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バレンティーナ・オルガシリーズ

サイモン·ハウンドには女神がいる

作者: 四片紫

「まぁ、小汚いこと」


 女神は口元に手を当て、小首を傾げてそう呟いた。同じ感想を抱いていた身としては、わざわざ女神に言語化させてしまったことが悔恨の極みである。


「必要ないのでしたら放り出しますが」

「あらあら、なんて冷たいことを言うのかしら。貴方のご家族でしょう?」


 女神の視線の先にはみっともなく床に膝をついた男がいる。あぁ、早急にこれを女神の視界から追い出さなくては。


 ()()()()()()を前にしても、彼の脳裏に思い浮かぶのは女神との日々だけである。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 サイモン・コールマンは生まれついて不幸な男だった。彼が生まれたコールマン男爵家は年々傾いており、複数の家から借金をする始末。それでも生活の質を下げることのできない両親の間に生まれたのがサイモンである。


 サイモンは乳母に育てられたのだが、これが不幸中の幸いであった。乳母は良識のある人物で、両親よりよほど彼を慈しんで育ててくれた。彼が十歳になった時にはシッターとして彼に簡単な読み書き算数を教えてくれていた。

 乳母が継続してシッターをするというのはこの世界では珍しいことである。両親が新しくシッターを手配するのを面倒がった結果であった。サイモンの乳母がシッターの職を受け入れたのはひとえにサイモンを哀れんだからだ。


 彼の両親はもう立て直せないだろうから、と借金に借金を重ねて短い贅沢に溺れる愚か者どもであった。サイモンが成人するまで()()()、その全てを彼に押し付けるつもりでいるのだ、と。酒が入った状態とはいえ本人の前で声高に話すような人物である。


 サイモンには()()()()の才があった。十二の頃から独学ながら領地の経営に手を出すようになり、それから二年間コールマン家を何とか運営してみせるほどに。

 だが、それでは愚かな両親を支えるには至らなかった。それを残念だと思うことはなかった。当然の帰結である。


 サイモンが十四歳となったその年。よりにもよって彼の誕生日に、両親は金目のものを根こそぎ持ち去って姿を消した。


 悲しいとは思わなかった。解放されたとすら思うほどだ。借入先は良心的な家が多く、まだ子どものサイモンから取り立てるようなことはしなかったのも幸いだった。彼らは借りた本人たちに返してもらうから、とサイモンには何も求めなかった。

 とはいえ、手ごろな金品は持っていかれ、家財一式は知らぬ間に売り払われていた。結局のところサイモンには何も残らなかったのだ。


 齢十四にしてサイモンは路地裏の住人となった。年の頃が同じの少年少女たちに混ざってゴミを漁って誰かが捨てた新聞を読み、身体に巻き付けて眠った。道行く人の靴を磨き、拾った鉄屑を売って何とか生活していた。

 思ったよりも平気だな、とサイモン少年はそんなことを考えて日々を過ごしていた。両親やかつての生活を恋しいなどとは思わない。ゆっくりと本を読み、勉強する時間がなくなってしまったことだけは残念だと思っていた。


 そんな日々を過ごして数か月。サイモン少年は女神に出会うこととなる。靴磨きのためにと大通りの端っこで道具を持って座り込んでいた時のことだった。


「まぁ、小汚いこと」


 サイモンを見た女神の第一声がこちらである。だが、蔑むというよりは客観的事実を述べただけという感じだった。確かに当時の彼は決して身綺麗ではなかったので。


「あぁ、でもその目はいいわね。ウルフアイ……綺麗な黄金だわ」


 サイモンが二の句も継げないうちに伸びてきた手が顎に添えられる。驚いて見開いたゴールドの瞳を観察するように右に左にと揺らされた。ざんばらに切ったばかりの白い髪が視界の中をゆらゆらと揺れる。


「まぁでも、狼というよりは犬かしら。まるで野良犬のようね」


 勝手を言われているのは認識していたが、やはりサイモンはなかなか言葉を紡げずにいた。彼女は、掃き溜めに暮らしていたサイモンにとって見たこともないほどに美しい生き物だったのだ。そしてその顔には、見覚えがあった。


