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毎月第4土曜日は、月に一度のお休みだ。
休みになると、私は決まって王都の街に出る。
とは言っても特に目的はなくて、ただの習慣。
私はほぼ無意識のうちに辿り着いていた郵便局の前を通り過ぎ、文房具屋の角を曲がった。
「きゃあああははは」
「いこーぜー!」
少し薄暗い細道を、向こうから走ってきた子ども達とすれ違う。
すると、ふいに道の奥の方からバイオリンの音色が聞こえてきた。
まだ夏が始まる前の土曜日の午後。
そんな素晴らしい日に弾かれる曲の名前は、"ブルー・レディ"。
ワルツの曲だ。
ほんの一瞬、赤い箒寮の談話室の光景が目に浮かんだ。
ところどころ色の変わった真紅の絨毯、おしゃべり好きな絵画達と、真鍮のブラケットランプ。
その美しい音楽につい心が惹かれ、私は奥へ奥へと歩き出した。
その曲をよく知っていたからだ。
私がまだ、母や、向上心や、大好きな恋人や、友人、使い古された教科書などで満たされていた頃、その曲は私と共にあった。
バイオリンの伸びやかな旋律。
――その音に、あの日の景色が重なる。
「あー引っ越し蛙まだかなぁ……」
16歳の私は白い薬草寮の廊下で首を長くしてその到着を待っていた。
ライヒンデルツ魔法学校の寮替えは3回。
通学組にとってはただの教室替えでも、寮住まい組にとっては、引っ越し作業の要る一大事だ。
その上、昨日はお別れ会と称して夜遅くまで話していたせいで、今、とても眠い。
「ふあー……」
私は壁にもたれながら欠伸をした。
すると、ゲコッと足元で低い声がして、そちらに視線をやる。
そこには2歳児くらいの大きさのまだら模様のカエルがいた。
私はそのブヨブヨした首にかかっている筒にフィセント硬貨を二枚入れる。
「二年のシンシア・ブラットよ。赤い箒寮にお願い」
「ゲコォ」
引っ越し蛙がそう気前よく鳴くと、口を大きく開いた。
それからピュッと赤い舌が伸びてきて、あっという間に私のトランクは飲み込まれてしまう。
「ありがとう。赤い箒寮で待ってるわね」
私は手を振って、赤い箒寮へ向かった。
全員が授業を受ける講義棟とは違って、寮の入り口はそれぞれの寮らしさがあふれている。
白い薬草寮は草や木の生い茂る薬草園の先にあるし、青い猫寮は箱が積み重なったタワーの上にある。
赤い箒寮はというと……たぶん、これを渡らなければいけないのだろう。
切り立った崖の先、ローファーの足先3センチに浮かんでいるのは大きな丸太だ。
丸太といっても、10人の大人が横一列に並んで歩けるほどの太さはある。
橋。そう思えばいい。
(でも……高いって……!)
ヒュウと崖下から風が吹き上げ、私はごくりとつばを飲み込んだ。
勇気を持って一歩踏み出せば、風が吹くたびに丸太が微かに揺れるのが分かる。
(こ、恐っ……!これから毎日ここを渡るの……?!)
