どうか、つれていかないでください。
異世界への行きかたというものを調べたことがある。
五芒星の中心に「あきた」と書いて枕元に置く方法や、エレベーターを使った方法など、調べてみると存外たくさん出てくるのだ。
その中で私が興味を抱いたのは、次の通りの方法だ。
就寝時、左手を顔の側に置いて寝る。
これだけだ。
これをやりさえすれば、「なにか」が異世界へと連れていってくれるのだという。
私はこの世界にうんざりしていた。
人間関係、労働環境、金銭関連。様々な要因が重なり絡み合い、辟易としていたのである。
だから私はこの方法を知ってからというもの、毎晩左手を顔の側に置いて寝るようにしていた。
一回目。
朝、普通に目が覚めて、がっかりした。
二回目、三回目も以下同様。
こんなものは結局、話半分に聞く噂話でしかない。小学生がやるおまじないに似たものと言っても良い。
それでも、半信半疑、私はこれを習慣化し、やめようとはしなかった。
ここではないどこかでなら、やり直せる気がする。
ここではないどこかでなら、私は私らしく在れる気がする。
気がする。
たったそれだけの理由で、私はこの異世界への行きかたを実行し続けた。
ある日の晩、それは起こった。
いつものように左手を顔の横に置いて寝て、どれくらい経った頃だろうか。
左手に、やんわりと冷たい「なにか」が触れる感触があった。
それが「なにか」はわからない。人の手のような感触でもあり、動物の手のような感触でもあり、それ以外のなにかのような感触でもあったからだ。だから私は漠然と「なにか」が手に触れたとした感知できなかった。
同時に、やっと私の番が来たのだとも思った。
ああ、ようやく私はこの世界を脱出できる。
そう思うと、嬉しくて仕方がなかった。
「ありがとうございます」
私は「なにか」にお礼の言葉を贈ったが、どうだろう、口からは音らしきものは出なかったかもしれない。はくはくと息だけを吐いたような感覚だった。
けれど「なにか」にとっては、それだけでも良かったのかもしれない。
私がお礼を言った途端、左手に触れる「なにか」の感触はより一層強くなった。それでも私には、「なにか」の正体はわからない。しかし「なにか」が何者であろうと、構わないのだ。
今の私には喜び以外の感情は欠落していて、だから、私の意識体がするりと身体を抜け出して幽体離脱しようと、全く驚きもしなかった。
私はこれからどうなってしまうのだろう。
私はこれからどんな存在になるのだろう。
……私はどこへ向かおうとしているのだろう。
そこまで思考が至ったところで、ようやく、私の全身はかつてないほどの悪寒に襲われた。
ぞくぞくして、ぞわぞわして、ぞりぞりする。
直感が、現状を、拒絶する。
ようやくここではないどこかに行けるのに、ここではないどこかへ行くのが、今、無性に怖い。
怖い。
怖い、怖い、怖い。
「やめて。つれていかないで」
必死に、拒絶の言葉を口にする。
しかし実際に口から出たのは、情けない吐息だけ。
それを受けて、「なにか」はさらに強く私の手を握った。
ぐいぐいと、より強力に引っ張られていく感覚に陥る。
私の身体が、どんどんと遠くなって小さくなっていく。
「いやだ。やめて」
どれだけ懇願しても、「なにか」はやめてはくれない。
それはまるで、「ようやくあなたの番になったのに、なにを言っているんですか?」とでも言っているような問答無用さだ。
「お願いです。どうか、つれていかないでください」
泣き叫ぶように、私は言った。
果たして、決死の思いが通じたのか、ふと、「なにか」の手の力が緩んだ気がした。その隙を見逃さず、私は「なにか」の手を振り切り、意識を身体に戻すことに成功した。
反射的に、起き上がる。
私の身体は冷や汗でびっしょりと濡れていて、息も絶え絶えになっていた。
残れた。
この世界に、残れた。
それが、嬉しくて仕方がなかった。
けれど同時に、悲しくもあり。
私はただ、無力感に襲われることとなった。
だって私は、ここではないどこかへ行きたかったのだ。
新しい自分になりたかったはずなのだ。
本能が邪魔をしなければ行けていたけれど、本能には従ったほうが良い気もする。
ぐるぐると、堂々巡りの思考に陥る。
私は、どうすれば良かったのだろう。
終
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