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「自分の子どもが、痴漢被害に遭っているようなんです」


 数日前に事務所を訪れた中年の女性は、数分間言葉を探しあぐねたあとにそう告げた。


 警察や弁護士事務所を避けてよろず屋である暁の元へやってきたのは、事を荒立てるのを避けたかったからだという。

 万一逮捕だなんだと騒ぎになった場合、被害者への好奇の二次被害が起こらないとも限らない。


 そして今朝、前調査を終えた暁が初めて現場に踏み込んだ朝だった。


「えーと。留守中の依頼が二件、ひとつは新規でもうひとつは……ああ、谷中(やなか)のおばあちゃん。そろそろガーデニング手伝いの時期だもんね」


 留守電の録音を確認しながら、暁は事務所奥のデスク席に腰を下ろした。


 顧客名簿を確認しながら、二件の依頼主に早々に電話を済ませていく。

 新規顧客の依頼内容は一秒でも早くさばくに限る。ふわふわした予定が漂った状況は、のんびりとはほど遠い暁の性に合わないのだ。


 その後いくつかスケジュール確認を行ったあと、両手の指同士を絡め、暁は頭上に向かって大きく伸びをした。


 七々扇暁は、今年で二十八歳になる。性別は女だ。


 単身で営む『七々扇よろず屋本舗』は、その名の通り、よろずのことを引き受ける何でも屋である。

 庭掃除から仕事の助っ人、ペットの散歩、チラシ配り、パソコンの設定、引っ越し手伝い、その他もろもろ、ありとあらゆる困りごとが持ち込まれる。


 女に不向きでは? 周囲からよく言われるその職を始めた理由は、「その方が都合が良いから」だった。


 高校進学と同時に家を出る決意をした暁は、その土地の権力者だった父親と真っ向から対立した。二度と村に帰るつもりはなかった。


 一人で生き抜く力を身につけるため、暁はありとあらゆる手段を行使した。

 数え切れないほどの職種に就いた。ときに性別を偽ったことも。ただただ、親の呪縛から解かれるのに必死に生きた。


 その結果、花の二十歳を迎える頃には、大概の仕事や作業をこなせる可愛くない女が仕上がっていた──というわけだ。


「よしよし。依頼主への報告電話も終わり、最終報告書の作成も終わり。これで今日のお仕事は終わり!」


 窓を見ると紅蓮の夕焼けが事務所をまっすぐに覗きこんでいた。

 ここは坂道があちこちに連なっているからか、なかなかに見晴らしがいい。


 日当たりのいい事務所兼自宅の立地に改めて感謝しつつ、暁は夕飯の買い出しに事務所を出た。


 今日のご飯はどうしようか。ひとまず、安くなっている魚でも見繕うとしよう。

 一人分の短時間でできる献立をあれこれ頭に浮かべ、戸に鍵を差し込む。

 事務所前の道には帰宅途中の女子高生の姿がちらほら見られる。

 先ほどの自分と同じブレザー姿と比較すると、彼女たちの溢れんばかりの瑞々しさには到底及ばない。そろそろ女子高生姿での仕事も限界かもな、と暁は苦笑した。


 そのとき、ふと妙な感覚が暁を襲った。

 何かに促されるように、アーケードが開けた下り坂の方向に視線を向ける。

 え、なんだろう。一体なに──。


「っ──みんな伏せて!!」


 店先にいた女子高生達に大声で叫び、自身も身を伏せる。

 瞬間、虚空を切り裂くような凄まじい突風が吹き抜けた。


「えっ」「わ」「なにっ」

「っ、きゃ」


 地面に手をついたまま風圧に耐えるのと同時に、頬をなにか掠めた。痛い。


 しばらく身を固めていると、辺りにいつもの街の音が戻ってくる。

 問題なく呼吸ができることを確認すると、ふーっと長く深呼吸をした。


 風の流れた方へ視線を向けると、暁と同様、突然の突風に呆然とする人々の姿がある。

 どうやら今の風は、商店街のアーケードを通り道に通過していったらしい。


「あっぶなー! 今のって竜巻?」

「てか髪ぐしゃぐしゃなんだけど!」


 少し間を置いて再開された女子高生たちの賑やかな会話が、硬直した空気を元に戻していった。


「あ、やっぱよろず屋の暁ちゃんだ。さっきの『伏せて』って声、暁ちゃんだよね? ありがと!」

「ん。もの凄い風だったねえ。君ら怪我はない?」

「うちらは何とも! でも普通にびびったよねー」

「てか私聞いちゃったよ。暁ちゃん、小さい声で『きゃっ』だって。かーわーいー」

「……うっさいよ。花のJK集団は暗くなる前におうちにお帰り」


 きゃっきゃと顔を綻ばせながら手を振る女子高生たちに、暁も手を振り返す。


「……あーあ」


 自分のとっさの言葉に、照れよりも脱力感を強くする。


「きゃっ」ってなんだ、「きゃっ」って。


 先ほど痛みが走った頬を軽く擦る。きっと突風に巻き上げられた葉でも擦れたのだろう。

 こぼれそうになったため息を飲み込んで、暁は今度こそ事務所の鍵を閉めた。




 権三郎坂商店街には、不思議なことに八百屋、肉屋、魚屋といった典型的な店舗が存在しない。


 そのため商店街の人間といえど、日々の食材の調達はもっぱら坂を下りきった角にある中規模スーパーに頼っていた。

 スーパーで安くなっていた好物の塩さばと適当な野菜を見繕い、暁は早々にセルフレジで精算を済ませた。

 今月一日からレジ袋が有料化になってしまったが、今のところエコバッグに移行する予定はない。

 細かなゴミ出しや汚物処理など、ビニール袋はよろず屋稼業にも役立つ場面が多いのだ。


「お。五時を過ぎたか」


 自宅とスーパーの中間地点を横断するのは、複数の市にまたがりここまで流れ着いた間黒川だ。

 その上をまたぐように架かる間黒新橋は割と歴史の浅いもので、他の橋の中では比較的美しく保たれていた。


 復路として再びその橋に差し掛かった暁は、川沿いの提灯が放つ淡い光に思わず目を奪われた。


 川沿いの遊歩道は桜並木になっていて、三月下旬からしばらくはこの桜目当ての人が溢れかえる。

 平日でも普段の倍以上の人が訪れ、川べりで思い思いに桜を愛でていた。


 ここに住み着いて五年。この桜の光景は、いつ見ても胸の奥がじんと震える。

 決して細くない川の両端から、覆い被さるように咲き誇る桜は見事の一言で、間黒市民の誇りでもあるのだ。

 お、また風が来る。


「アキちゃん?」


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