桜隠し
アパートに帰ると鍵が開いていた。やれやれまたかと部屋の中に入ると朋夏がキッチンに立っている。
「しつこいな、俺は彼女はいらんって言ったやろ?」
「彼女はいらんでも晩ご飯はいるやろ?」
振り返りもせずに答える彼女に
「いいかげん合鍵も返してくれよ」
飲み会で遅くなったときに、一晩くらいならと部屋を貸してやったらそのまま鍵を返してくれない。
「だってこれ返したら遼介の部屋に入られへんやん」
「いや終電なくして可哀そうやと思って貸しただけやのに、いつのまにか勝手に入ってきて料理作ったり掃除したりっておかしいやろ」
「はい出来た、食べましょ」
食事のあと、朋夏を車で家まで送っていく途中、
「なあ朋夏、なんでお前が俺にこんなことをしてくれるんか知らんけど、俺はほんまに誰とも付き合う気なんかないんやで」
「前にも聞いたけど、それはいつまでなん?」
「いや、いつまでって決めてるわけやないけど」
「じゃあ、遼介が彼女を作ってもいいと思ったときにあたしに一番最初に声かけてくれるん?」
「そんなんわからへんやん」
「じゃあやっぱりこうやって行列の先頭に並んどくわ」
「やれやれまじかよ、おっともう着くぞ」
「あたしってまるで追い返されるシンデレラみたいやね」と朋夏。
「いつになったらあたしはかぼちゃの馬車に乗らなくて済むようになるん?」
「じゃあ俺はネズミかよ、いや馬だったか。まあどっちでもいいや。おまえ下手すりゃストーカーだぜ」
「でもこうやって送ってもらえるストーカーはおらんやろ」
「口の減らんやっちゃ」
朋夏を送り届けてからアパートに帰ってきた。郵便受けに一通の封書が入っていた。切手も差出人の名前もないが、中にあったのは「円山公園」と書かれた便せんが一枚。
「なんやこれ、意味わからん」
ただの悪戯か新手の宣伝かと思いテーブルに放り投げてソファに倒れこむ。朋夏が嫌いなわけじゃあない。むしろ好きだ。だから勝手に部屋に入られても腹が立ったりはしない。しかしこんな関係がいつまでも続いていいもんだろうか、それとも朋夏が言うように俺の考えがいつか変わるんだろうか。朋夏が片付けてくれたキッチンを見ながらどうしたもんかと考え込むうちに寝てしまったらしい。
「いや、まさかな」
寒さで目が覚めたが、 ふと思い当たったことがあり机の引き出しを探した。二年前にもらった一通の手紙だ。二年前に一日だけデートをした女の子からもらった手紙だ。
二年前、工場で働いているときだ。何百台もの大きな機械に囲まれて仕事をしていた。機械がフル回転する轟音の圧力と、機械油をたっぷり吸った重たい空気の中で俺は働いていた。
ある夏の日、機械の列の裏側に先ほど交代した早番の班の女の子が立っているのに気が付いた。顔は知っているし何度か言葉を交わしたこともあるが特別仲がいいという訳ではなかったので、なにか業務関係の連絡でもあるのかなと思ったが、
「ねぇ、音楽聴くのは好き?」
彼女がやや大きめの声で聞いてきた。
あぁこれでもバンドやってたからね。と答えたら機械と機械の間から茶封筒を差し出してきた。かろうじて油がついてない指でつまんで受け取り、裏表を確認している間に彼女は走り去った。その場で中を確認しようとしたら油まみれになってしまうので、ポケットに押し込んでアパートに帰ってから確認することにした。
ラブレターでないことは茶色の事務用封筒だったことから推測はついていた。中にはコンサートのチケットが一枚。他には何にも入ってない。
封筒とチケットと湧き上がる疑問を前にして考えた、この主語も動詞もないメッセージに対してどう行動するか、同僚の悪戯という可能性も考えた。あいつらならやりかねんなと顔が浮かぶが、動機がないしなあ。まあどうせ暇だし、行ってみて気に入らなきゃ帰ればいいだけだから行くことにするか。
