15.初恋を求めて
グレイの家で失態を犯したことは恥ずべきことだ。
ゴールドウイン伯爵から改めて謝罪されたけれど、ブルルからはお咎めはなく、にこやかに応対しているのがまた不気味だった。
その後商談と称して伯爵家に行き、ドングリの実を貰ってきて侯爵家の一画に植えていた。
「これが成長すればきみも行かなくて済むかもしれない」
見える景色を吟味し、邪魔にならない場所にブルルの主導で植えた。
私がお飾り妻として領地に行ったらどうするの?
第二夫人に切り倒されるんじゃないの?
ここから見える景色は伯爵家とは違うんじゃないの?
そうやって私の悩みを加速させるブルルに何も言えず、気持ちの蓋からぼこぼこ溢れ出しそうになったところで早期解決に向けて私は動くことにした。
「単刀直入にお伺いしますが、旦那様の初恋の方はどんな方でしたか?」
「ぐふぉっ!?」
夫婦水入らずのお茶会で、思い切って尋ねてみた。
ブルルはちょうどお茶を飲んでいて、気管に入りかけたのか激しく咽てセバスさんに背中を叩かれていた。
「ぐぇふぉっ、なんっ、ぐへっ、なんでっ、そんなっひゅおっ」
「お、落ち着いてくださいませ」
「おぢづいでなんがいらでるが!!」
顔を真っ赤にして苦しむブルルを見ると申し訳なくなってくる。呼吸が落ち着くのを待って、涙目のブルルに決意を伝えた。
「私は決めたのです。私が麦穂に恋をするように、旦那様の恋を応援しようと」
「だからなぜそうなるんだ!」
「私だけ幸せなのは何だか申し訳ない気がしまして……。なのでせめて愛する人が見つかればと思いまして」
ブルルは苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。
何匹の苦虫を噛み潰したのだろう、疑問が浮上したところで、ブルルは立ち上がり私の前で土下座した。
「初夜の件は申し訳なかった。どうかしていた。
片思いの相手なんかいないし、俺は初恋を探すつもりも無い。きみと夫婦としてやっていきたいと思っている」
「ちょ、だ、旦那様……?」
「きみが植物を愛しているのは知っている。だがそろそろ人間にも興味を示してほしいしそれが俺であればいいと思う。無理なことは承知だ。だがこれ以上は第二夫人や愛人を勧められると正直……辛い」
なんということでしょう。衝撃の急展開とはまさにこのこと。
「と、とにかく座ってください」
顔を上げたブルルは瞳をうるうるとさせながら私を見つめた。
そんな捨てられた子犬みたいにブルブル震えないでほしい。
「旦那様が初夜の件を後悔しているのは分かりました。結婚してこれまでに旦那様が好意的に接してくださっているのも承知です。
が、正直に申し上げますと、麦より関心度は低いです」
「うぐっ……」
「仮にここで許したとしても、旦那様のお心には初恋の女性が居座っていて、『やっぱり忘れられないんだ〜』となったら私はどうしようもできません」
ブルルのことは気になるけれど、引っかかるのはそこだ。
政略結婚相手と中々良い雰囲気になったと思ったら「初恋の女性に出会った」と手のひら返して蔑ろにされてはたまったものではない。
特に離婚を言い渡され、侯爵家の畑はおろか、領地の麦やキノコやタケノコたちと引き離されては胸が張り裂けてしまう。
稲穂に会えないまま終わるなんてまっぴらだ。
「ですから、初恋の女性の件を解決しないことには旦那様が麦より勝ることはありません」
一気にまくしたてたのでちょっと喉が乾いたわ。
マージ特製のお茶をひと口含み、息を吐く。
ブルルはまるで何かを決意したかのようにテーブルに置いた右手を握り締めている。
「解決できたら……麦に勝てるのか?」
「分かりませんが、劣るとも勝らないくらいにはなれるかもしれません」
「勝ててないじゃないか!」
そこは引っ掛からなかったか!
ブルルはマージ特製のお茶をひと口含み、喉の調子を整えるように唸った。
そして意を決したようにコホンと咳払い、照れたように話し始めた。
「初恋の話は……友人たちに散々からかわれたからあまりしたくなかったのだが。
幼少の頃、とある家のお茶会に母と共に行ったときに出会ったんだ」
ブルルいわく。
その少女の髪色はこの国ではよくいる茶色で、瞳の色もよくいる碧眼。
サラサラのストレートヘアでパッと見は守ってあげたくなるような儚げな容姿だったそうだ。
「そんな子が、木の上に登っていたんだ」
「まあ、私みたいですね」
なぜか真顔に戻ったブルルは話を続けた。
当時、木の上に登った経験などなかったブルルは、危ないから降りたほうがいいと言ったらしい。すると少女はバカにしたように「やーいブルルの意気地なしー」と返したそう。
なんと! 私の前にブルルをブルルと呼ぶ女性がいたなんて!
私はまだ心の中でしか言えてないのに、なんて大胆な少女……!
「バカにされたのが腹が立って、木に登った。そしたら景色がすごくて、登った価値があった」
ゴールドウイン伯爵家のドングリの木以外にもそんな木があるなんて……私も登ってみたいわ。
「そのときにみた少女の顔がキラキラしていて、……思えば単純な動機だな。その後親たちに叱られて、その家のお茶会には行かなくなってしまった。この話をしたら友人たちに『そんな山猿みたいな女の子を好きになるなんておかしい』と言われ……」
そんなことないと思うわ。きっとブルルの友人たちは木の上から見た景色の素晴らしさを知らないのだわ。
「なんだろうな。その少女の面影がチラついて、社交界にいる女性が魅力的に映らなくてこの年まで独身だった。
それが恥ずかしくて見栄を張りたくてきみを愛さないとか言って、女性経験がないのを悟られたくなくて愛する人がいると言ったり……」
もじもじするブルルはまるで乙女のようでこちらが気恥ずかしくなった。
なるほど。
初夜でのあれは見栄だったのか。
「旦那様の中に初恋の女性が根深く残っているのは分かりました。……しかし、木に登る令嬢なんているのか……」
「……そうだよな。俺はきみしか知らない」
「私以外にもいるんですね。とはいえこの年齢になるとあまりはしたないと言われる行動は隠したいでしょうし……」
二人してうーん、どこにいるのだろう? と悩んでしまった。
グリシーナ様やスカーレット様に聞いてみようかしら。でも令嬢が木に登るなんて、と笑われてしまいそうな気がして何となく聞けない気がした。
「たぶん見つからないだろうから初恋の女性のことはいいんだ。それより俺は……きみと……その……」
「大丈夫です。諦めないでください。私と同じ趣味をお持ちなら気が合いそうですし、仲良くなれる気がします」
「え……」
うん、もし見つかって迎え入れられたらゴールドウイン伯爵家の景色を見せてあげよう。
──そう思った瞬間、ちくっと胸が痛んだ気がした。
あれは、大切な……
何かを思い出しかけて、けれどもそれはすぐにしゃぼん玉のように消えてしまった。