20
月が見えた。
(ああ、今日は満月か。)
息を吐き出せば、煙草の煙が天井に上っていった。
空は高い。
でも現実は、いつも俺の背より少し高い所にある。
「くそっ……!」
男の悪態に、窓の外から視線を外して床を見ると、磨き抜かれた木板の上に男が4人。
あちこちに火傷を負い、手足を縛られたまま床に転がされていた。
「お前ェッ……俺達をどうするつもりだ!」
「解け!解けよッ!」
「クソッ、こんなことならやるんじゃなかった……!」
元気に喚くその姿は、夏の蝉を思い出させる。
そういうものと言えばそういうものだが、近くにいると鬱陶しい。
それに今晩はあと一件、あまり気の進まない仕事もある。
(本当はさっさと出たいんだけどな……)
そう思いながら煙を吐いた時、ふいに準備室の薄いドアをノックする音が響いた。
「はい」
「お待たせしましたー、終わりましたかね」
現れたのは灰色の作業服を着た男だった。
名前はトンプソン・ジュニア。
手袋を2重にして、目深に作業帽を被ったその男は、目が合うとにっこりと微笑んだ。
「おぉ、流石ギルフリート先生。まだ活きが良い。父が喜びます」
「それは良かった。……すみません、今日はまだ別件があって、後はお願いしても?」
「はい、聞いてますよー。もちろんです」
トンプソン・ジュニアは頷きながら片手で台車を引きずり、車輪をピタリと男達に横づけた。
男達の顔に緊張が走る。
「っ、ま、待てッ」
「お前、俺達をどうするつも……っ」
そこでガシャンと音が鳴った。
ちょうど人間を金属の台車に乗せた時のような。
「ぎゃっ、」
「はいはい暴れないー」
俺は煙草を携帯灰皿にしまうと、床に倒れている男達の目の前を靴で踏んで通り過ぎる。
残った男達の目が俺を追いかけているのが分かった。
振り向くと、その目には俺の影が映っていた。
夜のように大きな、男の影が。
俺は無感情にドアノブに手をかける。
そして軽く手を挙げた。
「じゃあ。お願いします」
はーい。と、ジュニアのにこやかな笑顔を最後に扉を閉じる。
これで、雑事は済んだ。
明日には全て元通りだ。
教材が山積みになった準備室の廊下から外に出ると、月光があまねく校舎の建物や木々を照らしていた。
見事な月だ。
けれど、今の俺にはゆっくりと月見をしている余裕はない。
欅や楠の枝の下をくぐり、裏門で待っていた馬車に乗り込むと、弦楽器のような声が中から飛んできた。
「お疲れー」
「っ……」
俺は小さく息を呑んで、つまずきながら言葉を絞り出す。
「あ、っなたも招集されたんですか、ザハロフ先生」
「ま、そういうこと」
座りなよ。
肩をすくめて向かいの席を指したのは、銀髪の麗人、ザハロフ先生だ。
内心とまどいつつも、会釈をして前の席に座れば、やはり、狭い。
一着しか持ってない正装のスラックスの裾同士が触れる。
そろってお互いに顔を顰めた。
「はあーあ。こんないい夜なのに。野郎同士で狭い馬車に押し込められて、これから仕事なんて……やってられないよなあ」
ザハロフ先生は、流れていく景色を見ながらため息をついた。
きっと今夜も予定があったのだろう。
学生の頃から変わらない、氷の彫像のように綺麗な顔がふいに俺の方を向く。
「……あ、すまない。お前、最近フラれたんだったか?」
「……放っておいて下さい」
ザハロフ先生は俺の1個上。
俺にとっては先輩であり、ライヒンデルツに教師として戻って来るために推薦状を書いてくれた1人でもある。
俺はそのニヤニヤ顔に眉を顰めつつ、声を低くした。
「……でも、いいんですか?ザハロフ先生も来られたら学校の警備が手薄になるのでは……」
「そっちは校長が何とかするってさ。ウィルソン先生も留守番だし、まあ大丈夫でしょ。それより王妃殿下のご要望を何事もなく終わらせる方が大事ってね」
ザハロフ先生は皮肉たっぷりにそう言った。
昔から、王家はライヒンデルツの1番の後援者だ。
一人息子が在学中の今は、それこそ過去一番の寄付を受けていると言ってもいい。
今回の夜会への招待という名の警護の依頼にも、きっと相当な額が積まれたのだろう。
ザハロフ先生の嫌いそうなやり方だ。
俺は短く首肯した。
「そうですか」
「ほんっとにさぁ、ただの夜会ごときに僕とお前と、スミス先生にメンテだよ?そんなに息子が心配なら、夜会なんて適当に言い訳作って欠席させればいいのにさぁー?……成金女は金ばっかりで頭を使わないから嫌になる」
「まぁまぁ。ここの所、襲撃が続いてるのは事実ですし……打てる手は打っておきたい親心なんでしょう」
抑えて抑えて、と両手を挙げると、ザハロフ先生は舌打ちしそうな顔で俺を見た。