両足を乗せる勇気が出ない。
「止まらないで歩いてー」
すると向こう岸にいる監督生が人並みを誘導するように大きく手を回した。
「怖いの?」
「っ!」
振り返ると、そこには紺色の長い髪を三つ編みにした女の子がいた。
灰色のローブの内側は、青。
この子も引っ越し組だ。
その子は分厚い黒縁眼鏡を押し上げながら言った。
「手、繋いでてあげよっか」
「ありがとう。お願いしてもいい?私はシンシア。シンシア・ブラット」
「メリルよ。メリル・リアンガーデン。ふふふっ、よかった。変な人間だと思わないでね。正直言うと、私もちょっと怖かったの」
そう言って、メリルはニッと口の端を上げ、手を繋いでくれた。
細くて柔らかい手だ。
でも、温かい。
私は気恥ずかしさなんて吹き飛ぶくらい、メリルと仲良くなれそうな気がしていた。
「メリルは青い猫寮から?」
「そうよ。友達はほとんど居残りだから寂しくて。シンシアは?」
「私も似たような感じ。同じ赤い箒寮になったのはあんまり話したことない人ばっかりだったから、どうしようって思ってたの」
「あら、じゃあ私達似た者同士ね」
メリルはまた口の端を上げてニヒルに笑った。
どうやらそれが彼女の笑い方らしかった。
「ぅおーい、リアンガーデン。俺達は忘れられてんのかよ?」
すると、ぬっと出てきた腕がメリルの肩を叩いた。
途端にメリルの眉間に皺が寄る。
「アンタ達はあまり話したことがない人枠よ」
「ひでぇ!」
けらけらと笑う男の子。
その逆立てた髪をつい目で追うと、ふと、その隣で同じように笑っている男の子に気がついた。
鴉の羽よりも黒い黒髪。
涼やかな顔立ちと、切れ長の金色の瞳。
(うわあ……かっこいい……。)
そのどことなく品のある佇まいに、思わずじっと見てしまう。
すると、その目が私の視線に気付いたような気がして、私は慌てて視線をそらした。
(すごい人がいたわ……でも、こういう人はだいたい彼女さんがいるから気をつけないと。)
私の目標は卒業して、いい所の家庭教師か侍女になることだ。
いい所の子どもばかりが集まるここライヒンデルツで、人の男を取るような女だと思われたら、将来に直結する。
私はメリルと繋いでいた手を放して、そっと微笑んだ。
「メリルのお友達?」
「っ、違う」
「はいっ!そうです!あの、俺は――」
ツンツン頭の彼が身を乗り出した時だった。
突然、ぐらっと地面が揺れて、私は右に2、3歩よろけた。
「痛っ」
「すみません」
誰かの足を踏んでしまって、慌てて後ろに下がる。
するとその瞬間、ふっと体が浮くような感覚に襲われた。
いや、本当に浮いている。
違う、丸太が落ちている。
「えっ」
きゃあと誰かの短い悲鳴が聞こえた。
「っ……!」
私は恐怖で言葉も出ない。
ちらりと見た崖の高さが頭をよぎる。
(あの高さから落ちたら、死――)
しゃがみこむ私を庇うように、誰かの手が背中に回った気がした。
無我夢中で私はその服を掴む。
誰かなんて気にしている余裕はなかった。
そろそろ谷の底に打ち付けられるかと思ったその時、高らかに声が響いた。
「悪戯が過ぎるぞ!」
監督生だ。
と気がついた時、丸太の落下がぴたりと止まった。
遅れて、ぐんと重力が全身にかかる。
「っ、」
息が詰まる。
私は誰かの服を握りしめて、うつむいた。
「すまない!よそ見をしていた!大丈夫かー!」
エコーがいくつもかかった監督生の声。
「大丈夫ですー!」
どこかの誰かが返事をする。
「良かった!本当にすまない。今、上がらせるからなぁ!」
監督生がそういうのと同時に、足下の床、もとい丸太がゆっくりとエレベーターのように上昇しだした。
あちこちで安堵の声が聞こえる。
「ハァ。もう、また赤い箒のイタズラか……」
誰かがそう言った。
(はぁ……。生きてる……。)
浅く息を吐いて、私もそろそろと顔を上げようとしたその時、頭のすぐ上で声がした。
「大丈夫?」
チェロのような声。
男の子の声だ。
ハッと私は顔を上げる。
すると前髪が触れそうな距離に――彼がいた。
「「…………」」
金色の瞳がまばたきを一度して、私を見ている。
それが、人生で一番胸の高鳴りを感じた瞬間。
アクセスと私の出会いだった。




