22
いつもの馬車に揺られながら、お嬢様がふと視線を私に向けた。
「あの晩ね、本当は一曲だけで帰るつもりだったの」
「えっ」
私が小さく驚きの声を漏らすと、お嬢様は肩をすくめた。
朝日を浴びて、ライヒンデルツの伝統的なローブが揺れる。
「だって目の前であんな事故が起きたのに。忘れて楽しめる訳がないでしょう?まだ内心怖かったし、夜会の参加者もお歴々ばかりだったし」
お嬢様は桃色の唇をつんと尖らせた。
「それに元々、パートナーがいなくなって可哀想な王子様を助けるつもりで行っただけだから」
「お嬢様……」
(パートナーがいない訳では……ない、と思います)
そう思いはしたが、話に水を差すまい。
言いたいことを飲み込んで、私はとりあえず頷いた。
「……でも、いざ帰ろうとしたらね、王子様がすっごく慌てて引き留めてくるの。喉が渇いてないかとか、あそこのプディングは絶品だとか、せっかく来たんだから庭でも見ようとか……」
「お、お嬢様……」
引き留められている。
誰が聞いてもそうと分かるのに。
お嬢様は殿下の好意に鈍すぎる。
不敬罪にならないかハラハラしながら聞いていると、お嬢様は肘をついて顎を乗せた。
「はぁ……。せっかくだけど、今夜は大変な目にあったから帰りたいって言ったら、膝をついてお願いされてしまって」
「ひっ」
「流石に帰れなくて、ホールのベンチでゆっくり休んだ後にもう一曲踊ったの。だから遅くなってごめんなさい、心配したでしょう?シンシア」
いえ。何なら今のほうが胃がキリキリいたします。
とは言えず、私は青い顔のまま頭を下げた。
「……とんでもございません。楽しい時間を過ごされたようで良かったです」
「楽しい……?そうかしら?」
お嬢様が目を丸くする。
「えぇ。少なくとも私にはそう見えます」
無自覚なのだろうか。
私はそっと目を細めた。
お嬢様の制服の胸元に輝く精巧な薔薇のブローチ。
中央にスワロフスキーがあしらわれた銅製のそれは、パートナーを務めてくれたお礼にと、昨日殿下から贈られてきたものだ。
汚れを知らない少女の指が、またその花びらを撫でる。
まだ心もとない好意を確かめるように。
『薔薇って派手だし棘もあるから、そんなに好きじゃないのだけど……こうしてみると、案外可愛い花ね』
箱から出して、笑いながらそう言ったお嬢様。
その声から、私はまだ青い春の匂いを感じ取っていた。
ガタン
馬車が段差を乗り越え、やがて緩やかに止まる。
「お待たせしましたぁ、到着です」
「もう少しお待ち下さいね、お嬢様」
しっかり車体が止まったのを確認して、私は先に立ち上がった。
まず顔を出して、左右を確認。
(よし、怪しい人物はいない。)
「どうぞこちらへ」
手のひらを差し出すと、お嬢様は大げさねと肩をすくめて、私の手を取った。
これは、旦那様や奥様と話した結果だ。
どこへ行くにも私がお嬢様に付き従うこと。
もっとガタイの良い使用人のほうがいいのではと進言したけれど、魔法の知識のある私が一番適任だということになった。
おかげで我が国の最新の研究成果は今も私のスカートのポケットに入っている。
頑張るしかない。
お嬢様の安全がかかっているのだ。
「殿下にお会いしたら、お礼を忘れずに」
馬車付き場から正門まで歩きながら、私は半歩前を歩く背中にそう告げる。
するとお嬢様はふんと鼻を鳴らした。
「そうね。お父様にも散々言われたわ。しつこいくらい」
「そんな風に仰っては……」
「私が気に入られれば、お父様はえらい顔ができるものね」
「……お嬢様」
「王妃様候補だって。ねぇ……シンシアはどう思う?」
猫のように大きな目が私に向いた。
その目の奥が不安に揺れている。
私はハッと水をかけられたような思いがした。
周りにとっては降って湧いた幸運でも、お嬢様にとっては権力の渦に飲み込まれるようなものだろう。
淡い好意などではカバーできない不安があって当然だ。
そもそも、まだ15歳。
自分の幸せが何かなんて、まだ分からない。
「お嬢様の御心のままに。私はいつでも、何があっても、お嬢様の味方ですから」
静かにそう告げる私の手を、お嬢様がぎゅっと握る。
細い指が私の手を包んだ。