コンサート会場の京都円山音楽堂へ向かった。封筒を受け取った週の土曜日だ。
円山音楽堂は八坂神社から円山公園を抜け、高台寺方面に向かう途中にあるけっこうでかい野外音楽堂だ。三千人ほどは入れるらしい。青色のベンチが半円形に並ぶ斜面の底にステージがある。ゆっくりと斜面を下り指定された席に着くと隣にはすでに彼女が座っていた。特に休日用の表情は持ち合わせていないらしい。いつもの仕事中と変わらない表情と口調で
「私、この歌手のファンなの」
「偶然やな、俺もや」
俺はあまり他人のことに関心がないので、どうして、とか なぜ、とか他人の行動や考えに質問をするのが得意ではない。彼女も何か聞いてくるでもなく奇妙な沈黙が続く中コンサートに没頭していった。
コンサートの後、そのまま帰るのもなんか変だし一応誘ってみることにした。たぶんそういうことだよな。
「何も話さへんってことはなんか理由があるんやろうからあえて聞かへんけど、この後俺はどうすればええんやろ」
「コーヒー、飲みたい」
「了解。チケットおごってもろてるしな。コーヒーはおごるわ」
円山公園方面へ少し戻ったところにある長楽館というカフェに入ることにした。ここは明治時代に「煙草王」と呼ばれた村井財閥創始者の別邸だったところだ。明治四十二年の竣工だからレトロ感たっぷりだが、外観だけでなく内部も明治時代の雰囲気がそのまま残っている。注文したアイスコーヒーが来るまでの間に聞いてみた。
「一つだけ聞くわ、嫌だったら答えんでもええからな」
「今日は俺で良かったんか?」
彼女は顔を上げて答えた。
「あなた“が”良かったの」
「そうか、ならええわ。たぶんあんたは今まで誰ともデートしたことないんやろうけど、もし俺があんたをがっかりさせてたら申し訳ないなと思ったんや」
「そんなことない、思った通りいい人だった」
「だった、か。こんな適当でちゃらんぽらんな男が?」
彼女はそれには答えず笑みを浮かべながら俺のほうを見ていた。アイスコーヒーが運ばれてきて、俺たちは仕事の事や故郷の事なんかで少し話をした。彼女は話し出してみると時々笑顔を見せながら楽しそうにしていた。まあ楽しんでくれてるならいいか。
彼女は女子寮に住んでいたのでそこまで送っていき、直前の横道で分かれた後、時間つぶしにタバコに火をつけた。女子寮生はいろいろな噂が立つのを嫌い、男と二人では寮の前にはいかないという暗黙のルールがあったためだ。特に門限ギリギリは他の女子寮生も駆け込みで戻ってくるから鉢合わせしないようにしないといけない。近くにある街灯のくっきりした光柱の中をタバコの煙が波打ち渦巻いて闇に消えていくのをぼんやり眺めながら、次は俺が誘うべきなんだろうか、やっぱり有名な歌手のライブがいいのか、などと考えていた。もう一度会いたいと思い始めていた。職場では見たことない彼女の笑顔が心に強く残っていた。
翌週、彼女は会社を辞めた。さよならも言わずに。
ひとつ分かったのは彼女は同僚にも何も言わずに辞めたらしいので、俺に茶封筒を出してきたときすでに黙ってさよならすることを決めていたんだろう。
会社を辞めるから一日だけ付き合って、と言ってくれればいいのにそうしなかった理由は何だろう。また会えると思っていたのに突然さよならになってしまい心の収まりが悪い別離となった。
さよならを言わずに去った彼女から手紙が来たのは夏の終り頃だった。
お見合いで結婚が決まっていたこと、両親や親せきもすごく喜んでくれ、何の不満もない相手だったこと、実家を出て京都で過ごしたこの数年はとても楽しかったこと、などの書き出しに続き