「レディ・オルガ……?」

「あら、貴方文字が読めるのね。賢い子だこと」


 ここ最近紙面を賑わせていた女男爵、バレンティーナ・オルガその人がサイモンの目の前に立っていたのだ。


 真実の愛のために身を引いた慈悲深き淑女。完璧な貴族令嬢だった彼女は、学園卒業後に服飾商会『グロリオーサ』を打ち立てた。

 アヴェール家から仕入れた上質な絹とハーツ家の宝石。卓越したセンスによってデザインされたドレスは瞬く間に社交界へと広がり、今では王族の御用達となっている。


 その功績を称え、彼女は今年の初めに二十歳という若さで男爵位を得ていた。社交界の美しき薔薇。黄金の女神。その二つ名にふさわしく、目の前のレディは美しい。


「貴方サイモンよね? コールマン家のサイモン」

()、です。レディ・オルガ」


 思わず訂正を告げれば、エメラルドの瞳がくるりと丸まった。あの愚かな家とまだ繋がりがあるなどと思ってほしくなかったのだ。食い気味の否定だったが、バレンティーナは気分を害した様子はなく、あぁ、と呟いた。


「そうだったわね、失礼したわ。()()()サイモン?」


 はい、と胸に手を当てて礼を執る。今のサイモンは平民どころか路地裏の民だ。本来なら、バレンティーナの視界に映ることすらおこがましい存在である――だというのに。


「わたくし、屋敷の使用人を探しているのだけれど興味あるかしら?」


 にこ、と美しく微笑んだ彼女は、正しく救いの女神だった。


 それからサイモンの生活は一変する。路地裏から品の良い屋敷へと連れ込まれ、まずは全身ピカピカに磨き上げられた。ぼろ布と新聞紙から、シンプルだが仕立てのいいシャツとスラックス姿へ。薄汚れた野良犬から、きれいな室内犬へと。


「こうして見ると毛並みはなかなかね。アシュリー、わたくしのかわいい小鳥。早速彼に似合う服をデザインしましょうか」

「えぇ、バレンティーナ様……あら、貴方結構手が大きいのですね」


 話の途中で取られた手は確かに身体の割に大きい。白魚のような手が興味深そうに揉むのを好きにさせていると、ふと別の手に顎を撫でられた。


「確か、手が大きいと背が高くなるのだったわね。今は子犬のようだけれど、その内本当に狼にでもなってしまうのかしら?」


 食事を節制すれば小さいまま(彼女の子犬)でいられるだろうか、とサイモンは一瞬そんなことを考えていた。勿論女神たる彼女がそんなことを許すはずはなく、彼は栄養たっぷりの食事と暖かな寝床でもてなされることとなる。


 最初にサイモンが任された仕事はバレンティーナの身の回りの世話だった。彼女はオルガ性を得て男爵となったばかりだ。独立したばかりで、屋敷の使用人はまだまだ必要最低限である。

