第4話 違和感
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第四話
三日後、赤松と青山はいつものように仕事をこなしていた。どこか心に引っかかるものがあったが、二人ともその思いを深く追い詰めることはなかった。突然、赤松のスマートフォンが鳴り響く。
「赤松、君か?」
電話の向こうは部内の先輩だった。声にはいつになく緊張が感じられた。
「どうしました?」
「…すまない、山崎が死んだ。」
その一言に、赤松は言葉を失った。心臓が止まるかのように冷たくなった。青山もその声を聞いた瞬間、何かが胸を締め付けるような感覚に襲われる。
「山崎が…?」
赤松が驚きの声を上げると、先輩は続けた。
「自殺だ。ギャンブルで追い詰められていたらしいが、昨日の夜、家で遺書を残して自殺したってことだ。」
その言葉を聞いた赤松は、目の前がぼやけ、耳鳴りがしてきた。青山はその場で静かに息を吐きながら、赤松に向かって少し声をかける。
「…嘘だろ。」
赤松は何も言わず、目を閉じて静かに立ち尽くした。心の中で無数の言葉がぐるぐると渦を巻いていた。山崎が死ぬなんて、あまりにも予想外だった。あの時、励ましの言葉をかけたのは自分たちだったはずなのに。
青山が赤松を見つめ、低い声で言った。
「どうしてこんなことになったんだろうな。」
「俺がもっと力になれていれば…。」
赤松は自分を責めるように呟き、携帯を握りしめた。
「もう一度、あいつに会って、しっかり話すべきだった。」
青山はその言葉に頷き、少し声を落として続ける。
「俺たちだけで解決できることじゃないけどな。どこかで見落としていたことがあるのかもしれない。」
その後、二人は山崎の家族や会社の対応を考えながら、心の中でどこか引っかかる不安を感じていた。山崎が死ぬ直前に見せていた兆し、そしてその言葉が頭をよぎる。
「山崎、どうしてそんなことに…。」
突然の出来事に、赤松は心の中で何かが崩れたように感じていた。自分の無力さを痛感しつつも、胸の中で何かしらの恐れと疑念が湧き上がってくる。それは、山崎が本当に自殺したのか、それとも他に何か別の力が働いていたのではないかという思いだった。
青山もまた、その深い沈黙を破らずに思いを巡らせていた。山崎の死に、何かが関係している気がしてならなかった。
葬儀の日、青山と赤松は山崎の遺体を前に静かに立ち尽くしていた。周囲の親しい人々が集まる中、山崎の奥さんがふと青山の前に歩み寄ってきた。
「青山部長、お話ししたいことが…。」
彼女は青山に小さな封筒を差し出した。青山はその手紙を受け取り、封を開けると、そこには山崎の字で一言、書かれていた。
「何かがおかしい。調べてくれ。」
その言葉が青山の胸に重く響いた。青山は手紙をじっと見つめ、すぐに奥さんに尋ねた。
「この手紙、山崎さんが書いたものですか?」
奥さんは頷き、深い沈黙の後に言葉を続けた。
「はい、確かに彼の字です。でも…」奥さんの目が一瞬揺れる。「彼がこんなことを書くなんて、あり得ません。山崎はギャンブルには手を出さないタイプでしたし、家計にも手をつけることはなかったんです。」
青山は言葉を選ぶようにして聞いた。
「それでも、どうしてギャンブルで借金を…?」
奥さんは目を伏せて、しばらく黙っていた。
「実は…1ヶ月くらい前から、山崎の様子が変わったんです。それまではお金のことで悩んだり、無駄遣いをすることもなかったのに、急に夜遅くまで帰らないことが増えて、どこかに出かけることもありました。」
青山は奥さんの言葉を慎重に受け止めながら、頭の中で山崎のことを思い返した。何かが引っかかる。しかし、その正体がわからない。山崎がこんな状況に陥った理由、そして手紙の意味。青山の目が険しくなる。
「分かりました。」青山は決意を込めて言った。「山崎さんの死に関して、必ず調べます。」
奥さんは感謝の気持ちを込めて静かに頭を下げた。
「お願い…お願いします。私はただ、真実を知りたいだけなんです。」
青山は奥さんに優しく微笑み返し、そっと手紙を折りたたんだ。
その後、青山と赤松は葬儀を終え、山崎の家に戻ることにした。二人の頭の中には山崎の様子がどうしても引っかかっていた。突然の変化、そして手紙に書かれていた「何かがおかしい」という言葉。その言葉が示唆しているのは、何かが山崎に対して力強く働きかけていたのではないかということだ。