「ただ、会社を辞めて実家に帰る日が近づいてくるにつれ、なにかに焦れるように胸がざわついて、このまま敷かれたレールを走るだけでほんとうに私は幸せなのか、自信がなくなり悩んでいました。家族や親せきの幸せが自分の幸せだとずっと思っていたけど、それだけではこの先自分の心が持ちこたえられそうにないと思いあの計画を立てました。
あなたを、いつも遠くから見ていました。隣に座りたいとか二人だけで遊びに行きたいとかそんなことは考えてなかった、ただ私と違い自由奔放なふるまいのあなたを見ていることが楽しかったの。でもそれだけでは我慢できなくなった。一日だけあなたの時間が欲しい。私の人生のために、これから平穏で平和な人生を歩むために。
自分勝手な望みだということは充分分かっていたけどとても止められない衝動でした。コンサートチケットをいつ渡すか、どうやって渡すか、なんて言えばいいのかいろいろ考えたけど、いざ渡すときには緊張して何も言えなかった。でも受け取ってくれてありがとう。チケットを渡したあと自分でも驚くほど心が落ち着いたのが分かりました。受け取ってくれた、それだけで計画は成功したように感じ、当日来てくれるかどうかは気にならなくなっていました。そもそもあなたが当日来てくれる可能性はかなり低いだろうと思っていたし。
土曜日は空いてない、音楽には興味ない、そもそも私に興味ない、来ない理由はたくさんあった。でもチケットを渡したときに結果が出てほしくはなかったの。土曜日を思い出にしたかったから。
当日、空いたままの隣の席にはぬいぐるみでも置こうかと考えていた時、ベンチの間を下りてくるあなたが見えた。どっちでもよかったはずなのに緊張で頭の中が真っ白になってしまったわ。理由を聞かれたら正直に話すつもりでした。それであなたが怒って帰っても仕方ないと思っていた。でもあなたは何も聞かなかったし、ずっと前からの友達のように接してくれた。
あの一日は、たった一歩だけど私がレールから外れることができた勇気の記念であり、親にも言えない私だけの秘密になり、私だけの宝物になりました。ありがとう私のわがままに付き合ってくれて。
さようならは言いません。あの一日をさようならで終わらせたくないのです。チケットを渡すことを計画したときに決めていました。さようならを言わずに消えることで思い出を続けていこうと。私の心の中だけでも。
今はとても心が落ち着いています。
あの日一緒にいてくれてありがとう。
あなたに出会えたことに感謝しています」
考えてみれば結構残酷な手紙だよな。彼女はいいさ、思い出が作れて。俺はどうしたらいいんだ。あのあとずっと彼女のことが忘れられなくなってしまった。なにしろもう付き合ってほしいなんて言える訳もなく、ただ指をくわえて結婚するのを見守ってなきゃいけないんだ。だからといってすぐに忘れてしまえと忘れられるほど恋ってやつは都合よくできていない。
たった一日だったけど、恋を知るには十分な時間だった。恋は恋から始まるとはよく言ったもんだ。ともかく俺はいまだに彼女以外に恋ができないでいる。ショーケースの向こうに飾られた彼女をひたすら眺めるだけの毎日だ。
まあでも、あの一日が彼女の思い出の路傍でキラリと光るガラス玉にでもなれたのなら嬉しい。さよならの言葉はなかったけど、もう思い出の中でしか会えないことも分かってるけど。とにかく時間がこの恋を薄めていってくれるのを待つしかない、とずっと思ってたんだ。朋夏が忘れさせてくれるかもと思ったが、今のところそんな兆しはないし。
久しぶりに彼女からの手紙を読み終えて考えた。もしこの「円山公園」の封筒を彼女が持ってきたんだとしたら、彼女は俺に会いに来たんだろうか。結婚はどうしたんだろうか。なにかあったのか。考えてても分かる訳はないのでとりあえず近くを探してから円山公園に行ってみるか。