 そんな少数精鋭の中に何故自分が選ばれたのか。サイモンは当然疑問を抱いていた。が、その疑問はすぐに解かれることになる。


「コールマン家の噂はよくよく耳にしていたのよ。何せ、わたくしの実家にも借金の申し込みに来ていたんだもの」

「それは……両親がご迷惑を、」


 頭を下げようとするサイモンの唇に、白魚のような人差し指が触れた。びく、と動きを止めた彼に、バレンティーナはくすくすと笑う。


「貴方、コールマン家とはもう関係がないのではなくて?」


 いたずらっぽく笑う彼女はサイモンよりも年上だというのに少女のようだった。サイモンはぐっと言葉を呑み込み、一つ頷く。


()()コールマン家を延命していると評判の子に興味があったのよ。声をかける前に駄目になってしまったけれど……元気でいてくれてよかったわ」

「……光栄、です」


 目をかけられていたというのだろうか、そんなに前から。期待が湧き上がるが、同時に己を律せよと言い聞かせもした。だが、偶然だとしても何たる幸運だろうか。


「あら、お世辞ではないのよ。ただ、こんなにかわいい子犬だとは思っていなかったけれど」


 するり、と。頬を滑った手のひらに意識の全てが持っていかれる。どくどくと耳元で心臓の音が鳴っていた。


「貴方には仕事とは別にお勉強もしてもらうわよ。再来年には貴族学園に入学してもらうのだもの」

「……っ、いいのですか」


 貴族学園は貴族であれば、無条件で入学出来る。しかし平民でも貴族からの推薦を受けた上で、試験で合格ラインに達すれば入学できるのだ。

 思わぬ福音に声が揺れた。が、バレンティーナは目を細めて笑う。


「いいも何も……これは命令よ? わたくしの子犬。必要な知識を身に着けなさい。そうして、必要なモノを見定めるのよ」


 真っ直ぐとこちらを見つめるグリーンアイに嘘はない。利害の一致でしかないのだと、そう雄弁に告げていた。

 同時にこれはサイモンに与えられたチャンスでもあるのだ。これをものに出来れば。彼女の想像を超えることが出来れば。


「承知いたしました、バレンティーナ様。必ず、成果を上げて見せます」


 サイモンは震える声を抑え、深々と頭を下げた。艶を取り戻した白髪が目の前に降りてきたのを見て、バレンティーナは手を伸ばす。


「期待しているわよ、わたくしのかわいい子犬」


 さらさらと指の間を零れる髪はなかなかに触り心地が良かった。妙に熱いのだけ、気にはなったが。


「サイモンばかり狡いです」


 むぅ、と子どものように頬を膨らませるアシュリーに、バレンティーナは目を瞬いた。が、次の瞬間にはくすくすと笑いだす。


「あの子はまだ子犬よ、アシュリー。多めに見て頂戴な……それにあの子、お人形としてもなかなかでしょう?」

「……まぁ、あの色合いは珍しいと思いますけれど」


 白い髪に黄金の瞳。少し日に焼けた肌は健康的だが、身体はまだまだ未発達で華奢だ。着せたい服のイメージはいくらでも湧き上がってくる。

 小さいうちは甘さのあるリボンやフリルを重ねた服を着せるのもいいだろう。年相応に大きくなれば、男らしく濃い色のスーツも良いだろうか。


「丸一日着せ替え人形にしてしまおうかしら……」

「あら、楽しそう。その時はわたくしも呼んで頂戴ね。素敵なドレスの構想があるのよ」


 その時のサイモンがスーツだけでなく、ドレスまで着せられたのはまた別の話である。


――それから、一年。サイモンが十六歳となった初秋の頃。彼は貴族学園への入学を果たした。独学ではなく体系立った知識に触れ、みるみる内に吸収していった彼は、トップクラスの成績で試験を通過したのだ。


 彼が注目を集めたのはその成績だけではない。一年間よく食べてよく眠り健全な生活を過ごした結果、彼の身体は急激に成長していた。

 こけていた頬はシャープな輪郭となり、バレンティーナが予想した通りにぐんと背が伸びていた。傷んでいた白髪は銀と見紛う艶を纏い、黄金の光を宿した瞳は瞬く度に星を散らす。バレンティーナの隣にいても見劣りしないほどの美青年であった。


 羨望と、嫉妬、少しの好奇心。それらを一身に集めるのが今年の新入生、サイモン・コールマン改めサイモン・ハウンドである。


 入学に際して彼がバレンティーナから賜ったのは推薦だけではなかった。新しい家名に、幾つかの命令。それらとともに貴族学園へと入学した彼は、早速()()()()の歓迎に遭うこととなる。


「……ふむ」


 サイモンは中庭の池に浮き沈みしている己の持ち物を暫し眺めていた。校舎の窓の方からにやにやと底意地の悪い視線が見下してきている。そっと目だけ動かしてその彼らの人相を記憶に収めた。

 その後、特に躊躇することなく池の中へと入っていく。さほど深いわけでもなければ、観賞魚が飼われているくらいには綺麗な水だ。路地裏でゴミを漁ることに比べれば何ということもない。


 貴重品は常に身に着けているので、池に浮かんでいるのは精々教科書やノートなどの文具類だけだ。それでもざばざばと水をかき分けながら一つ一つ大切に拾い上げていく。


「貴方、大丈夫ですの?」


 不意に聞こえてきた声に、濡れた手で髪をかきあげながら振り返る。そうするとサイモンの男らしさが際立つのだ。声をかけてきた令嬢も一瞬息を詰めて頬を染めている。艶やかな黒髪に深い緑の瞳をした、美しいご令嬢だった。