赤松は青山に声をかける。
「時生、これまでのこと、少し整理しよう。」
青山は頷き、少し遠くを見るような目をして言った。
「そうだな。何かがおかしいんだ。確かに。」
二人はその後、山崎の様子を振り返りながら、何か不自然な点があったのではないかと考え始める。山崎が変わった時期、ギャンブルにはまるようになった理由、そしてその直後に命を絶ったことに、何かしらの大きな力が影響を与えているのではないか…そう思わずにはいられなかった。
次に、赤松はふと、山崎が亡くなる前に話していたことを思い出す。励ましの言葉をかけたその時、何かが隠されていたのではないか。疑念が深まり、二人は山崎の周辺をさらに調べる決意を固めるのであった。
数日後、青山は会社の経理データや内部情報を慎重に調べた結果、衝撃の事実にたどり着いた。
「…山崎は、横領なんかしてなかった。」
赤松の前に資料を広げながら、青山は低い声で言った。
「え? でも会社の金を使い込んでたって話だったろ?」
「それが違った。経理のデータを調べても、不正の形跡はどこにもなかった。借金を返済するために会社の金に手をつけたなら、どこかに痕跡が残るはずだ。でも、それがまるでない。」
赤松は腕を組んで考え込む。
「じゃあ、家の金を使ってたって線は?」
「それも違う。奥さんに確認したが、通帳もクレジットカードの履歴も問題なかった。そもそも、山崎の借金ってなんだったんだ?」
赤松は背筋に冷たいものが走るのを感じた。借金が存在しなかったのだとしたら、山崎が苦しんでいた理由は何なのか? 何か別の要因があったのではないか?
その日の午後、赤松は別の同期である藤井と会うことにした。山崎のことをそれとなく探るためだ。
待ち合わせ場所のカフェに着くと、藤井はすでに席についていた。コーヒーカップを指でなぞりながら、何か考え込んでいるようだった。
「待たせた。」
赤松が席に座ると、藤井は顔を上げて軽く笑った。
「珍しいね、赤松から誘ってくるなんて。」
「ちょっと聞きたいことがあってな。」
赤松がストレートに切り出すと、藤井は「うん?」と首を傾げる。
「山崎のこと、何か気になることなかったか?」
藤井は少し考え込んだ後、ため息をついた。
「…そういえば、念冶に話してなかったっけ? 山崎と高橋、昔付き合ってたんだよ。」
「…え?」
赤松は一瞬、耳を疑った。
「いつの話だ?」
「15年くらい前かな。割と本気だったみたいだけど、結局別れた。でもね…最近の山崎、変だったでしょ? それに高橋も、どこか様子がおかしかった。」
「高橋も?」
藤井は少し周囲を気にしながら、声を落とした。
「山崎が亡くなる前、高橋、妙にピリピリしてたんだよ。私がちょっと冗談を言っただけで、すごい剣幕で怒ったりしてさ。あの高橋がだよ? なんか…ずっと何かに怯えてるみたいだった。」
その夜、赤松は青山に連絡を入れ、藤井から聞いた話を伝えた。
「時生、高橋の様子、調べた方がいいかもしれない。」
「どういうことだ?」
「藤井から聞いたんだ。山崎と高橋、昔付き合ってたらしい。そして最近の高橋の様子もおかしかったって。」
電話の向こうで、青山が息をのむのが分かった。
「……そうか。」
「なあ、やっぱり何かあるんじゃないのか? 山崎の死と関係が—」
「念冶。」
青山の低い声が遮った。
「高橋には近づくな。」
赤松は言葉を失った。
「……どういう意味だ?」
「ただの勘だ。」
そう言った青山の声には、普段の冷静さとは違うものがあった。
直感的に、赤松は思った。
—時生は、何か知っている。
数日後。
赤松はモヤモヤした気持ちを抱えたまま、高橋の様子を探る機会をうかがっていた。しかし、青山の「高橋には近づくな」という言葉がどうしても頭を離れない。
青山の「勘」は単なる直感ではない。何かを知っているはずだ。しかし、今は問い詰める時ではないと赤松は判断した。
そんな中、会社の昼休み、偶然にも高橋とすれ違った。
「……お疲れ。」
赤松が何気なく声をかけると、高橋はピクリと肩を揺らし、ぎこちなく笑った。
「ああ、お疲れさま。」
以前のような余裕のある雰囲気はどこかに消え、目の下には隈ができている。
「ちゃんと寝てるか?」
「え?」
「いや、顔色が悪い。無理してないか?」
高橋は一瞬、何かを言いかけたが、すぐに口を閉じた。そして、小さく笑う。