夜遅くなっていたのでアパートの周りは人通りがほとんどない。彼女とデートするまでは毎週のようにナンパに来ていた河原町を通り過ぎ、八坂神社を抜けて円山公園に着くと桜がライトアップされていてたくさんの人出だ。主だった場所で目を凝らしたが彼女を見つけることはできなかった。
一か月後また封書が届いた。今度は
「狐の嫁入り」と書かれた便せんが一枚。
相変わらず差出人は書いてないがあて名は書かれていて切手も貼ってある。
「新潟津川」の消印
確か彼女は故郷が新潟だと言ってたな。もう間違いなく彼女だ。
これはもう行って確かめるしかないか。もちろん彼女の家も連絡方法も知らないけど、このまま動かずにいても何も分からない。少なくとも彼女が何らかのサインを送ってくれているんだから、確認しなきゃ。というか正直に言えばもう一度会いたい。どんな理由だろうが構わない。もう一度会えるなら。
次の休み、俺は新潟へ向かった。まずは京都駅から東海道新幹線で東京へ行き東北新幹線に乗り換えて郡山まで行く。郡山からは磐越西線で津川駅を目指す。七時間を超える列車の旅だ。乗り継ぎがうまくいけば夕方には津川駅に着く。
朋夏には「今夜は帰らない」と置手紙をしてきた。帰ってきたら関係をはっきりさせなきゃな。
東北新幹線の車窓から見える景色は東海道新幹線のそれとはまったく違って山また山だ。時折すごく切り立った山脈も見える。腰が痛くなったころ郡山に着いた。ここからは磐越西線で三時間ほどだ。各停しかないのでのんびり行くしかない。東北新幹線よりさらに山が近い。もう一生分の山を見たかもしれない。
津川駅に着いた。小さな無人駅だ。外に出ようとして思わず後ずさりした。山やスギ林がかなり近く感じたからだが、もう一つ理由がある。
彼女が立っていた。
いきなり抱きついてきた彼女が耳元で
「会いたかった」と囁いた。俺のほほに当たる彼女のほほがとても冷たかった。
「俺が来るのを待っててくれたのか?」
「うん、早く会いたくてずっと待ってた」
しばらくの抱擁の後、俺たちは歩き出した。
「遼介さんなら分かってくれると思ってた」
「円山公園と狐の嫁入りの手紙のことか?」
「そう、遼介さんはああいう演出が結構好きでしょ?」
「ええ?そうかなぁ」
「覚えてる?私が入社間もないころ遼介さんが誕生日の花束をくれたこと」
あ、そうかあれは彼女だったか。俺はサプライズで人を喜ばせるのが大好きだから、昔はよく演出した行動をしていた。彼女のことも他の女子社員と雑談してるときに、一年目で友達も少なく誕生日も仕事で寂しいと漏らしていたと聞いた時、よしじゃあ俺が何とか楽しませてやろうと企画したんだ。
「職場でライン作業をしていたら、正面の自動ドアからロングコートを着た遼介さんが入ってきて、そのまままっすぐ私の前まで歩いてきてコートの中から花束を出して私にくれたの。誕生日おめでとうってね」
「思い出したよ、そんなこともあったなぁ」
「びっくりするやら恥ずかしいやらでしばらく作業ができなかったわ、休憩時間にみんなから冷やかされたしね」
「今頃謝るのも変だけど、嫌な思いさせたんならごめん」
「ううん、すごく嬉しかったの。嬉しくてその日は夜中まで泣いてたわ」
彼女はこちらをむいて楽しそうに話す。
「でもそのあとで遼介さんとすれ違っても知らん顔されてたのにはちょっとショックだったけどね」
「ああ、ごめん。俺はサプライズで誰かの喜んだ顔を見るのが好きなだけで、対象の女の子をどうこうという意図が全くないから覚えてないんだよね」
「うん、時間が経ってそれも分かったからますます遼介さんが好きになったの」
「ところでこれはどこへ向かって歩いてんの?」
「麒麟山公園」
駅から出て赤い橋を渡って、昔ながらの商店街やトンネルを通ってかれこれ三十分くらいは歩いただろうか。やがて川沿いにたくさんの桜が咲いた公園に着いた。観光客もいるんだろうか、結構な人出だ。
