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シンシア・ブラットは小さな鐘の音で目を覚ますと、ベッドの中でうーんと伸びをした。

ころんとした目覚まし時計は朝の5時ぴったり。

いつもなら、毛布に残ったぬくもりを恋しがって、もう少し寝返りをうったりするのだけど、今日ばかりはそうはいかない。


「……ふぅ」


身体を起こして、深呼吸をひとつ。

それからすぐに足を持ち上げて、つま先をベッドの外に出した。

春先の朝は少し肌寒い。


明かりをつけろ(フォティノス)


そう呪文を唱えながら、洗面台の横にかかっているランプに手をかざすと、ぼうっと明かりがついた。

長方形の鏡に映る自分は昨日と何も変わらない。

この国の大半と同じ緑の瞳に、鎖骨まで伸びた麦色の髪。

顎のラインが記憶より丸くなっている気がするけど、もう30歳だし……きっとこれは年相応だ。たぶん。


蛇口をひねり、アラビヨンセンのせっけんで顔を洗って、くしで髪を梳かし、くるくると一つにまとめる。

かかった時間はおよそ10分。

世間では魔法で身支度を整える人もいるけれど、私は手を使って整えるほうが好きだった。


(その方が早いし、綺麗だもん)


スキンケアをした後は、パデュユのおしろいをブラシで塗って、ペンシルで少し眉毛を書き足し、最後にマレン地方の特産だという薔薇の口紅をのせる。

少し暗めの赤色が、大人っぽくて気に入っていた。


「♪〜♪〜♪」


口ずさむのは、この前街に出かけた時に聞きかじった曲。

流行りなのか少し前の曲なのかは知らないけど、ひとり口ずさむ分には何でもいい。

パジャマを脱ぐと、塵一つない真っ黒なメイド服に着替える。

その上に清潔な白いエプロンをつければ、ほら、いつものシンシア・ブラットのでき上がり。

私は鏡の前で後れ毛や袖のチェックをして、それからくるりと部屋を振り返った。


「いってきます」


部屋は返事をしない。

当たり前だ。

もう十年以上そうだった。

私は自室のドアを閉めて鍵をかけると、さっと廊下で向きを変えた。

眠っているように暗く静かな屋敷の中を迷うことなく進んでいく。


「あぁ、今日はやることがいっぱいだわ」


それもそのはず。

だって今日はお嬢様の入学式なのだから。




「お嬢様ー、起きてくださーい、お嬢様ー?」

「んん゛ー……」


お部屋のシャンデリアに明かりをつければ、眩しそうに眉根を寄せて呻くお嬢様。

その細い指が毛布を握る前に、私は柔らかな毛布を引っ剥がす。


「う゛ぅー……シンシア゛ァー……」

「もーう、しっかりしてください。今日は待ちに待った入学式ですよ。それに、"いつもより1時間早く起こして"ってお嬢様がおっしゃったんですから」

「う゛ううーでもぉー……」

「はーいお嬢様、そんな声出してもダメです。ほら、あっちの椅子まで頑張りましょう?今あったかいハーブティーを淹れますよ」


子どもに言い聞かせるように言うと、目蓋が震え、猫のような目が開いた。

真紅の薔薇のような赤い瞳がのぞき、ゆっくりと私を見つめる。


「……蜂蜜はぁ?」

「もちろん、たっぷり」

「じゃあ、いく……」


のっそりと起き上がったお嬢様に、私はほっと胸をなでおろした。

お仕えして十年以上。

お嬢様が気持ちよく起床されたことは、ない。


(とりあえず、今日はさっと起きてくださって助かったわ。)


まだ目をこするお嬢様を鏡台の前に座らせ、その膝にカナリヤの刺繍が入ったひざ掛けを乗せる。

それからミモザのティーカップにハーブティーをたっぷり注ぎ、ソーサーごとお嬢様に手渡すと、お嬢様は上品な所作でそれを飲んだ。


「……おぃしぃ」

「よかったです。頭がスッキリなさるよう、リンデンとレモングラスを多めにいれてみたんですよ」

「そぅ……」


そう言いながら、お嬢様はまた夢の彼方へ漕ぎ出しそうだ。

私はうつらうつらするお顔をコットンで拭きながらお嬢様に呼びかけた。


「お嬢様、お嬢様」

「はっ、ぁあー。……だめだわシンシア。……ねぇ、気を抜くと眠ってしまいそうなの。眠気ざましに、いつものお話をきかせてくれない……?」

「えっ、いつものですか……?」


思わず手を止めた私に、お嬢様は目を閉じないよう懸命にこらえながら頷いた。


「うん」

「……はい。分かりました」


こんな日にする話じゃない気がするけど、これは言い出したら聞かない顔だ。

私は肩をすくめて、その柔らかい肌に化粧水を塗りながら優しく語り始めた。


「これは……魔法学校で知り合った、私の友人のお話です。彼女はこのグェンダル王国の中央より少し東の、痩せた土地を治める子爵令嬢でした。貧乏子だくさんなんて世間で言われるように、彼女の下にはなんと5人もの弟妹がいて、家計はもう何年も赤字が続いていたのです。なんとかお家を立て直そうとするものの、領地は険しいカントラ山脈の麓にある麦も育たないような土地だけ。しかも父は病気がちで、何か特別な魔法を継承しているような家でもありませんでした」