「大丈夫です。気にかけていただき、ありがとうございます」


 そのまま微笑んでみせた。その後に少し目を伏せるのも忘れずに。大きな身体と精悍な顔つきから悲しさを滲ませるのだ。

 思惑通り、サイモンのことを哀れな被害者と思ったことだろう。令嬢は少しばかり顔をしかめた後、校舎の方を厳しい目で見上げていた。あの状態の彼に声をかけてきたということは、そもそも正義感の強いご令嬢なのだろう。


「こんな姿で申し訳ありません。私はサイモン・ハウンドと申します」

「存じ上げていますわ。入学試験の上位にいらっしゃいましたものね」


 にこ、とサイモンを安心させるかのように彼女は微笑んだ。そうして軽く会釈をする。


「わたくし、ローザリア・バンクスと申しますの。これからよろしくお願いしますわ」


 ローザリアは何のためらいもなくサイモンへと手を差し出した。校舎からこちらを窺っている令嬢令息たちに見せつけるように。

 バンクスと言えば、グロリオーサの得意先の一つの侯爵家である。確か父親が王宮勤めをしていたはずだ。記憶からその情報を素早く引っ張り出したサイモンは刺すような視線たちを無視し、彼女の手に応えた。勿論、ハンカチで念入りに手を拭いた上で。


 その日からサイモンは何かにつけてローザリアに声をかけられるようになった。態度からして、サイモンの顔を気に入っているようだ。とはいえ、それだけなら遠くから眺めていればよい。わざわざ近づいて話しかけてくるのはいじめをしていた輩どもへの牽制なのだろう。

 ローザリアは侯爵令嬢だ。この学園の中ではかなり高い地位にいると言える。その上彼女にはまだ婚約者がいない。本人曰く王宮勤めの予定なので、結婚するつもりはないらしい。後継者も別にいるため、その辺りは彼女の自由にしていいらしかった。


「そういえば、サイモンはどうして貴族学園に入学しようと思ったんですの?」


 昼食時。食堂で正面に座ってきたローザリアがふと尋ねてきた。サイモンは少しだけ周りの様子を窺う。周りにいるのはサイモンの顔を気に入っている令嬢方だけだ。彼をいじめていた令息たちは遠巻きにしている。流石に侯爵令嬢の面前で喧嘩を売るほど愚かではないらしい。


「私が所属している商会の商会長様に、お許しいただいたんです。もっと勉強してお役に立てるように、と」

「そうなんですの。とても素敵な方なのね……お名前は?」


 サイモンは少しだけ考えるふりをしてみせた。その間にもどうせ三流貴族だろうだの、時間と金の無駄だのと陰口が聞こえてくる。ローザリアは眉をひそめて声の方を振り返った。途端に声は止むのだ。なんとも情けないことである。


「そうですね、口止めはされていないのでお教えしてもよいと思いますが……私がその推薦にふさわしいとまだ思えないので……」

「あら、学年トップクラスの成績でしてよ? きっととてもお喜びになられるに決まっていますわ!」


 そうでしょうか、と嫌味になりすぎない程度に謙遜しておく。伏せた目に長い睫毛が影を落とし、ご令嬢方が甘い溜息を吐いた。


「ジェマ嬢もそう思いますでしょ?」

「えっ?」


 急に水を向けられたのは同じテーブルに座っていたジェマ·エバンス子爵令嬢であった。サイモンが勉強のために図書館へ入り浸るうち、少しずつ話すようになった二つ年上の先輩である。勿論ローザリアもサイモンについて回っている内に仲良くなり、時折彼女に勉強を教わっている。

 彼女は会話に参加していたわけではないのだが、ローザリアが声をかけたのにはちゃんとした理由があった。ジェマはローザリアの視線を受けて困ったように笑い、口を開いた。


「ふふ、えぇ。とてもすごいことだと思いますわ」

「ほら、三年連続学年トップのお墨付きですわよ!」

「ありがとうございます」


 ジェマは三年間学年首位を取っている才女なのだ。赤に近い茶髪と明るい茶色の目のやや地味な見た目であるため、婚約者であるロバート・ペイジ子爵令息にはがり勉などと罵られることもあった。その時のことを思い出したのか、ジェマの顔が少し曇る。