俺たちは枝ぶりのいい桜の木の下に座り込んで昔話をした。久しぶりに見る彼女の笑顔は最高だった。ずっとこの時間が続いてほしい、と思った。
「私、遼介さんのアパートに行ったのはただ顔が見たかっただけなの」「でもアパートから奇麗な女性と一緒に遼介さんが出てくるのを見てちょっと嫉妬しちゃった」
「ああ、あの子とは特に何もないんだ」
「分かってる。遼介さんは優しいから女性にもててたしね」
「優しいかね。ただ無責任なだけのような気もするけど」
「遼介さんが幸せならそれでいいや、と思ってそのまま帰ろうとしたんだけどどうしてももう一度抱きしめてほしいなと」
「それで円山公園のメモを」
「うん、忘れてたらそれでいいし、もしまだ覚えててくれたらきっと私だと気づいてくれるだろうと思ってね。そして次に狐の嫁入りで場所を暗示して、最後に『会いたい』って手紙を出そうと思ってたの。ちゃんと住所氏名を入れてね」
「じゃあ最後の手紙を出す前に俺はここに来た訳だ」
「うん、思ったより早かった」と言って彼女は笑った。
「俺が来なかったらどうするつもりだったの?」
「悲しいけど、それが運命だと思ってあきらめてたよたぶん」「私の人生はずっとそうだったから。遼介さんにもらったあの一日を除いてね」
ちょっとうつむき加減に彼女は言う。
「でも、遼介さんは自分の幸せを追いかけてくださいね」
「俺はこうして君の隣に座っていられることが一番の幸せだよ」
「あはは、嬉しいけど無理しなくていいよ」
「無理じゃないよ。俺はあの日からずっと君のことが頭から離れないんだ」
「それが遼介さんの『優しさ』だよ。もう分かってるんでしょ?私たちの関係に未来はないって」
「一生君だけを思い続けるよ」
「それは私の幸せじゃないわ」
彼女はやや強い口調で続けた。
「遼介さんが笑顔で暮らしている姿を想像できることが私の幸せ」「私を思い続けてしかめ面で人生過ごしてほしくなんかない」
「でも」と言いかけた俺を制して
「時には冷たく突き放すことも必要なんだよ。お互いが前に進むために。変えられない運命にこだわるより変えられる運命を手繰り寄せることに力を集中させなきゃ」
「君は・・強いんだね」
「遼介さんが強くしてくれたのよ。さっき嫉妬したって言ったけど、別に悲しかったわけじゃあないし不幸せだと感じたわけでもないの」「こんなに愛させてくれてありがとうって感謝したくらいよ」
「俺には分からんな」
「ふふっ、たぶん遼介さんはもう分かってるわ。遼介さんが愛することで幸せにできる人がいるってことを」
「私はこんなに人を愛せて感謝してるの。ありがとう遼介さん」
空はすっかり暗くなった。
「私そろそろ帰らなきゃ」
「えっ、まだいいだろ、まだ一緒にいたい」
「遼介さん、今日はなんか用事があったんでしょ?」
「いいんだ用事なんか、一緒にいられる時間のほうが大事や」
「また明日会えるよ」
彼女は桜を見上げながら言った。
俺は近くの温泉旅館を予約していたのでタクシーを呼んで乗せていってもらうことにした。
タクシーに乗り込むとき彼女が念を押すように
「明日、会いに来てね」と言った。
「もちろんだよ、約束する」
発車したタクシーの中から振り返ると、彼女はもう消えていた。遠くの山のふもとに赤い狐火が揺れていた。
翌日、タクシーで彼女の実家に向かった。彼女の実家は田畑に囲まれたどこにでもあるようながっしりとした平屋の農家だった。入口で受付を済ませ室内に入るとすでに読経が始まっていた。俺は一番後ろの席に座らせてもらい、花で囲まれた彼女の遺影を眺めていた。
