先輩は目を丸くした。
その静かな驚きを、私は僻んだ目で見つめた。
きっと先輩のような強い人には分からない。
分かりっこない。
昔の事を蒸し返して、もしアクセスが私の話を信じてくれなかったら?
今さら気を引きたいのかなんて思われたら?
分不相応な欲を出して、この思い出まで汚してしまったら、そうしたら、私はこれから――。
(いったい何を支えに生きていけばいいの……?)
私は鋭く先輩を見上げた。
膿んだ傷口にたかるハエを見るように。
すると、先輩が大きく息を吐く。
「お前は、自分のことばかりだな」
「っ!」
ぶすりと胴を刺されたような衝撃が私を襲った。
(自分のこと、ばかり……?わたし、が……?)
がさりと音を立てて、花束が転がる。
ザハロフ先輩と目が合う。
「ギルフリートは……」
「……」
「…………いや。待て。何で僕がこんなお節介婆さんみたいな事しようとしてるんだ?」
「……え?」
急に正気に返ったザハロフ先輩に、思わず固まる。
すると、先輩は頭をかいて大げさに肩をすくめた。
「あーやだやだ。こんなこと。僕のガラじゃないし。お前達だけハッピーエンドっていうのも何か癪だし」
「は、はぁ……?」
さっきから何を言いたいんですか?
と言いたいところを、ぐっと飲み込む。
先輩はザハロフ公爵家の三男。
元子爵家で、現使用人かつ後輩の私が文句を言える立場じゃない。
立場じゃないのだ。
押し黙る私に、先輩は尊大な態度で指を突きつけた。
「報告だよ。奴らのアジトは根絶やしにした。幹部連中は全員捕まえたし、もうお前に手を出す金も人手も知恵もないはずだ。よって退院後は普段通りの生活に戻って良いぞ。おめでとう」
「あ、ありがとうございます……」
これは先輩に礼を言うことなのだろうかと思いながらも、一応お礼を言っておく。
社会人として。
(そもそも左側の鎖骨を折っただけなんだから、後は普通の生活に戻るしかないと思うのだけど……。)
ベッドの上でお辞儀をする私に、先輩はフンと鼻を鳴らした。
「……奴ら、見たこともない魔法を使うと思ったら、どうやら遺伝子組み換えの改造人間だったらしい」
「えっ」
「主義者め。魔法を蛮族の因習だと蔑みながら、帝国の甘言に乗り、自分たちが自爆兵器に仕立てあげられている事にも気づかないとは……とんだ笑い草だな」
「っ、」
脳裏に蘇るのは、ツタのように絡まる男の腕。
魔法でもない、おとぎ話の怪物のような姿が、まさか人類の禁忌に手を出した結果だなんて……。
(私、よく生きてたなぁ……)
急に背筋が寒くなり、私は自由な右手で反対の腕をさする。
すると、先輩が少し声のトーンを柔らかくした。
「まぁ何にせよ、良い判断だった。その後の改造花の出現も含め、先にガーゴイルの一報が無かったら、お前以外にも負傷者が出ていたかもしれない。教師として礼を言う。よくやった」
「先輩……」
褒められた。
あのザハロフ先輩に。
目を丸くすると、次の瞬間、もっとあり得ない事が起こった。
先輩が、あのザハロフ先輩が、膝を折ったのだ。
「……また、申し訳なかった。テロリストを教師に紛れこませてしまったのはこちらの失態だ。生徒の安全を脅かし、ブラット女史に怪我を負わせてしまった……。ライヒンデルツの教師を代表して、謹んでお詫び申し上げる」
さらりと流れる銀髪。
初めて見たつむじ。
私は呆気にとられた。
在学中を含めて、ザハロフ先輩に謝られたことなど一度もない。
ごめんねとか、悪かったねとか、そういう言葉を口にしたら死ぬ人なのかと思っていたくらいなのに。
……何だろうこの、見てはいけないものを見てしまった感。
もの凄く……もの凄く、お尻がソワソワする。
私は慌てて片手を振った。
「や、やめてください。謝られるような事はありません。私は、ただ仕事をしただけで……!」
むしろ、きっと誰かがあそこから私を助けてくれたのだろうから、ぜひお礼を申し上げたいのだと言えば、先輩はバッと顔を上げた。
待ってましたと言わんばかりの顔で。
「そうか。駒鳥ならそう言ってくれると思ってたよ。仕事熱心なのは相変わらずだな」
「えっ」
「本当に見上げた勤勉さだ。レドメイン御夫妻の前でも褒めておくと約束しよう」
「あの、」
「それじゃあ、再発防止案はまた後日全校説明会で上げるから。体、大事にして過ごせよ。じゃあな」
「え、」
あれは、幻……?
と思うほどあっさりと、片手を上げて病室を出ていくザハロフ先輩。
いいんだよ?
いいんだけど。
「…………」
もうちょっとゴネてやれば良かったかも。
と思ったのは秘密である。
ザハロフ先輩が去った後、先生の診察と退院後の説明があって、後は同僚の迎えを待つだけ。
病室の荷物は同僚がまとめると言ってくれたけど、甘えてばかりもいられない。
自分でやれるところはやっておこうと、片腕でなんとか下着や日用品を鞄に詰め込んでいく。
その最中に、トントンとドアがノックされた。
「はい」
「あの、すみません。こちらをお返しするのを忘れてまして……」
現れた看護師さんの手には、見慣れない黒い布の塊があった。
一見、上等な生地に見えるけれど、全く身に覚えはない。
私は首を傾げる。
「えっと……そちらが、私の……?」
「はい。搬送時に上に掛けていらっしゃったものです。その、侍女服は太もものあたりでザックリ裂けてしまっていたので処分させて頂いたのですが、こちらは無事でしたので」
「まぁ。ありがとうございます」
「いいえ。では」
もしかして、助けてくれた人の物だろうか。
受け取って、片腕で胸に抱えるように持つと、ふわりと何かの匂いが鼻についた。
何だろう。
私は一人、鼻を寄せてみる。
(物が燃えたような、焦げた臭い。それから、これは煙草の――)
そしてハッと顔を上げる。
嗅いだことのある、煙草のにおいだ。
一度だけ。
西日の差す懐かしい校舎で。
(アクセス……!)
「っっ……!!」
衝撃のあまり落としそうになって、私は慌ててそれを抱え直した。
煙草の匂い。
柔らかいシルクの生地。
上質なハリのある糸。
これが彼の物だと思うと、愛おしくて、悲しくて。
ただ胸が痛い。
(アクセスが……助けてくれたの……?)
心のなかで問いかけても、ローブは答えてくれない。
でも、所々ついた焦げ跡が、彼の物である証明のような気がして。
私はローブを搔き抱いた。
震える手で、ぎゅっと。