「心配してくれてありがと。でも、大丈夫。」
そう言って足早に去っていく高橋を、赤松はじっと見つめた。
やっぱり、何かがおかしい。
昼休みが終わる頃、赤松のスマホが震えた。画面を見ると青山からのメッセージだった。
「今夜、時間あるか?」
その夜、二人は居酒屋の個室で向かい合っていた。
青山はグラスを傾け、低い声で切り出した。
「……山崎の死因、警察の発表では自殺だったが、どうも腑に落ちない。」
赤松はグラスを置き、じっと青山を見た。
「調べたのか?」
「ああ。知り合いに当たってみた。遺書が見つかってるが……妙なんだ。」
「妙?」
青山はテーブルに肘をつき、声を落とす。
「山崎の字で書かれてはいる。でも、内容が……違和感がある。」
「どういうことだ?」
青山はスマホを取り出し、画像を見せる。そこには、山崎の遺書の一部が映っていた。
「これは……?」
「この筆跡、お前、どう思う?」
赤松は画面を覗き込む。確かに山崎の字には見える。しかし、どこか不自然だ。
「いつもより字が硬いな……緊張してたのか?」
「かもしれない。ただな、一番気になるのは内容だ。」
赤松は画面をスクロールし、内容を読んでいく。
――もう、限界だ。すべて終わりにする。迷惑をかけて申し訳ない。
その後に続く文章が、赤松の目に引っかかった。
「……高橋には近づくな?」
思わず、赤松は声に出した。
「そうだ。山崎は、遺書の最後にわざわざこう書いていた。」
赤松はゴクリと喉を鳴らした。
「なんでわざわざ高橋の名前を……?」
「わからない。ただ……」
青山はスマホを置き、ゆっくりと息を吐いた。
「山崎が亡くなる前日、会社を出る直前の映像がある。」
スマホの画面が切り替わる。そこには、山崎のすぐ後ろを歩く人物が映っていた。
「こいつ……まさか……」
「……高橋だ。」
画面に映るのは、明らかに高橋だった。
「山崎が亡くなる前日、高橋と会っていた。」
赤松は思わず息をのむ。
「……なあ、時生。」
「ん?」
「高橋には近づくなって、お前……何か知ってるのか?」
青山はしばらく沈黙した後、ポツリとつぶやいた。
「……いや、まだ何も確証はない。ただの勘だ。」
そう言った青山の目は、普段よりも鋭く、どこか険しかった。
赤松は、目の前のスマホ画面に映る高橋の姿をじっと見つめた。
山崎の遺書に「高橋には近づくな」と書かれていたこと。
山崎が亡くなる前日に高橋と会っていたこと。
そして、青山が「勘」で高橋を警戒していること。
――偶然にしてはできすぎている。
赤松はゆっくりと息を吐き、グラスの縁を指でなぞった。
「……俺の考えを言っていいか?」
青山はグラスを置き、無言で頷く。
「山崎が亡くなる直前に高橋と会っていたって事実は無視できない。でも、高橋が直接手を下したとは思えない。」
「理由は?」
「もし山崎が何かに追い詰められていたとしても、高橋に『近づくな』って書き残す意味がわからない。普通なら『助けてくれ』とか、何かヒントを残すだろ。」
「確かにな……」
「つまり、山崎は高橋のことを『巻き込まれた側』だと思ってたんじゃないか? もしくは、何かを知っていた。」
青山は腕を組み、じっと考え込む。
「……確かに、それなら辻褄が合うな。」
赤松はさらに続けた。
「それに、山崎はもともとギャンブルをやるような人間じゃなかった。家計の金にも手をつけてない、会社の金も横領してない。じゃあ……本当は、何に巻き込まれたんだ?」
「それを知ってるのが高橋、ってことか。」
赤松は静かに頷いた。
「俺は、高橋と直接話すべきだと思う。」
青山はじっと赤松を見つめた後、小さく息をついた。
「……やっぱりそう言うと思ったよ。」
「俺の性格、よくわかってるな。」
「長い付き合いだからな。」
青山は苦笑した後、真剣な目で赤松を見据えた。
「ただし、一つ条件がある。」
「なんだ?」
「俺も一緒に行く。」
赤松は目を見開いたが、すぐに苦笑した。
「……お前、本当に心配性だよな。」
「お前が無鉄砲すぎるんだよ。」
そう言って青山はグラスをあおる。
赤松は改めて、高橋に対する違和感を噛みしめながら、これからのことを考えていた。
――高橋に話を聞けば、何かがわかる。
でも、その「何か」が単なる疑惑で済むものなのか、それとももっと大きな問題なのかは、まだ誰にもわからなかった。
最後までお読みいただきありがとうございました。