昨日、新幹線に乗るためアパートを出るときに郵便受けに入っていた封書、君の葬儀の案内状だった。新幹線の中で君の名前を指でなぞりながら嗚咽した。まさか、何があったんだろう。朝まではもしかしたら君を見つけることができて「好きだ」と抱きしめることができるかもしれないとわくわくしてたのに。 三通目の封書がまさか君の葬儀案内だったとは。
やがて焼香が始まり、葬儀社の社員だろうかてきぱきと案内されて俺も焼香を済ませた。そしてお別れ。香の匂いが立ち込める中俺は用意されていた花と一緒に、持ってきていた君の手紙もそっと君の手のあたりに置いた。
「約束通り会いに来たよ、昨日はありがとう。でもこんな形で会いたくはなかったよ」 俺は思わず棺の中の彼女に抱きついた。ほほが冷たい彼女に抱きつきながら嗚咽した。
葬儀社の社員が優しく俺を抱きかかえて彼女から引き離してくれたが、しばらく涙は止まらなかった。
出棺前に帰ろうとすると、彼女の母親がそばに寄ってきた。
「真木遼介さんですね?江花みゆきの母です」
「この度はご愁傷さまです。ほんとうは昨夜のお通夜に参列させていただこうと思っていたんですが事情があって今日になりました」
「いえ、急なご案内にもかかわらず遠方からおいでいただきありがとうございます」「きっと娘も喜んでいると思います。葬儀は近親者だけで営もうと思っていたんですが、娘の亡骸を洗うときにパジャマのポケットからあなた宛てのまだ封のされていない手紙を発見しまして、大変申し訳ないんですが中を読ませてもらい葬儀にお呼びしたほうが良いと思ったのです」
「呼んでいただいてありがとうございます、僕もずっと会いたかったので」
「娘は結婚を目前にした一年前にがんが発覚し、若いこともあり進行が早いので一旦治療に専念するということで結婚をあきらめました。しかし全身に転移していたため抗がん剤で延命するという道しか残されていませんでした」
「そんな・・」
「私と主人はあの子に一日でも一時間でも長く生きていてほしいと願い、あの子にも頑張れと毎日励ましていました。あの子は副作用に苦しみながらも私たちが見舞いに行った時には笑顔を見せてくれていましたが、ある夜あまりの痛さと苦しさに布団にくるまって泣いている姿を見てしまい、私たちがあの子に長く生きていてほしいと願うことはただのわがままで、あの子にとっては苦しい日々を強いられているだけなんじゃないかと気づかされたんです」
お母さんは時折遺影のほうに目をやりながら続けた。
「あの子にもどうしたいか聞きました。そうしたら『もう苦しいのはいや、ごめんなさいこれ以上耐えられない。もう家に帰りたい』と泣きながら話してくれたのですべての治療をやめ自宅で最期を迎えることにしました」
「主治医からは『治療をやめればおそらく桜を見ることはかなわないと思います。抗がん剤を続ければ六月の狐の嫁入り行列を見ることが可能でしょうが、それにどれほどの意味があるのかご本人にしか分かりません』ということでした。狐の嫁入り行列というのはこの地区の代表的なお祭りみたいなものです。以前はみんなでそれを見ようねと励ましあっていたのですが、主治医が言うように痛みに耐えてまで娘が見たがっていたわけではありません」
その後すぐに退院し、自宅へ帰ってからは訪問看護を受けながら最後の時を待つことにしたが、ある日彼女から「どうしても行っておきたい所がある」と言われ、理由は教えてくれなかったが父親の「好きなようにさせてやろう」の一言で送り出すことに決めたとのこと。抗がん剤の副作用で免疫力が低下しているので長期間の外出は命をさらに縮めるかもしれないということも本人は納得していたとのこと。