そんな顔をされても、俺だって気が進まないのは同じだ。
王子だろうと、俺にとっては一生徒。
プライベートの警護を受ける事は、一生徒に肩入れする事になるのではと思う。
王城には近衛だっている訳だし。
(それでも、一応生徒の安全に関わることだから、放って置くのも寝覚めが悪いと思ってるだけで……。)
するとザハロフ先生は短く息を吐いた。
「はっ。優しいなあ、ギルフリートは」
嘲笑。
きっとそうなのだろう。
微かに滲み出るその響きが、何故か胸に突き刺さる。
痛みのまま奥歯を噛み締めると、ザハロフ先生は窓の外を見ながら言った。
「俺はそうは思えない。王の妃なら、自分の子どもよりその他大勢の生徒の安全を考えるべきだ。それをあの女は……。自分の頭に乗せているのはオモチャの冠だと思っているのか」
暗い窓を震わせる、静かな怒りが伝わる声。
その怒りは、教師というより、まるで反逆者のような――。
そこまで考えて、俺は静かに唇を引き結んだ。
ザハロフ先生がこちらを向いたからだ。
昏い目が俺の真意を覗き込む。
「なあ、ギルフリート。その優しさは、お前を助けてくれたのか?」
学生時代を知る先輩の質問に、俺は答えることができなかった。
『アクセスは優しいもんね』
別れ文句でも、俺を詰る訳でもなく、ただ嬉しそうにそう言うシンシアをまだ思い浮かべる事が出来る。
『困ってる人がいたら助けちゃうの。ふふっ、もう習性みたいな物だよね』
亜麻色の髪を耳にかけて、宝石みたいな目を細めて。
嫌だった?と俺が聞いたら、目を丸くして首を横に振っていた。
『どうして?私、そんな貴方が好きよ』
そう言って、天使みたいに笑うから。
俺はまだ、こんな、何の役にも立たない優しさを持ち続けているのだろう。
「……まるで呪いだな」
ぽつりと呟いたその時、近くで声がした。
「何がですかぁ?」
「っ、メンテ……先生」
いつの間に近くに来ていたのだろう。
振り向くと、メンテ先生は料理を盛った皿を持ったまま、首を傾げていた。
その細い唇がニッと弧を描く。
「いけないですねぇ、隙だらけでしたよ?」
「はぁ……。ああ、ちゃんと見張るよ」
確かに、余計なことを思い出していた。
あまりに退屈で。
俺はため息をついて頭を振ると、もう一度、階下で揺れるドレスとタキシードを目で追い始めた。
とはいえ、広間の壁には近衛がびっしりと控えているし、招待客は顔の知られた貴族ばかり。
俺達の出番はきっとないだろう。
そう思うと、階下を覗くことさえ面倒になってくる。
豪奢な装飾も、貴婦人たちの華やかなドレスも、国一番のオーケストラの音色さえ、もはやなんの関心も引かない。
(ただ、煙草が吸いたい……。)
そう思った時、隣からムシャッという音がした。
見てみると、食べている。
「……ここで食べるなよ」
「ほほひほみひほほーほ(落としたりしませんよ)」
「いや、仕事中だろ」
「っ……毒見です」
ごくんと飲み込んでから、いけしゃあしゃあと言うメンテ先生。
次はキュウリとトリュフのドレッシングサラダに、トマトソースパスタを刺してフォークでひと口に食べている。
とても不味そうな組み合わせだ。
「……シェフが泣くぞ」
「ほーひべべむばー?(どうしてですかー?)」
「いや……もういい」
味の好みは人それぞれだ。
そういうことにしておこう。
味のジャングルになっている皿から目をそらすように下を見れば、メンテ先生も同じようにして覗き込んだ。
「……それにしても遅いですねー。バリー殿下」
「ああ、なんでも、エスコート予定の令嬢が遅れてるらしい」
侍従が言っていたから間違いないだろう。
と、そこで、カランカランと広間の扉のベルが鳴った。
王族の入る合図だ。
「は、はほひまひほほ(あ、やっときましたね)」
「静かに」
メンテ先生を制したのと同時に、広間の中も静まりかえる。
「開けよ」
王の声が静かな広間によく響く。
扉番が大きな扉を開けると、現れたのは、バリー王子とローザ・レドメインだった。
「レドメイン……」
シンシアが世話をしている少女。
そう考えただけで、途端に胸がざわつく。
あの薔薇の花のように結った髪は、シンシアの手づからだろうか。
あの何重にも広がる薄紫のドレスは、シンシアのセンスだろうか。
胸が締めつけられるように苦しくなる。
(会いたい……。)
ただ、会って話がしたい。
あの時何があったのか、今何を考えているのか、教えてほしい。
それも難しいなら、たった一つ。
君が俺に願うなら、何でもするという事だけでも伝えたい。
俺は欄干を握りしめた。
その姿を見られているとも知らぬまま。