「シンシアならそう言ってくれると思った。ふふっ、ありがとう。行ってきます」
その笑顔は少し強張っている。
私はこんな人間だから、お嬢様が気が進まないなら、殿下の好意を断っても良いとさえ思ってしまう。
たとえそれが貴族令嬢としてあるまじきことでも、お嬢様がお嬢様らしく生きられる道なら……。
「自分を殺して生きるなんて、そんなの死んでるのと変わらないもの……」
正門の向こうに去っていく背中を見送りながら、私は小さく呟いた。
『心のままに』
お嬢様に告げた言葉は本心だ。
例えあの時に時間が戻ったとしても、やっぱり私は同じ選択をするだろう。
お母様の仕向けたあの優しい男の人を受け入れず、家を出て、仕事を探す。
辛くても、悲しくても。
アクセスを心に住まわせたまま他の男の人と夫婦になることも、騙し討ちで結婚を強制した母を許すことも、できないのだから。
屋敷に戻れば、いつも同じ仕事が待っている。
掃除、洗濯、繕い物に、買い出し。
合間合間に皆の仕事ぶりを褒めたり、シェフとメニューの相談をしたり、ペレス家令と予定の確認すりをしていたら、もうお迎えに行く時間だ。
今度は一人馬車に乗り込んで、御者を馬車に待たせたまま、朝と同じ正門の前でお嬢様を待つ。
私の頃から変わらない門。
アクセスと肩を並べてくぐった門。
朝、夕見ても、まだ懐かしい。
門を見て、地面の石畳を数えて、時々他家のお迎えの使用人と挨拶を交わして。
「…………………来ない」
懐中時計を出して見れば、約束した時間よりもう30分も経っている。
私は何度も時計を覗いては、門の向こうに視線を向けた。
(どうしよう……。)
30分。いや、もう34分になる。
大人しく待つべきか。探しにいくべきか。
私はうろうろと正門の前を歩いた。
(でも、もし今、私が正門を離れてしまったら、入れ違いになる可能性も捨てきれないわ。お嬢様一人で学校の外に出る事だけは避けなければ……。というか、そもそも30分程度の遅刻ぐらい、おおらかに見守るべきなんじゃ……? )
「うぅ……」
呻きながら背伸びをして正門を覗いた時、背後から渋い声が聞こえた。
「こんにちは、ブラット侍女長」
「こっ!こんにちは……ヒューイット長官。あっ、あの、先日は大変お世話になりました」
(いつから見ていらしたの……?!)
飛び上がりそうになりながら、私はすぐにお辞儀をする。
ヒューイット侍従長長官が近衛をずらりと連れてそこにいた。
「ほっほっ。なに、大したことではございません。……ところで、随分首を長くして覗いていたようですが、何かありましたかな?」
「あっ……その、当家のお嬢様がまだいらっしゃらないのです。30分ほど過ぎただけなのですが、普段時間に遅れたりなさらない方なので。少し心配になって……」
顔を伏せる私に、ヒューイット長官は白い髭を撫でながら深く頷いた。
「なるほど。それは心配ですな」
「っ……」
やっぱり、そうなのだ。
躊躇っている場合ではないのかもしれない。
私は懐中時計を握りしめた。
「あの、大変厚かましいお願いなのですが、人を貸していただけないでしょうか。どなたかにここでお嬢様をお待ちいただきたいのです。私が中まで迎えに参ろうと思うのですが、入れ違いになるのも心配で……」
するとヒューイット長官は親しげな微笑みを浮かべた。
「もちろん。そのくらいお安い御用です」
「ありがとうございます!」
そうと決まれば。
私は風のように走った。
最短距離で正門を抜け、校舎前で用務員の方に事情を話すと、快く入校証をくださった。
ここは母校だ。
放課後に開いている場所も、赤い箒寮の生徒がよく行く場所も、知っている。
壊れた噴水広場を抜け、図書室の中を見て、そしてついに校舎の2階廊下で私はその後ろ姿を発見した。
「お嬢様!こんなところに……っ!」
「シンシア?!」
驚きで見開かれた目。
振り返って、わたわたと慌てるその様子に、怪我をしているような気配はない。
(ご無事でよかった。)
駆け寄りながら、私はほっと息を吐いた。
「ごめんなさい。もうこんな時間だったのね!」