「三日後に帰ってきたときには大変疲れてはいましたが、とても柔らかな表情ですごく幸せそうでした。もちろん本人が話し出すまでこちらから聞くことはしませんでした。結局何も話してはくれませんでしたが、この手紙を読んですべて理解しました。私も主人もあの子の幸せだけを思い結婚を進めていましたが、まさかこんなにお慕いしている方がいたとは思ってもいませんでした」
「私たちはあの子の幸せを奪っていたんです」
「いえ、たぶん彼女はご両親の思いにこたえることが幸せだと思っていたんだと思います」
「そうかもしれません。でも結局あの子の時間を無駄にさせてしまいました。もっと早く気づいてあげていたら」
俺は三通目の手紙を受け取って彼女の家を出た。さすがに火葬まで付き添うことはできそうになかったからだ。煙になっていく彼女を見送るなんて気が狂いそうだ。駅まで歩きながら途中の川辺に腰かけて手紙を読んだ。
「遼介さん、この手紙を読んでもらえるかどうか分かりません。ポストに投函できるかどうかも分かりません。だけどどうしても書いておきたいのです。
涼介さんは忘れているかもしれませんが、あの花束をもらった日から私はずっとずっと遼介さんが大好きでした。そしてあのデートをしてもらった日のことは毎日思い出しています。私の宝物です。
涼介さんの優しさが大好きです。遼介さんの暖かいまなざしが大好きです。本当は会社辞めたくありませんでした。他の人と結婚なんてしたくありませんでした。もう一回生まれてくることができるなら必ずもう一回遼介さんに会いたいです。今度は病気に負けない体で。
涼介さん、あの時言わなかったけど、どうやら今度は言わなければいけないみたいです。
ありがとう遼介さん。さようなら」
大声をあげて泣いた。ひとしきり泣いた後歩きながらまた泣いた。泣きながら歩いた。
赤い麒麟橋に着いた時ふと橋の下をのぞき込んだ。阿賀野川は流れはそんなに早くないが川幅は広い。欄干に足をかけてさらにのぞき込めば吸い込まれそうになる。もう少し上体に重心をかければそのまま真っ逆さまに落ちることができる。
「俺も連れてってくれるか?みゆき」
その時ほほに冷たいものが当たった。
「みゆき!」
振り返ったが誰もいない。よく見ると雪だ。雪が降ってきた。無数の白い点が滝のように落ちてくる。たちまち木々を白く塗り替えていく。
「これが桜隠しか」
君が抱き着いて思いとどまらせてくれたんだよな。つまんないことするなと。ありがとう。きっと昨日駅で出会えたのも、どうしても三通目の手紙を読んでほしくて現れたんだろう?だから今日会いに来てと。
駅に着いた時には雪はすっかり止んでいた。電車を待っている間に携帯電話が鳴った。朋夏だ。
「もしもし遼介?やっとつながった!どこ行ってんのよ!なんで電話出てくれないの?」
「泣きそうな声出してんじゃないよ、今新潟だよ、今から帰る」
「泣きそうな声じゃなくて泣いてるのよ!心配で心配で昨日の晩から何回も電話してるのにちっとも出てくれないから」
「お、そうか気が付かなかったな」
「もーいい加減なんだから。どうせまた女のとこなんでしょ?」
「なんでお前はそんなに勘がいいんだよ」
「女はみんなこうなの!であたしはもう邪魔になったの?」
「なってへんよ。今日帰り遅くなるけどなにか食べるもの用意しといてくれへんかな」
「邪魔になってへん?ほんと?」
「ああほんとだよ。それと今日はビールもつけといてくれ」
「えっそれって」
「ああ、今日はもうお前を送っていかへん。もし嫌なら歩いて帰れ」
「意地悪!でもようやくシンデレラは馬車で帰らなくて良くなるの?」
「ああ、合鍵もやるよ、返さなくていい、その代わり一緒に住もうや」「結婚してほしい」
「あ、壊れた」
なんか支離滅裂な返事が聞こえてきたので携帯電話を耳から話したままで
「とにかく帰ってからゆっくり話しようや」と言って切った。
俺は俺の青い鳥を見つけたのかもしれないな。