「そうですね……なら、お教えしましょうか」


 サイモンは内緒話をするように口元に手を当てた。周りの皆は聞き逃すまいと耳をそばだてている。よくも悪くもネタになるとでも思っているのだろう。


「私の推薦者は……バレンティーナ·オルガ男爵様です」


 一瞬食堂が水を打ったように静まり返った。軽く見回したところ、顔色が青い者と赤い者は半々ほどである。一番最初に我に返ったローザリアが甲高く声を上げる。


「あのレディ·オルガですの? グロリオーサ商会の!?」


 サイモンは少し恥ずかしそうにしながらこくりと頷く。ジェマは口元に手を当てて固まっていた。ローザリアは興奮気味に言葉を続ける。


「わたくし、グロリオーサのドレスが大のお気に入りなんですのよ! もしかして、デザインもしていらっしゃるの?」

「いえ、私にそんな才はありません。商会では材料の仕入れを担当しておりました。店頭に立つこともしばしばありましたが」


 簡単に言えば客寄せパンダである。サイモンが店先に立っていると、それはもう面白いほどにマダムやご令嬢がふらふらと店内に吸い込まれていくのだ。


「それで、その……もしよろしければ、私の御学友としてお二人をレディ・オルガにご紹介させていただけませんか?」


 王子と見紛う美貌が二人に手を差し伸べる。ジェマはごくりと唾をのんだ。ジェマにとってバレンティーナ・オルガは遠い雲の上の人物である。自分のような勉強だけが取り柄の地味な女とは縁のない人なのだ。

 自然と視線が下を向いてしまったジェマを余所に、ローザリアは身を乗り出してサイモンに迫っていた。


「勿論! ぜひ、お会いしたいですわ!」

「では、そのように……ジェマ嬢?」


 びくっと肩を震わせて前を見れば、サイモンがジェマを覗き込んでいる。黄金の蜂蜜のような瞳がとろりと細められた。


「貴女にもぜひ、来ていただきたいのです。私には、こんなにも素敵な先輩がいるのだと。少しでも、レディ・オルガにご安心いただきたくて」


 少しばかり照れ臭そうに頬を染める好青年の破壊力たるや。ジェマは気づいた時には首を縦に振っていたし、あれよと言う間にバレンティーナ・オルガの屋敷に向かうこととなっていた。

 我に返った時にはバレンティーナ・オルガその人が目の前に現れている始末である。


「ごきげんよう。いつもサイモンがお世話になっていますわ。素敵な御学友が出来たと聞いて、いつかお会いしたいと思っていましたのよ」


 学園一の才女と、学園トップクラスの身分である侯爵令嬢。子犬の初めての狩りの成果としては上々である。後のことはレディ・オルガの領分だった。


 この後のことは語るべくもない。二人の令嬢はたちまちに彼女の小鳥となり、バレンティーナのサロンに呼ばれるようになった。

 ジェマはその知識でもってバレンティーナに新しい視点をもたらし、ローザリアはその立場と人脈でもって彼女の商会を更に盛り上げた。そうして、バレンティーナは彼女たちを愛し、大事に大事に慈しむのだ。


 バレンティーナは美しいものしか愛さない。そうして美しいものをとことん磨き上げたくなる性分である。彼女の周りには彼女が見出し、手をかけて育てた子犬と小鳥が集まるのだ。


 故に、その美しい花園のかぐわしい香りに誘われて、不作法者がやってくるのもままあることである。

 とある昼下がりにバレンティーナの屋敷に押し入ってきたのもその一人だった。


「無作法を、お許しください。こちらの幼い頃に生き別れた私の息子――サイモンが勤めているとお聞きして……いてもたってもいられず」


 涙ながらの訴えを信じてしまった使用人が、その男を屋敷の中へと案内してしまったのだ。そうしてサイモンの元へと家族が来たと報告しに来てくれたのだ。

 その使用人はサイモンが幼い頃に生家が没落し、一家離散の憂き目にあったとしか知らなかったのである。事実を知った後にはサイモンが恐縮するくらいには謝罪していた。


「いかがいたしましょうか」

「そうね。んー……一目見てみましょうか。わたくしの子犬のお父様だもの」


 楽しそうにするバレンティーナにサイモンは渋い顔をする。が、反対はせずに大人しく応接室へと向かう彼女の後を追った。応接室の前で一歩二歩先に出て、扉を開く。


 品の良いソファに座っていたのは薄汚れた身なりの男だった。手足は細いのに腹は突き出た何ともバランスの悪い体つきをしている。没落前に目一杯贅沢に溺れた名残だろうか。肌は荒れ、サイモンと同じ色をした髪も側頭部に幾らか束を残すのみだ。そのせいだろうか。しわやシミ、汚れを差し引いたとしても到底サイモンの親族には思えなかった。