「えぇ。ご友人とお話が弾んでいるだけかもしれないと思ったのですが、居ても立ってもいられず、探しに来てしまいました。ご無事でなによりです。……でも、こんな所で一体何をなさっていたのですか?」
ここは右手に中庭、左手に正門を見渡せるだけの渡り廊下だ。
この先は実験室や音楽室に繋がっていて、休み時間の時は人通りが多いけれど、放課後になると人通りはほぼない。
今だってお嬢様お一人だ。
するとお嬢様は気まずげに頬をかいた。
「実は……ブローチを無くしてしまって」
私は思わず天を仰いだ。
「お嬢様……」
「言わないで。自分でも分かってるから。だから、誰にも言えなくて……」
こうして一人で探していらっしゃったのか。
殿下からもらったブローチを無くしたなんて、最悪、家名に傷がつきかねない。
招待状といい、プレゼントといい、もう我が家と王家はそういう運命のような気がするけれど……蒼白なお嬢様を前に、そんな達観した事は言えない。
私は侍女服の長袖をまくり上げた。
「必ず見つけましょう」
「シンシア……!」
「まず確認させてください。ブローチを無くされたことにいつ頃気づかれたのです?」
「……お昼過ぎなの」
という事は、もしかして食堂という線もあるかもしれない。
この廊下は教室移動の時にでも使ったのだろう。
私は中腰になって廊下に置かれたガーゴイル像の裏や、大きなガラス窓の下を見ていく。
「でもおかしいのよ。無くなるはずないの」
「……どうしてですか?」
私は顔を上げて振り向いた。
「だって……登校した瞬間、あまりにブローチの事を聞かれるものだから……その、私恥ずかしくなって、すぐに中の胸ポケットに入れたの」
お嬢様はそう言いながら、ブレザーのボタンを外して、中のシャツの胸ポケットを指した。
「だから、もし落ちたのなら、このポケットに入るはずでしょう?」
「それは……」
確かにそうだ。
シャツの上にはブレザーもローブも着るのだから、逆さで宙吊りにでもされない限り、そのポケットから物が落ちるとは考えづらい。
……なら、誰かが盗んだ?
(まさか、またあのネズミ妖精の仕業とか……?!)
そう考えた瞬間、場違いに呑気な声が廊下に響いた。
「おやまあーレドメインさん。こんなところにいたんですかー?」
「っ、」
「メンテ先生……」
廊下の向こうから現れたのは、王城でも見かけた先生だった。
(確か魔性植物学の――)
アクセスの同僚の方。
私がお辞儀をすると、メンテ先生は片眉を上げる。
「おや、侍女の方もご一緒だったんですねぇ」
「申し訳ございません。お嬢様の安全のため、お邪魔しております」
「いいえ。事情は少し聞いてますよ〜」
王家からだろうか。
私はさらに深く頭を下げた。
もちろん、頂き物のブローチを無くしたなんて口外はしない。
他人に頼るのは最後の最後。
過保護な侍女を装って、ここは先生をやり過ごすしか――。
「レドメインさん。ほら、いたずら妖精達が大はしゃぎで持っていましたよー。これ」
そこで、先生は手のひらに輝くあのブローチを見せた。
「ブローチ!」
お嬢様が歓声を上げる。
(あれ……?)
その瞬間、言いようのない胸騒ぎがした。
言葉にならない、霧で作られたような違和感。
第六感が警告を鳴らし、私は思わず口に手を当てる。
「先生、ありがとうございます!」
「あっ、お、お嬢様……!」
とっさに鋭い声が出た。
すると先生に駆け寄ろうとしたお嬢様が、数歩先で振り返る。
「なに?シンシア」
「お嬢様……その、っ……ブローチは……いつ、ポケットにしまわれたのでした?」
「えっ、登校してすぐ……よ?」
「授業の……始まる前?」
「えぇ。ずっと見えないようにポケットに入れてたわ。それがどうしたの?」
ざわり、ざわり。
霧のような違和感が段々と形づくられていく。
お嬢様は授業前にポケットにブローチをしまった。
そしてそのブローチを無くしたことを口外しなかった。
(ならどうして、先生はそのブローチをお嬢様のものだと知っているのだろう。)
無くしたことさえ、知らないはずなのに。
かちっとピースが嵌まったような音がした。
「お嬢様っ……!」
瞬時にお嬢様に手を伸ばす。
そのお嬢様の後ろから、物凄い速さで大きな縄のような物が迫りくるのが見えた。