「えぇ……お友達のお話ね」

「はい」


私はそのハリのある頬に乳液を伸ばしながら頷いた。


「……そこで、その子は母親に約束をしたのです。『頑張って勉強して、この国一番のライヒンデルツ魔法学校に入る。そこでいっぱい勉強して、必ずお金持ちの家の侍女か家庭教師になる。これからの食い扶持は自分で稼ぐし、余ったお金は必ず実家に送る』と……」

「まぁ。いつ聞いても……まるで口べらしだわ……」

「いいえ、お嬢様。彼女はもう十分、親の脛をかじってきたのです。ですから心に決めて勉強し、彼女は無事、ライヒンデルツ魔法学校に入学しました。しかも特待生として。初めての王都、初めての寮生活。楽しい友人達と夜遅くまで語らったりして……。ええ、本当に、本当に()()()()()。……っ、けれど転機が訪れました。二年生の時、彼女は恋をしたのです」

「ふふっ、黒豹みたいな人?」


お嬢様がおかしそうに微笑むから、私も笑いながら頷く。


「えぇ。怖いもの知らずなのに、心配性な――黒豹みたいな人ですよ」

「ステキね」

「えぇ本当に。彼女はとても素敵な恋をしました。とても、とても素敵な恋でした。けれど、彼女が3年生になる前、実家から手紙が届いたのです。それは父の危篤を知らせる手紙でした。彼女は矢も盾もたまらず学校を飛び出しました。5日分の欠席届を出して、バイトで貯めた貯金の半分を費やし、早馬のペガサスを借りて。けれど……実家に帰った彼女を待っていたのは……結婚式でした。初めて会う、王都出身の、14歳年上の男性と」

「…………」


お嬢様の細い眉が下がる。

私はぎゅっとブラシの柄を握りしめた。

そして優しく、羽毛に触れるようにお嬢様の髪を手のひらに乗せる。

薔薇で染めたような赤い髪はまるで絹の糸のようにさらさらとブラシの下を流れていく。


「……領地の、経営のためだったそうです。彼は特殊な魔法の研究員で、その技術を取り入れるために、彼女の母親が仕組んだことでした。そして彼女には何の説明もなく、母親は娘の服を脱がして、彼と一晩納屋に閉じ込めたのです」

「……ひどい」

「えぇ。でも、彼は悪人ではありませんでした。怯え、泣き喚く14歳下の少女に上着を貸すと、部屋の隅で黙って背を向けて座っていたのです。えぇ、彼は手を出しませんでした。でも、そんな事、誰が信じてくれるというのでしょう」

「……」

「朝が来て、納屋へ迎えに来た使用人は彼女を夫人として扱いました。その時、彼女は分かったのです。もう決して、学校にも、彼女の恋人の元にも戻れないのだと。……彼女は衝動的に家を出ました。実家に連れ戻されるのを恐れて、有り金を全て注ぎ込み、何よりも速いペガサスを雇い、急いで友人の家へ転がりこみました。ええ、ライヒンデルツで得た友人は彼女を庇ったのです。……彼女はそこで心の傷を癒やし、そして仕事を得ました。彼女の願った通りの仕事です。愛らしい主人に、思いやりのあるご夫婦、楽しくも頼りになる同僚達。そして、彼に愛されていた頃の思い出が、いつも彼女を支えてくれました。彼女はもう幸せでした。いつまでも、いつまでも、幸せに暮らしました……おしまい」


長い話を終えて、私もホッと息を吐く。

鏡を見ると、お嬢様の髪型はバッチリだった。


「できましたよ」


ブラシをしまいながらそう言うと、お嬢様は前を見たままぽつりと言った。


「……難しいお話」

「ふふっ、そうですか」

「えぇ。でも最近……少しね、その()()()の気持ちも……分かるようになってきた気がするの」

「まぁ」


微笑みながら私は椅子の背もたれに手を乗せる。

次は朝食だ。

今日はシェフが腕によりをかけて作るそうだから、きっとお嬢様も喜ばれるだろう。

そんな事を考えながら、ゆっくりお嬢様の椅子を回す。

すると、真っ直ぐな赤い目が私をじっと見上げた。


「……シンシアは、今幸せ?」

「はい、もちろん」


(だって、もう昔のことだから……。)


私は眉を下げて、ゆっくりと頷いた。


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