69話
翌朝、私はクリス様にいただいた殺菌剤の入った農薬をジョンに届けるため、伯爵邸へと向かった。
継母に会いたくはないが、これもジョンや領民のためと思えば行かざるを得ない。
しかし伯爵邸に着くと、継母はこれまでのブドウの木についてジョンから聞いていたらしく、意外にも今までのような嫌味な態度は取らなかった。そしてジョンが
「姉上、お忙しい中わざわざ来てくださりありがとうございます」
と言うと、継母も隣にいて何も言わずに私とジョンの会話を聞いていた。
そして私はクリス様に言われた通りのことをジョンに説明した。
今回はフィロキセラという害虫ではなかったが、またいつフィロキセラにやられるかわからないので、先日農民たちと学んだ接ぎ木のやり方は覚えておくようにと。
一通りの説明を終えた私は農薬をジョンに渡し、帰ろうとした時、継母から
「今回は色々とジョンを助けてくれて感謝します」
と言ってもらえた。驚いた私は
「あ、いえ、当然のことをしたまでです」
と返すのが精一杯だった。
そして帰り際、ジョンは私にそっと
「母上なりに色々と思うところがあったようです」
と言った。私はジョンに
「そのようね」
と言ってから
「ジョン、この伯爵領は貴方に任せたわよ」
と言うと
「勿論、僕に任せてください。姉上は安心して陛下に嫁いで幸せになってください」
と言われ、その後の言葉が出てこなかった。いつの間にかそんな会話ができる年になっていたのね、と感慨深い気持ちに浸った。
その後、私は馬車で公爵邸に戻りながら継母のことを考えていた。
人を愛する気持ちが少しだけ分かってきたせいなのか、前のように継母をただ憎く感じるのではなく、ほんの少しだけ理解できる気がした。
継母は私を育ててくれた父のことを本心から愛していたのかもしれない。だからこそ、その父が亡くなった妻をいつまでも忘れられずにいて、そしてその妻が産んだ娘を見るたびにその妻のことを考えてしまい、私のことを憎いとは少し違う、そう、嫉妬のような感情になったのかもしれない。そう考えると今までとは違った感情が芽生えた。もっとも私は、本当はその妻が産んだ娘ではないのだけれど、そのことを継母は知らない。
そんなことを考えていると、いつの間にかラミナさんのいる出版社の前を通り過ぎるところだったが、よく見るとそこには従者をひき連れたリリアーナ王女がその出版社の中へ入っていく姿が目に留まった。私は驚き何事かと思い、馬車を降りてその後を追った。そして入り口付近で
「こちらの出版社の責任者の方を呼んでくださる?」
と言っている。私はそっと後ろから様子を伺っていると、ラミナさんがちょうど対応をしていて
「編集長はただ今外出中ですので、代わりに私がご用件を伺います」
と答えていた。すると王女様は
「アリーシャ・ポートランドという名の作家に会いたいのだけれど」
と尋ねた。するとラミナさんは
「それは無理です。彼女は原稿だけを送ってきて、私たち出版社の人間は誰一人として彼女に会ったことはありません」
と返した。それでも王女様は諦めずに
「ではどこに住んでいるかだけでも教えてくださる?」
と食い下がるが、ラミナさんは
「だから私たちも彼女に関しては一切の情報がないのです」
と返す。なおも諦めずに
「だったらどうやって印税を渡しているのかしら?」
と言われたラミナさんは
「それは銀行への振り込みです」
と答えるとリリアーナ王女は
「ということは彼女はそれなりの身分の人ということよね。でなければ銀行に口座は開設できないのだから」
そう言われてラミナさんは疲れたようにため息を吐きながら
「とにかく私はそれ以上は存じ上げません」
と返した。それでもまだ諦めず、挙句に
「わたくしを誰だと思っているの? 東の国の第一王女なのよ」
と今度は権力を振りかざした。
その会話を聞いていた私はラミナさんに申し訳なく思い、思わず前に飛び出してしまった。そしてリリアーナ王女に
「アリーシャ・ポートランドは私です」
と真実を言ってしまった。私は開き直り、今さら隠す理由はないので堂々と立ちはだかった。すると王女様は
「は? なぜ貴方がここにいるのよ」
「だから私がそのアリーシャ・ポートランドだからです」
と言い返した。王女様は少し混乱しているようだったので続けて
「アリーシャ・ポートランドというペンネームは私の亡くなった母の名前からとったんです」
と言うと、やっと理解したようで
「ならこの本にサインをなさい」
と言って、私の初期に出した小説を差し出した。私は心の中で『一応私の本の読者みたいね』と思い、本の裏表紙をめくり、初めてのサインをした。
そしてその様子を呆気に取られて見ていたラミナさんが
「正体を明かしてよろしかったんですか?」
と尋ねたので、私は
「もう隠す必要はなくなりましたので、心配には及びません」
と答えた。王女様を見ると口元が少し笑っているようで嬉しさを隠しているのがわかり、なんだか可愛らしく感じてしまった。
そしてラミナさんはリリアーナ王女に
「王女様はアリーシャ・ポートランド先生の初めてのサインをいただいた方になりますね」
と言うと、彼女はとっても嬉しそうに
「そ、そうね、わたくしが一番ということね」
と照れ隠しをなさっていた。そして納得したのかあっという間に去っていかれた。
残された私たちは顔を見合わせて吹き出してしまった。そして私は
「これからは堂々と顔を隠さず表に出てもいいかなと思っています」
と告げた。するとラミナさんは
「何か心境の変化でもありましたか?」
と尋ねてきたので
「冷静に考えれば、もう隠す理由がなくなったなと感じただけです」
と答えた。するとラミナさんは
「なんだか強くなられましたね」
と微笑まれた。私は
「そうかしら」
と返してから
「これからは強さも必要とされるのね」
と自分に言い聞かせるように答えた。ラミナさんはそんな私に
「もう充分にお強いですよ。こんな言い方、王妃様には失礼ですね」
と言うので
「未だ王妃ではないし、私達だけの時は今まで通りとお願いしましたよね」
と言うと
「そうでした」
と笑っでくれた。
その後、私は公爵邸へと帰っていった。