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「あれもこれも思い悩んで、人間様はご苦労なことだな」


 事務所に戻ってからしばらく。

 黙々と手帳に向かう暁に、烏丸がつまらなそうに悪態を吐く。


 はいはいと聞き流しつつ、暁は先ほどカミキリに聞いたことを思い返した。


 カミキリ少女も、琴美に対する嫌がらせのことは把握していた。

 時折、琴美の心労を案じて不審者を探ったこともあるらしいが、結局それらしい者は見つからなかったのだという。


「カミキリちゃんがあの美容室をうろついていたなら、琴美さんの嫌がらせ犯も目撃していないかと思ったんだけどね」

「そう簡単にいけば、お前の商売もあがったりだろ」

「ふは。確かに」


 とはいえ、密かに期待していた証言は得られなかった。

 となると、次の手立てを考えるほかない。


「でも、カミキリちゃんには感謝だよ。色々と有益なことは聞くことができたからね」


 静かに手帳を見つめる暁に、烏丸はそれ以上口を開くことはしなかった。

 先ほど、暁がカミキリに向けた質問は三つだ。


 一つ目は、美容室周辺で不審者を目撃したことはなかったか。

 二つ目は、カミキリが琴美の美容室に通い始めたのはいつ頃か。


 そして三つ目は──『カミキリは最近、誰かの髪を切ったことはないか』だ。


「ふー。疲れたあ」


 作業を一区切りつけると同時に、どっと体が重くなる。

 ここはコーヒーの出番だ。ふらふらと事務書奥の給湯室へ向かうと、暁はポットの電源を入れた。


「ね。烏丸にも、憧れの存在っているの」

「なんだ、藪から棒に」

「いや。カミキリちゃんが言ってたでしょう。琴美さんを始め、美容師の人はみんな自分の憧れだって」


 喫茶店で話したときも、質問事項以外はただひたすらに美容師への思いの丈を話していた。

 普段周囲に、このような話をできる者が少ないのかもしれない。


「カミキリちゃんも、本当に瞳をキラキラさせてた。憧れの人がいると、辛いときも力が出るよねえ」

「まるで自分にも、憧れの対象がいるような口ぶりだな」

「いるよ? 保江姉さん」


 烏丸の瞳が、僅かに見開いた。


「自分で言うのもなんだけど、私って小さいときから問題児でね。感情の起伏が激しいし、気にくわない奴にはしょっちゅう手え出すし、家では厄介者扱いだった」

「……」

「今思えばあの家から逃れたいっていう、子どもながらの抵抗だったんだけど。それでも姉さんだけはいつも優しくて温かくて……本当に大好きだった。もちろん、今でもね」


 保江の微笑みは、暁の記憶に強く焼き付いている。


 どんな感情にあっても、その笑顔を脳裏に見るだけですっと芯が通る気がしていた。

 あの笑顔に恥じる生き方はしたくない、と。


「千晶の奴も、あの女には絶大な信頼を置いていたな」

「そりゃ、千晶にとっては唯一無二のお母さんだもん。信頼して当たり前じゃない」

「……あれも、随分と買い被られたものだ」


 それはどこか含みのある、皮肉めいた言葉だった。


 思わず眉を寄せ視線を向けた暁だったが、そのまま動きを止めた。

 コーヒーのついでに淹れてきたホットミルクが、盆の上でたぷんと波打つ。


 烏丸が浮かべていた表情は、予想していたものとは真逆だった。


 昔を懐古するように、静かに微笑する横顔。

 まるで春の木漏れ日のように儚いそれは、穏やかで優しくて、哀しい。


「……烏丸?」

「なんだ」

「あ、ううん。なんでもない」


 怪訝そうな顔を向けられ、暁は早々に話を切った。


 隣に腰を下ろし、特に会話はないながらも共に時間を有する。

 ホットミルクを無表情で喉に通す烏丸はいつも通りだ。それなら何も問題ない。ただ。


「一人じゃないからね」


 さっき垣間見た横顔が、まるで泣いているように見えたから。


「……は?」

「千晶も烏丸も、一人じゃないからね」


 この二人は、共にありながら時折酷く孤独に浸った目をする。


 人の家に転がり込んでおいて、人の日常に有無を言わさず入り込んでおいて。それはあんまりじゃないか。

 テーブルに置いたままのコーヒーの湯気をぼうっと見送る。

 ゆらゆら、ゆらゆら。


「烏丸には、千晶がいるから。それに、今は私も」

「お前」

「だから」


 一人で寂しそうな顔、しないでね。


 最後まで言葉になったのかはわからない。

 湯気が部屋のどこかへ消えていくように、暁のまぶたは重力に従ってそっと下ろされた。

 そういえば、午前中に一人で体力仕事をこなしたんだっけ……。


「おい」「寝たのか」「業務時間内だろ」「起きろこら」いつの間にか右こめかみに触れた温もりを感じながら、暁は眠りの世界に落ちていく。


「……警戒心皆無じゃねえか。この馬鹿」


 最後に囁かれた言葉は、理解が及ぶより早く睡魔に溶かされていった。


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