 ふと視線をやったテーブルの上。使用人が用意していったらしい菓子盆は空になっていた。その上食べかすが絨毯に散らばっている。恐らくは貧しい暮らしの中で早い者勝ちの概念でも覚えたのだろう。

 端的に言って醜悪な男であった。無論その中身が見た目に似合ったものであることをサイモンはよくよく知っている。


 身内であるサイモンですら眉をひそめるその男の前であっても、バレンティーナは優雅に微笑んでみせた。


「ごきげんよう。わたくし、バレンティーナ・オルガと申しますわ。縁あって貴方の御子息のサイモン様を預かっておりますの」

「……あぁ、えぇ。その、愚息がお世話に」

「まぁまぁ、愚息だなんて謙遜なさらないでくださいませ。サイモンにはいつも助けられておりますわ。我がグロリオーサにはなくてはならない人財でしてよ」


 バレンティーナその人が出てくるとは思っていなかったのか、男は少々戸惑っている様子だった。だが見ている内、その顔に少しばかりの喜色が滲んできている。この調子ならバレンティーナからも何かしら利益が得られるとでも思っているのだろう。

 そんな思考が透けて見えるという事実に、サイモンは心底嫌気が差していた。そして何より、そんな男がバレンティーナと言葉を交わしていることがこの世の何もよりも耐えがたい。


「何の御用でしょうか」


 冷たくそう言ったサイモンに、父親は一瞬目を吊り上げていた。自分の息子が自分を差し置いてこんな生活をしていることが腹立たしいのだろう。が、直ぐに愛想笑いを顔に浮かべてみせる。媚びるようなその笑みに、サイモンの眉間のしわは深くなるばかりだ。


「愛する息子がここにいると聞いたんだ。会いに行くのは当然だろう?」

「愛する息子であれば。まぁ、当然そうでしょうね」


 は、とサイモンは鼻先で笑った。記憶にある限り愛されるどころか話しかけられた記憶すらほとんどないのだ。この男は短い享楽にふけり、サイモンが何とか立て直そうとしていた全てを台無しにした最悪な人間である。

 そんな人間が今更。そう、今更サイモンの前に現れた理由は明白だ。サイモンからおこぼれをもらおうと、そういう魂胆なのだろう。


――そんなこと、許されるはずもなかった。


 バレンティーナ・オルガの周りにあるものは美しくあらねばならない。自分自身を美しく磨き上げる人間でなければならない。

 宝石でなくてもいいのだ。輝くための努力をし続けられるのならば、石ころでも雑草でも構わない。ただ、バレンティーナ・オルガが目を留め、拾い上げるものは原石であることが多いだけのこと。


 目の前の男は、磨くことすら出来ない泥の塊にすぎなかった。故に、サイモンはコレがバレンティーナの傍にいるというこの事実に我慢がならない。

 しかし、この場で声を荒らげるのも彼女のかわいい子犬がすることではないのだ。


「私は既にハウンドの性をいただいております故、コールマン家とは全くの無関係でございます。私のことなど気にかけて下さらずとも大いに結構。どうぞ、何もお気になさらず今までの生活にお戻りくださいませ」


 半身をずらしながら、手のひらで扉を指し示す。慇懃無礼なその言動に、男の頭にカッと血が上った。


「何だその言い草は! 自分が成功しているからと言って調子に乗りおって!! 家族が困っているんだぞ、助けようとは思わんのか!?」


 何とも勝手な言い分を怒鳴った拍子に、口角に溜まった泡が飛ぶ。勢いのまま立ち上がって掴みかかってくるが、弱った中年が育ち盛りの青年に襲い掛かったところで結果は目に見えている。

 サイモンはバレンティーナを背に庇いながらピカピカに磨かれた革靴で男の脚を引っ掻けた。男は無様に転び、強かにドアへと顔面を打ち付ける。


「ぐっ、貴様……ッ」


 振り返った男の鼻からは血が流れていた。唇の上を垂れて涎と混ざり、顎の先に溜まっている。ぽたり、とその滴が絨毯に落ちた。


「まぁ、小汚いこと」


 バレンティーナは口元に手を当て、小首を傾げてそう呟いた。いつぞやかサイモンに言った台詞と全く同じである。その時と違うのは、客観的事実に侮蔑が混ざっていることくらいか。


「必要ないのでしたら放り出しますが」

「あらあら、なんて冷たいことを言うのかしら。貴方のご家族でしょう?」


 バレンティーナはどこか楽しそうにそう言うのだ。おそらくサイモンの動きを待っているのだろう。彼は男を正しく見下(みくだ)して緩く肩をすくめてみせた。


「さぁ? 私はレディ・オルガの犬ですので……人間の親類に心当たりはございません」


 エメラルドよりもよほど価値のある大粒のグリーンアイがくるりと丸まった。が、直ぐに猫のように細められる。あぁ、この返答はお気に召してもらえたようだ。

 みっともなく膝をついた男がサイモンを呆然と見上げてくる。バレンティーナはころころと鈴の音を転がしていた。そうしてゆぅっくりと目を細める。


「そう……貴方に心当たりがないなら、わたくしにも用などないわ」


 それは、もうサイモンの好きにしていいという宣告だったのだろう。サイモンは深く一礼し、バレンティーナを扉までエスコートした。かつて父親だった男は呆然としていたが、扉が閉まる音に我に返ったのだろう。ハッとして立ち上がり、サイモンを睨みつけている。


「き、貴様、親に向かって何という……!」

「私たちの縁はとうの昔に切れているでしょう」


 相変わらず頭の回らない男だと再認識する。この男がこんなにも愚かでなければ、今もコールマン家は存続していたのだろうか。もしそうだったとしたら……。そこまで考え、サイモンは緩く頭を振った。


 今この時よりも幸福な未来は、サイモンにはない。バレンティーナ・オルガの犬として生きる現在以上の未来などきっとなかったのだ。かといってこの男に感謝する理由も義理もない。


「血の縁に縛られることなどありません。どこへなりとでもお行きください……そして願わくば、二度とお会いすることのないよう、()()()祈りましょう」


 サイモンは無感情にそう言うと、父親に歩み寄る。そうして唐突に彼の胸倉を掴んだ。鍛えられた青年の腕に持ち上げられ、男の踵が床から離れる。


「次……次に、貴方がバレンティーナ様の視界に入ったらと、そう考えるだけで怖気が立つ……そんなことがあれば、あの方のかわいい子犬でいられる自信がないのです」

「……ぐっ、ぅ」


 己のそれよりも二回りは大きい拳を喉元に突き付けられ、男は息すらままならない。が、サイモンは意に介さず言葉を続ける。長い銀の睫毛が金色の瞳に影を落とす。


「次、私の前に――バレンティーナ様の前に現れたら殺してしまいましょう。そうすれば、愚か者の貴方とて二度と過ちを犯すことはなくなる……それに、貴方に親としての情がまだあるというのなら、私を殺人者になどしないでしょう?」


 数段低くなった、声。だというのに表情はどこか晴れやかで、良いことを思いついたとばかりに笑みを浮かべていた。酷く美しいのに背筋を氷が走っていく。

 彼はもはやかわいい子犬などではなく、見目も相まって狼と呼ぶにふさわしかった。花園を護る番犬。()()に害を成す者を残らず噛み殺す銀狼。幼い頃の無感情なサイモンしか知らない男にとってはひどく遠く、そして恐ろしい獣だった。


 ほうほうの体で逃げ帰った男はその後、路地裏でひっそりと息だけをする存在となる。幸いにサイモンが殺人者となる未来が来ることはなかった。勿論、バレンティーナがそんなことを許す未来とて、永劫に来ないが。


「サイモン、わたくしのかわいい子犬。わたくしの小鳥たちのことをよろしくね?」

「勿論。承りました」


 そうしてサイモンは自らの女神に与えられた役目をまっとうするのだ。具体的には、ジェマの卒業式の日に彼女のために調べ上げていた情報をバレンティーナに提供したり……ローザリアの結婚式の時、隣に立って彼女のベールをめくるなどすることになるのである。

第一話でちょろっとだけ出てきてたサイモン君のお話でした。

バレンティーナお姉様にとっては彼もまだまだかわいい子犬です。

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